紅い芥子粒さん
レビュアー:
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わたしは人殺しですーー男は、妻殺しの告解を始めた。
大正八年(1919)、芥川龍之介27歳の作品。
明治四十四年ごろの話である。
『私』は、実践倫理学の講義を依頼されて、岐阜県の大垣町を訪れた。
大垣には、一週間ほど滞在の予定だった。
滞在中の宿には、地元の素封家の別荘が周旋された。
その別荘の書院造の八畳に『私』は、起居することとなる。
日当たりこそよくないが、いかにも落ち着きのある座敷。
床の間には、怪しげな楊柳観音の軸。
予定の講演日数も終わりに近づいたころ、その座敷へ訪問者があった。
男は、品よく礼儀正しく挨拶する。
そのとき、『私』は、男の左手の指が一本欠けていることに気がついた。
男は、先生にぜひ聞いていただきたい一身上の話があるという。
『私』の迷惑顔にはおかまいなしに、男は、語り始めた。
それは、いまから二十年前の、妻殺しの告解だった。
明治二十四年十月二十八日の午前七時ごろ。
妻は台所で朝餉の支度。男は井戸端で口をすすいでいた。
とつぜん、ぐらぐらと揺れだした大地。
妻は、崩れてきた家の梁の下敷きになった。
助け出そうとしたが、梁は、びくとも動かない。
どこからか上がった火の手。
押し寄せる煙と炎。
このままでは、妻は生きたまま火に焼かれることになる。
それならば、いっそこの手で……
男は、落ちていた瓦で、妻の頭をめった打ちにしたのだという。
妻を殺したことは、ずっと胸に秘めて生きてきた。
地震で妻を亡くした気の毒な人と、むしろ周囲の同情を集めて。
再婚の相手を世話してくれる人もいた。
そのことが、苦しくて苦しくて……
ところが、話はそれで終わらない。
男は、再婚することになった。相手は、素封家の娘だった。
婚礼の日が近づくにつれ、男は、心の深層にあったものに気づいてしまう。
自分は、妻を楽にしてやるために殺したのではなかった。
殺したくて殺したのだ。
なぜなら、自分は、妻を内心憎んでいたから。
道徳感情で抑え込んでいたものが、大地震で亀裂を生じ、噴き出してしまったというのだ。
「以下八十二行省略」は、芥川が書いたのである。
原稿用紙にして四枚分、男が聞くに堪えないような差別的なことを口走ったのか、混乱の極みで意味不明なことを話したのか、読者の想像に任せるということなのか……
男は婚礼の席で、自分は人殺しです、と叫び、その後の人生を破壊した。
男の話を聞き終え、『私』は、ただ黙然と座っているばかり。
左手の欠けた指のことを問うこともできずに……
男の話は告解でありながら、倫理学教授の『私』への挑戦状のようでもあった。
この作品、地震の描写が真に迫っていた。
関東大震災の後に書かれたのかと思ったが、四年も前だった。
男の左手の指が一本欠けている謎、「以下八十二行省略」の不可解、怪しげな楊柳観音の画。
その三点が、気になって気になって、三回も読み返してしまった。
作者が仕掛けた罠にはまってしまったのか……
明治四十四年ごろの話である。
『私』は、実践倫理学の講義を依頼されて、岐阜県の大垣町を訪れた。
大垣には、一週間ほど滞在の予定だった。
滞在中の宿には、地元の素封家の別荘が周旋された。
その別荘の書院造の八畳に『私』は、起居することとなる。
日当たりこそよくないが、いかにも落ち着きのある座敷。
床の間には、怪しげな楊柳観音の軸。
予定の講演日数も終わりに近づいたころ、その座敷へ訪問者があった。
男は、品よく礼儀正しく挨拶する。
そのとき、『私』は、男の左手の指が一本欠けていることに気がついた。
男は、先生にぜひ聞いていただきたい一身上の話があるという。
『私』の迷惑顔にはおかまいなしに、男は、語り始めた。
それは、いまから二十年前の、妻殺しの告解だった。
明治二十四年十月二十八日の午前七時ごろ。
妻は台所で朝餉の支度。男は井戸端で口をすすいでいた。
とつぜん、ぐらぐらと揺れだした大地。
妻は、崩れてきた家の梁の下敷きになった。
助け出そうとしたが、梁は、びくとも動かない。
どこからか上がった火の手。
押し寄せる煙と炎。
このままでは、妻は生きたまま火に焼かれることになる。
それならば、いっそこの手で……
男は、落ちていた瓦で、妻の頭をめった打ちにしたのだという。
妻を殺したことは、ずっと胸に秘めて生きてきた。
地震で妻を亡くした気の毒な人と、むしろ周囲の同情を集めて。
再婚の相手を世話してくれる人もいた。
そのことが、苦しくて苦しくて……
ところが、話はそれで終わらない。
男は、再婚することになった。相手は、素封家の娘だった。
婚礼の日が近づくにつれ、男は、心の深層にあったものに気づいてしまう。
自分は、妻を楽にしてやるために殺したのではなかった。
殺したくて殺したのだ。
なぜなら、自分は、妻を内心憎んでいたから。
妻は、不幸にも肉体的に欠陥のある女でございました。(以下八十二行省略)…………
道徳感情で抑え込んでいたものが、大地震で亀裂を生じ、噴き出してしまったというのだ。
「以下八十二行省略」は、芥川が書いたのである。
原稿用紙にして四枚分、男が聞くに堪えないような差別的なことを口走ったのか、混乱の極みで意味不明なことを話したのか、読者の想像に任せるということなのか……
男は婚礼の席で、自分は人殺しです、と叫び、その後の人生を破壊した。
男の話を聞き終え、『私』は、ただ黙然と座っているばかり。
左手の欠けた指のことを問うこともできずに……
男の話は告解でありながら、倫理学教授の『私』への挑戦状のようでもあった。
この作品、地震の描写が真に迫っていた。
関東大震災の後に書かれたのかと思ったが、四年も前だった。
男の左手の指が一本欠けている謎、「以下八十二行省略」の不可解、怪しげな楊柳観音の画。
その三点が、気になって気になって、三回も読み返してしまった。
作者が仕掛けた罠にはまってしまったのか……
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読書は、登山のようなものだと思っています。読み終わるまでが上り、考えて感想や書評を書き終えるまでが下り。頂上からどんな景色が見られるか、ワクワクしながら読書という登山を楽しんでいます。
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- 出版社:
- ページ数:14
- ISBN:B009IWP28G
- 発売日:2012年09月27日
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