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紅い芥子粒
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原題は「杏の実」。「オリンポスの果実」に改題させたのは、太宰治だったという。 作者は、師・太宰治の死の一年後、太宰の墓前で自殺した。36歳だった。
杏——甘くて酸っぱい初恋の味。噛むと、かたい種に歯があたる。

物語は、”秋ちゃん”に向けた手記の形式で書かれている。

手記は、語り手の”ぼく”が、財布の中から干からびた杏の種を取り出し、自宅の庭に捨てるところから始まっている。
その財布は、ロスアンゼルスに旅した時に買った記念の財布だ。

杏の種は、オリンピック日本代表を乗せた船・大洋丸で出会った、”秋ちゃん”との思い出の亡骸だった。

”ぼく”は、1932年ロスアンゼルスオリンピックの漕艇競技の選手だった。
”秋ちゃん”は、陸上の高跳びの選手だった。
”秋ちゃん”は、目は丸く、鼻はちんまりとして色は黒い。”ぼく”のひとめぼれだった。

恋に落ちたといっても、告白したわけではない。
物陰で、手を握ったり、抱き合ったりしたわけでもない。
キスなんて、とんでもない。

すれちがったときに、微笑みを交わしたり、
甲板で短パン姿でトレーニングしている”秋ちゃん“の肢体にみとれたり、
写真を交換しあったり……
二十歳にもなろうというふたりなのに、まるで中学生のようにうぶなのだ。

”僕”と”秋ちゃん”のことは、クルウの仲間に気づかれ、やがて船中のうわさになった。
からかわれたり、ひやかされたり……これも中学生みたい。

”僕”が”秋ちゃん”から杏の実をもらったのは、船が横浜を出てから、つまり出会ってから、七日ほどたった時だった。
協会の人が、選手を一堂に集め、男女交際禁止を言い渡したのだった。
「男女七歳にして席を同じうせず」の時代。
若い男女が親しげに話をするなんて、もってのほか!というわけだ。

つまらんつまらんとふてくされる”ぼく”の手に、「これ、あげる」と”秋ちゃん”が握らせてくれた杏の実。よく熟れた果肉を食べて、残った種を海に捨てようとしたが、思い直してポケットにしまったのだった。

あなた、あなた、と”ぼく”の”秋ちゃん”への切々たる思いに埋め尽くされた手記だ。

”ぼく”は、スポーツマンというよりは、文学青年だった。
オリンピック行に、啄木歌集を携えていくような。
ボートを始めたのは、早稲田に入学したとき、体格が立派だったために、漕艇部にスカウトされたからだった。

手記を読んでいる限りでは、運動神経抜群というわけでもなさそうだ。
一、二、一、二と行進の練習をしていると、右手と右足がいっしょに前に出てしまう。
何事かをしくじると、本気で死にたくなるような、意気地のない男でもある。
オリンピックの成績は、予選落ちだった。

”秋ちゃん”とのことは、オリンピックの旅とともに終わった。

”ぼく”は、この手記をオリンピックから10年ほどたってから書いている。
1932年の十年後ーー日本は、アメリカと戦争をしている。
日本だけではない、世界中が破滅へと突き進んでいたような時代。
1940年の東京オリンピックは戦争のために開催できなかった。
その後の”ぼく”の人生も、仲間のクルウの人生も、戦争の時代に翻弄された。

手記のはじめのほうに、こんな記述がある。
 あなたにとってはどうでしょうか、ぼくにとって、あのオリムピアへの旅は、一種青春の酩酊のごときものがありました。



この手記は、”秋ちゃん”への恋文の形を借りた、夢のようだった青春へのラブレターなのかもしれない。


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紅い芥子粒
紅い芥子粒 さん本が好き!1級(書評数:559 件)

読書は、登山のようなものだと思っています。読み終わるまでが上り、考えて感想や書評を書き終えるまでが下り。頂上からどんな景色が見られるか、ワクワクしながら読書という登山を楽しんでいます。

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この書評へのコメント

  1. noel2021-07-10 15:48

    なぜ死ぬ必要があったのでしょう。涅槃で太宰が待っていてくれるからでしょうか……。

  2. 紅い芥子粒2021-07-10 16:23

    さあ、なぜでしょう?でも、その手記というか小説の中でも、”ぼく”は、よく死にたくなって、死のうとしているんですよ。あ、小説と作者をいっしょにしてはいけませんね。でも、明らかに作者の分身ですから……

  3. 三太郎2021-07-10 18:33

    オリンピックが金儲けのためでも国威掲揚のためでもなかった時代があったのかなあ、と遠い昔のことのような気がしました。

  4. 紅い芥子粒2021-07-10 21:07

    三太郎さん、ほんとにそうですよね。出場資格を国代表じゃなく個人にすればいいのに、と思うことはありますが、ダメなんでしょうね……

  5. ゆうちゃん2021-07-11 01:08

    かなり前の冬のオリンピックにとても勝てそうもないスキージャンプの選手を送り出した国がありました。確かイギリスだったと思います。国としての余裕を感じさせる出来事でした、
    これから開かれる東京オリンピックは、醜い金だけの大会として記憶に残ってしまうのではないでしょうか。それが日本での開催と言う点に非常に残念さを感じます。

  6. 紅い芥子粒2021-07-11 06:39

    ゆうちゃんさん、そういえば、いつのことだったか、海もプールもない国から来た選手が、溺れそうになって、50メートルを泳ぎ切ったという出来事があったように思います。 たしか、アフリカのどこかの国の代表で。きっと観客の大声援が選手の力になったことでしょう。 これから開かれる東京オリンピックは、そういう観客の声援もないのですよね…… 沢木耕太郎さんじゃないけど、ほんとうに、”かわいそうな二度目の東京オリンピックさん”。

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