三太郎さん
レビュアー:
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山奥のかくれ里にいにしえの仏像や工芸品を訪ねる24の旅
澁澤龍彦の奥さんの龍子さんが書いた本の中に、澁澤と二人で白洲正子が旅した近江の隠れ里を訪れたことが記されている。龍子さんは編集者の時代に白洲さんのエッセイを担当したとか。このエッセイの現場をよく知っていたのかも。
白洲さんは1910年(明治43年)の生まれだ。そしてこの本が新潮社から出されたのが1971年だった。白洲さんは還暦になっても精力的に取材に出かけていたらしい。50歳の時に能の免許皆伝を授かったとか。このエッセイもお面の話から始まっている。
今回の旅は滋賀県を中心に、南は高野山周辺、北は福井、西は京都、東は愛知、岐阜までの範囲の山の中のかくれ里のいにしえの仏像や工芸品を訪ねる24の旅である。僕が今住んでいる滋賀の旅を幾つか紹介していきたい。
最初は甲賀の油日(あぶらひ)神社である。田園とその南の鈴鹿山脈の間に油日岳がある。この山に面して小さな鳥居が立っていた。進むと深い木立に囲まれた油日神社に着く。ここで「田作福太夫神ノ面」(写真1)を見せてもらう。1508年の作らしい。民芸品ではなく高度な技術を持った名工の作だと思われる。甲賀の南の伊勢との関係が窺われる。この面は室町期の作だが、推古朝の呉公という伎楽面に似ていた。伎楽はギリシャから西域を経て朝鮮経由で7世紀に日本に伝わった。その技術がこの片田舎に伝わって残っていたことになる。
また油日神社にはお面の作者による「ずずいこ様」(写真2)という赤ん坊の姿の像が伝わっている。ただしこの像は姿は赤ん坊だが、両足の間に長いペニスが付いている。お祭りの日には福太夫がこのペニスで田を耕して回ったという言い伝えが残されていた。豊作のためのまじないだろう。
鎌倉期の「教訓抄」に伎楽についての記述がある。伎楽の中に崑崙舞という曲があり、崑崙という野蛮人が呉王の娘(呉女)を追い回す場面があり、崑崙は「マラカタ拍テ」呉女への切なる思いを表現する(あまりにも直接的な愛情表現でビックリだが)。崑崙は呉女を助けにきた金剛力士に「マラカタニ縄ヲ付テ」引っ張っていかれるらしい。マラカタとは無論ペニスのことだ(あまりに陽気なので卑猥な感じがしない)。伎楽面は正倉院や法隆寺にも残っていて、当時は宮廷や寺院でこんな出し物が演じられていた。
(ここで白洲さんは古代ギリシャ劇の性の露骨で異国的な表現が日本に伝わったと考えているが、これは怪しい。古代人の想像力はギリシャでも日本でもそうは変わらず、性行為を恥ずかしがる意識はなかったのではないかな。)
次は琵琶湖を巡る近江の石の旅である。琵琶湖の周辺には至る所に古墳群がある。これらは必ず神社が近くにある。古墳は巨大な石を山の上まで運んで造った。時代が下って寺院の時代になっても石塔が多く建てられている。石塔の建て方には古墳の造り方と共通の技術があるらしい。近江には優れた石仏も多い。
比叡山の琵琶湖側にある日吉大社には、秀吉が奉納した石橋や石垣がある。これらは「穴太(あのう)衆」が造ったものだ。穴太衆は日吉大社に近い穴太(今は坂本)にいた石積みの専門集団だった。穴太はもとは古墳の穴掘りと関係した地名だという。近江に名城が多いのは穴太衆がいたからだろう。
最後は木地師の村を訪ねる旅だ。白洲さんは日頃から朽木(くつき)盆とか朽木椀とかよばれる食器を使っていた。江戸中期のものだとか。近江の北の朽木谷には古くから木工を専門とする集団がいて、このような食器を大量に作っていた。彼らは木地師,木地屋、ろくろ師,こま師などと呼ばれ、良材を求めて諸国を旅する流浪の民であった。彼らの本拠地は近江の愛知郡小椋(おぐら)谷にあり、全国の木地師もいつの時代かそこから分かれた人たちである。
(注:東北地方に木地師が進出しロクロの技術を伝えた時期ははっきりしていて、蒲生氏郷が1590年に秀吉の命で福島県の会津若松に移封された際、彼の郷里の近江の木地師を連れてきたという。飯豊山中の川入集落はみな小椋姓で木地師の末裔だという。)
白洲さんは、近江には赤鶴と越智という傑出した面打ちがいたと世阿弥が書いているが、もしかすると木地師の一族だったのではと想像している。
旅は小椋谷の奥をめざす。八日市から南へ愛知川を遡り、途中で北へ折れてさらに進むと昔「越智の荘」と呼ばれた政所につく。この辺りには室町・桃山期の能面がたくさん残っている。さらに渓谷に沿って登っていくと蛭谷の集落につく。木地師には筒井姓と小椋姓(小倉、大倉ともかく)が多いが、村はずれに信州の小椋なにがしの名が刻まれた庚申塚があった。
蛭谷をさらに登っていくと秘境の「君ヶ畑」につく。君ヶ畑には惟喬(これたか)親王伝説がある。白洲さんは「畑」が渡来人の「秦」氏に由来するのではと考える。秦氏の一族がロクロの技術を伝えたのではないか。ここの神社にはご神体になっている能面がある。写真で見ると、刀の跡がするどく、気魄に満ちていて木地師が彫ったもののように見える。日本の仮面はもとは神像の代わりに作られ、次第に芸能の世界へ入っていったのだろうと、白洲さんは考えた。
まだまだ旅は続きますが、今日はこの辺で・・・。
註:写真1と2は油日神社民俗資料館のサイト[https://www.aburahijinjya.jp/rekimin.html]より転写しました。本の挿絵の写真とは若干構図が異なります。
写真3は[https://e-farm.org/blog-entry-21616.html]から転写しました。
白洲さんは1910年(明治43年)の生まれだ。そしてこの本が新潮社から出されたのが1971年だった。白洲さんは還暦になっても精力的に取材に出かけていたらしい。50歳の時に能の免許皆伝を授かったとか。このエッセイもお面の話から始まっている。
今回の旅は滋賀県を中心に、南は高野山周辺、北は福井、西は京都、東は愛知、岐阜までの範囲の山の中のかくれ里のいにしえの仏像や工芸品を訪ねる24の旅である。僕が今住んでいる滋賀の旅を幾つか紹介していきたい。
最初は甲賀の油日(あぶらひ)神社である。田園とその南の鈴鹿山脈の間に油日岳がある。この山に面して小さな鳥居が立っていた。進むと深い木立に囲まれた油日神社に着く。ここで「田作福太夫神ノ面」(写真1)を見せてもらう。1508年の作らしい。民芸品ではなく高度な技術を持った名工の作だと思われる。甲賀の南の伊勢との関係が窺われる。この面は室町期の作だが、推古朝の呉公という伎楽面に似ていた。伎楽はギリシャから西域を経て朝鮮経由で7世紀に日本に伝わった。その技術がこの片田舎に伝わって残っていたことになる。
また油日神社にはお面の作者による「ずずいこ様」(写真2)という赤ん坊の姿の像が伝わっている。ただしこの像は姿は赤ん坊だが、両足の間に長いペニスが付いている。お祭りの日には福太夫がこのペニスで田を耕して回ったという言い伝えが残されていた。豊作のためのまじないだろう。
鎌倉期の「教訓抄」に伎楽についての記述がある。伎楽の中に崑崙舞という曲があり、崑崙という野蛮人が呉王の娘(呉女)を追い回す場面があり、崑崙は「マラカタ拍テ」呉女への切なる思いを表現する(あまりにも直接的な愛情表現でビックリだが)。崑崙は呉女を助けにきた金剛力士に「マラカタニ縄ヲ付テ」引っ張っていかれるらしい。マラカタとは無論ペニスのことだ(あまりに陽気なので卑猥な感じがしない)。伎楽面は正倉院や法隆寺にも残っていて、当時は宮廷や寺院でこんな出し物が演じられていた。
(ここで白洲さんは古代ギリシャ劇の性の露骨で異国的な表現が日本に伝わったと考えているが、これは怪しい。古代人の想像力はギリシャでも日本でもそうは変わらず、性行為を恥ずかしがる意識はなかったのではないかな。)
次は琵琶湖を巡る近江の石の旅である。琵琶湖の周辺には至る所に古墳群がある。これらは必ず神社が近くにある。古墳は巨大な石を山の上まで運んで造った。時代が下って寺院の時代になっても石塔が多く建てられている。石塔の建て方には古墳の造り方と共通の技術があるらしい。近江には優れた石仏も多い。
比叡山の琵琶湖側にある日吉大社には、秀吉が奉納した石橋や石垣がある。これらは「穴太(あのう)衆」が造ったものだ。穴太衆は日吉大社に近い穴太(今は坂本)にいた石積みの専門集団だった。穴太はもとは古墳の穴掘りと関係した地名だという。近江に名城が多いのは穴太衆がいたからだろう。
最後は木地師の村を訪ねる旅だ。白洲さんは日頃から朽木(くつき)盆とか朽木椀とかよばれる食器を使っていた。江戸中期のものだとか。近江の北の朽木谷には古くから木工を専門とする集団がいて、このような食器を大量に作っていた。彼らは木地師,木地屋、ろくろ師,こま師などと呼ばれ、良材を求めて諸国を旅する流浪の民であった。彼らの本拠地は近江の愛知郡小椋(おぐら)谷にあり、全国の木地師もいつの時代かそこから分かれた人たちである。
(注:東北地方に木地師が進出しロクロの技術を伝えた時期ははっきりしていて、蒲生氏郷が1590年に秀吉の命で福島県の会津若松に移封された際、彼の郷里の近江の木地師を連れてきたという。飯豊山中の川入集落はみな小椋姓で木地師の末裔だという。)
白洲さんは、近江には赤鶴と越智という傑出した面打ちがいたと世阿弥が書いているが、もしかすると木地師の一族だったのではと想像している。
旅は小椋谷の奥をめざす。八日市から南へ愛知川を遡り、途中で北へ折れてさらに進むと昔「越智の荘」と呼ばれた政所につく。この辺りには室町・桃山期の能面がたくさん残っている。さらに渓谷に沿って登っていくと蛭谷の集落につく。木地師には筒井姓と小椋姓(小倉、大倉ともかく)が多いが、村はずれに信州の小椋なにがしの名が刻まれた庚申塚があった。
蛭谷をさらに登っていくと秘境の「君ヶ畑」につく。君ヶ畑には惟喬(これたか)親王伝説がある。白洲さんは「畑」が渡来人の「秦」氏に由来するのではと考える。秦氏の一族がロクロの技術を伝えたのではないか。ここの神社にはご神体になっている能面がある。写真で見ると、刀の跡がするどく、気魄に満ちていて木地師が彫ったもののように見える。日本の仮面はもとは神像の代わりに作られ、次第に芸能の世界へ入っていったのだろうと、白洲さんは考えた。
まだまだ旅は続きますが、今日はこの辺で・・・。
註:写真1と2は油日神社民俗資料館のサイト[https://www.aburahijinjya.jp/rekimin.html]より転写しました。本の挿絵の写真とは若干構図が異なります。
写真3は[https://e-farm.org/blog-entry-21616.html]から転写しました。
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1957年、仙台に生まれ、結婚後10年間世田谷に住み、その後20余年横浜に住み、現在は仙台在住。本を読んで、思ったことあれこれを書いていきます。
長年、化学メーカーの研究者でした。2019年から滋賀県で大学の教員になりましたが、2023年3月に退職し、10月からは故郷の仙台に戻りました。プロフィールの写真は還暦前に米国ピッツバーグの岡の上で撮ったものです。
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- 出版社:講談社
- ページ数:341
- ISBN:9784061961227
- 発売日:1991年04月03日
- 価格:1155円
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