三太郎さん
レビュアー:
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16世紀のイスラム国家でのコーヒーハウスの大流行が今日のコーヒーの隆盛のもとだった。アラビアのメッカはコーヒーにとっても聖地であった。
コーヒーの歴史に関する本はこれまでもレビューしてきたが、本書ではメッカからイスタンブールへ、イスラム圏でコーヒーハウスが広がっていく様子が描かれていて、目からうろこが落ちたよう。
コーヒーはもとはイスラムのワインだったのだ。正確にはイスラムの大都市では、居酒屋でワインの代わりにコーヒーが合法的に提供されるようになり、同時代の欧州の宿屋兼居酒屋のような地域の社交場になっていたらしい。
イスラムではコーヒーはカフワと呼ばれたが、カフワとはもとは白ワインのことを指したとか。メッカのような大都市の裏通りにはイスラム教で禁じられていたカフワ(ワイン)を飲ませる店があったのだが、コーヒーを飲むことがイスラム法で禁じられないことがはっきりしてから、コーヒーを飲ませる店が一気に広まったらしい。社交場としてのコーヒーハウスは、お酒の代わりにコーヒーが飲める、合法的な居酒屋という訳だ。
コーヒーがイスラムで合法になったのはある事件がきっかけだった。それは1511年6月20日の金曜日最後の礼拝の時であった。メッカのある高官が、祈りの場でコーヒーを飲みまわしている一団に気がつき、この不埒な連中を一掃するためにメッカの幹部会で「カフワ(コーヒー)問題」を討議せさた。第一の議題は祈りの場でコーヒーを飲むことの禁止で、第二の議題はコーヒーそのものの禁止だ。
第一の議題は禁止となったが、第二の議題には異論がでた。コーランにコーヒーが禁止されていない以上、コーヒーを禁止すべき格段の理由がなければコーヒー自体を禁止はできないという意見が強かった。
そこでその高官は二人の医師を呼び出して彼らに意見を聞いたところ、医師たちはコーヒーはメンタルに悪影響があると証言した。そこでコーヒーを飲むこと自体が一旦禁止され、メッカではコーヒーへの弾圧が始まったという。
しかし、この弾圧は長くは続かなかった。会議の結論に異議があった人たちが議事録をカイロに送り、判断を仰いだところ、コーヒー自体の禁止は解かれることになり、問題の高官は罷免された。また証言に呼ばれた二人の医師は、その後、カイロがオスマントルコに征服された際に処刑されてしまった。理由は不明だが、コーヒー人気に歯向かったことが罪状になったのかもしれない。
カフワとは目を覚まさせるものという意味で、もとはイスラムのスーフィー教団のメンバーが、夜眠らずに礼拝するために愛用したとか。厭世的で禁欲的なスーフィーの教えに反して、コーヒーは社交の場で歓迎された。ただしラマダンの断食の際に特に愛飲されたのは、コーヒーが食欲を抑える働きがあったからだという。
コーヒーの栽培は当初は専らアラビア半島の西部、イエメンの高地で行われ、流通はアラブ商人が握っていたが、じきにオランダが販路をインドやアジア地域に広げ、そして自らインドネシア植民地でのコーヒー栽培に乗り出した。そうして1652年には英国のロンドンに最初のコーヒーハウスが誕生した。
イギリスではコーヒーハウスは急激に拡大し、勃興しつつあった産業資本家が世論を形成する場所となっていった。コーヒーハウスは王家につながりを持つ商業資本家(王党派)と新しい産業資本家(共和派)のせめぎ合う政治的な場所になって行く。
また、コーヒーハウスは郵便局となり、新聞を発行し、株の取引所となり、損害保険(ロイズ)を生んだ。英国での新しい制度はコーヒーハウスで生まれた。
しかし英国のコーヒーハウスは18世紀半ばには急速に廃れていく。男たちは代わりにクラブへ集うようになり、飲み物としては紅茶がコーヒーにとって代わっていく。英国ではコーヒーは女性たちに、あるいは家庭に受け入れられなかった。
イギリスと対照的なのはフランスで、ここではコーヒーハウスに女性が出入りするのも普通で、家庭でもカフェオレが飲まれるように、コーヒーが国民的な飲み物になっていった。歴史家のジュール・ミシュレは「フランス史」の中で18世紀をコーヒーの世紀だと書いたとか。フランス革命はコーヒーハウス(カフェ)で生まれた。
18世紀の半ばにはフランス領西インド諸島でコーヒーの栽培が開始され、ハイチ産のコーヒーが世界市場を席捲した。フランス人は自国産のコーヒーが飲めたわけだ。しかしこのフランス産コーヒーはアフリカからの奴隷により作られたもので、フランスの商業資本は奴隷貿易で儲け、コーヒーの貿易でも儲けたわけで、その意味でもフランスのコーヒーは18世紀を代表する商品だった。
その西インド諸島のハイチではフランス革命により奴隷は解放され、その後黒人たちはナポレオンの軍隊と戦い、独立し、1804年に黒人による初の共和国となった。コーヒーは革命の象徴だった。
一方、ドイツ、特に保守的でマッチョな文化を育んだプロイセンでは事情が異なった。19世紀初頭にはナポレオンによる大陸封鎖の影響でコーヒーが輸入できず、代用コーヒーが盛んに開発されたという。ナポレオンを打ち負かしたのはドイツ人の本物のコーヒーへの渇望だったのかも。ドイツにとっては19世紀がコーヒーの世紀だった、とカール・マルクスも書いているとか。
そして20世紀初頭にはドイツは東アフリカを植民地として、ついに自らコーヒープランテーションを経営するが、原住民を奴隷扱いして反乱を招き失敗する。当時のアフリカを訪れたある学者は、ドイツ人は英国紳士的な人材に欠けていると指摘した。ドイツの中間層は追従することは学んだが人の上に立つ(支配する)ことを学んだ人材はほとんどいない、と。
そのためドイツ人はアフリカで(遅ればせながら)人種差別の思想を育み、ナチスの優生思想を生み出したという。東アフリカ生まれで、アラビアで商品化されたコーヒーは、世界を一周して再び東アフリカに戻ってきたが、かつては自由の象徴であったコーヒーがファシズムを生むことになったのは皮肉だ。
以下、感想です。
ナチスに関して、人類学者のレヴィ=ストロースが第二次大戦中に、ナチスドイツはかつて欧州が海外植民地で行った蛮行を欧州域内で行っていると日記に書いたことを思い出しました。日本人の人種差別意識を思うと他人ごとでないことも明らかでしょう。
それにしても、「お茶」といえば日本茶とも限らず、中国茶でも紅茶でも、時にはコーヒーまでもお茶と呼んでしまう今日の日本人の生活は世界史のなかで結構ユニークなのではないでしょうか。何しろコーヒーを喫「茶」店で飲む国ですからね。僕自身は今ではコーヒーを飲まない日はない生活をしているのですが、16世紀から今日までのコーヒーの世界史を噛みしめながら苦みばしったブラックコーヒーを今日もすすろうと思います。
コーヒーはもとはイスラムのワインだったのだ。正確にはイスラムの大都市では、居酒屋でワインの代わりにコーヒーが合法的に提供されるようになり、同時代の欧州の宿屋兼居酒屋のような地域の社交場になっていたらしい。
イスラムではコーヒーはカフワと呼ばれたが、カフワとはもとは白ワインのことを指したとか。メッカのような大都市の裏通りにはイスラム教で禁じられていたカフワ(ワイン)を飲ませる店があったのだが、コーヒーを飲むことがイスラム法で禁じられないことがはっきりしてから、コーヒーを飲ませる店が一気に広まったらしい。社交場としてのコーヒーハウスは、お酒の代わりにコーヒーが飲める、合法的な居酒屋という訳だ。
コーヒーがイスラムで合法になったのはある事件がきっかけだった。それは1511年6月20日の金曜日最後の礼拝の時であった。メッカのある高官が、祈りの場でコーヒーを飲みまわしている一団に気がつき、この不埒な連中を一掃するためにメッカの幹部会で「カフワ(コーヒー)問題」を討議せさた。第一の議題は祈りの場でコーヒーを飲むことの禁止で、第二の議題はコーヒーそのものの禁止だ。
第一の議題は禁止となったが、第二の議題には異論がでた。コーランにコーヒーが禁止されていない以上、コーヒーを禁止すべき格段の理由がなければコーヒー自体を禁止はできないという意見が強かった。
そこでその高官は二人の医師を呼び出して彼らに意見を聞いたところ、医師たちはコーヒーはメンタルに悪影響があると証言した。そこでコーヒーを飲むこと自体が一旦禁止され、メッカではコーヒーへの弾圧が始まったという。
しかし、この弾圧は長くは続かなかった。会議の結論に異議があった人たちが議事録をカイロに送り、判断を仰いだところ、コーヒー自体の禁止は解かれることになり、問題の高官は罷免された。また証言に呼ばれた二人の医師は、その後、カイロがオスマントルコに征服された際に処刑されてしまった。理由は不明だが、コーヒー人気に歯向かったことが罪状になったのかもしれない。
カフワとは目を覚まさせるものという意味で、もとはイスラムのスーフィー教団のメンバーが、夜眠らずに礼拝するために愛用したとか。厭世的で禁欲的なスーフィーの教えに反して、コーヒーは社交の場で歓迎された。ただしラマダンの断食の際に特に愛飲されたのは、コーヒーが食欲を抑える働きがあったからだという。
コーヒーの栽培は当初は専らアラビア半島の西部、イエメンの高地で行われ、流通はアラブ商人が握っていたが、じきにオランダが販路をインドやアジア地域に広げ、そして自らインドネシア植民地でのコーヒー栽培に乗り出した。そうして1652年には英国のロンドンに最初のコーヒーハウスが誕生した。
イギリスではコーヒーハウスは急激に拡大し、勃興しつつあった産業資本家が世論を形成する場所となっていった。コーヒーハウスは王家につながりを持つ商業資本家(王党派)と新しい産業資本家(共和派)のせめぎ合う政治的な場所になって行く。
また、コーヒーハウスは郵便局となり、新聞を発行し、株の取引所となり、損害保険(ロイズ)を生んだ。英国での新しい制度はコーヒーハウスで生まれた。
しかし英国のコーヒーハウスは18世紀半ばには急速に廃れていく。男たちは代わりにクラブへ集うようになり、飲み物としては紅茶がコーヒーにとって代わっていく。英国ではコーヒーは女性たちに、あるいは家庭に受け入れられなかった。
イギリスと対照的なのはフランスで、ここではコーヒーハウスに女性が出入りするのも普通で、家庭でもカフェオレが飲まれるように、コーヒーが国民的な飲み物になっていった。歴史家のジュール・ミシュレは「フランス史」の中で18世紀をコーヒーの世紀だと書いたとか。フランス革命はコーヒーハウス(カフェ)で生まれた。
18世紀の半ばにはフランス領西インド諸島でコーヒーの栽培が開始され、ハイチ産のコーヒーが世界市場を席捲した。フランス人は自国産のコーヒーが飲めたわけだ。しかしこのフランス産コーヒーはアフリカからの奴隷により作られたもので、フランスの商業資本は奴隷貿易で儲け、コーヒーの貿易でも儲けたわけで、その意味でもフランスのコーヒーは18世紀を代表する商品だった。
その西インド諸島のハイチではフランス革命により奴隷は解放され、その後黒人たちはナポレオンの軍隊と戦い、独立し、1804年に黒人による初の共和国となった。コーヒーは革命の象徴だった。
一方、ドイツ、特に保守的でマッチョな文化を育んだプロイセンでは事情が異なった。19世紀初頭にはナポレオンによる大陸封鎖の影響でコーヒーが輸入できず、代用コーヒーが盛んに開発されたという。ナポレオンを打ち負かしたのはドイツ人の本物のコーヒーへの渇望だったのかも。ドイツにとっては19世紀がコーヒーの世紀だった、とカール・マルクスも書いているとか。
そして20世紀初頭にはドイツは東アフリカを植民地として、ついに自らコーヒープランテーションを経営するが、原住民を奴隷扱いして反乱を招き失敗する。当時のアフリカを訪れたある学者は、ドイツ人は英国紳士的な人材に欠けていると指摘した。ドイツの中間層は追従することは学んだが人の上に立つ(支配する)ことを学んだ人材はほとんどいない、と。
そのためドイツ人はアフリカで(遅ればせながら)人種差別の思想を育み、ナチスの優生思想を生み出したという。東アフリカ生まれで、アラビアで商品化されたコーヒーは、世界を一周して再び東アフリカに戻ってきたが、かつては自由の象徴であったコーヒーがファシズムを生むことになったのは皮肉だ。
以下、感想です。
ナチスに関して、人類学者のレヴィ=ストロースが第二次大戦中に、ナチスドイツはかつて欧州が海外植民地で行った蛮行を欧州域内で行っていると日記に書いたことを思い出しました。日本人の人種差別意識を思うと他人ごとでないことも明らかでしょう。
それにしても、「お茶」といえば日本茶とも限らず、中国茶でも紅茶でも、時にはコーヒーまでもお茶と呼んでしまう今日の日本人の生活は世界史のなかで結構ユニークなのではないでしょうか。何しろコーヒーを喫「茶」店で飲む国ですからね。僕自身は今ではコーヒーを飲まない日はない生活をしているのですが、16世紀から今日までのコーヒーの世界史を噛みしめながら苦みばしったブラックコーヒーを今日もすすろうと思います。
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1957年、仙台に生まれ、結婚後10年間世田谷に住み、その後20余年横浜に住み、現在は仙台在住。本を読んで、思ったことあれこれを書いていきます。
長年、化学メーカーの研究者でした。2019年から滋賀県で大学の教員になりましたが、2023年3月に退職し、10月からは故郷の仙台に戻りました。プロフィールの写真は還暦前に米国ピッツバーグの岡の上で撮ったものです。
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- 出版社:中央公論社
- ページ数:237
- ISBN:9784121010957
- 発売日:1992年10月01日
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