紅い芥子粒さん
レビュアー:
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”僕”は、生まれながらの傍観者。けっして感興の渦に巻き込まれることはない。
作品が発表されたのは、1911年(明治44年)「中央公論」10月号。
モチーフとなった百物語の催しは明治29年7月。
盛大で奇抜な催事だったらしく、東京朝日新聞の記事にもなっている。
もう何年もまえのことなので記憶がおぼろになっている、と前置きしながら、作者は順を追って詳細に「生涯にただ一度の出来事」を、”僕”の一人称で綴っていく。
”僕”を百物語の催しに誘ってくれたのは、蔀君という写真を道楽にしている下町の若旦那である。
集合時刻は午後三時半ごろ、場所は柳橋の船宿。
蔀君とは別行動になり、一人で出かけた。
船宿一軒借り切りにされていて、客がいっぱい詰めかけていた。
聞こえてくる会話を傍聴しながら、時をつぶす。
百物語なんて過去の遺物だとか、てんで魅力がないとか、”僕”は冷めている。
そこへ屋根船が五、六艘。そのうちの一艘に”僕”は乗り込む。
周りは知らない人ばかり。
船には、酒肴が用意されていて、飲食しながらの他愛もない会話が耳に入る。
川面に目を向ければ、淀んだ水に、藁やら鉋屑やら傘の骨やらが浮かんでいる。
花火見物を兼ねての船だと思うが、花火のことは一行も書かれていない。
船を降りるとき、混雑の中で履物が失われてしまう。
”僕”はみんなが降りてから、残り物の歯のすり減った下駄を履いて、会場まで歩く。
会場は、ありふれた小さな屋敷。
中は、お化け屋敷になっている。
肝試しの趣向も凝らされているようだが、”僕”は平然としたものだ。
ひとりで怖がるのもばかばかしいのかもしれないが。
階上の座敷には、おおぜいの招待客。
”僕”は蔀君に会い、主催者の飾磨屋主人に紹介される。
飾磨屋は富豪の事業家だが、最近は破産寸前と聞いている。
陰鬱な感じの人で一言も発せず、うなずくばかり。
隣には、ひいきの芸者と思しき女性。
”僕”は、その二人を見て、まるで患者と看護婦のようだと思う。
破産寸前なのに、このような盛大な催しを開くとは。飾磨屋とは、いかなる人物か。
そして、落ち目の旦那にぴたりと看護婦のように寄り添う、あの美人の芸者は。
しかも、飾磨屋は、少しも愉快そうではない。むしろ憂鬱そうに見える。
主催者でありながら、まるで傍観者のようではないか。
”僕”は、お化け屋敷も怪談もどうでもよく、飾磨屋と寄り添う芸者のことが、気になって気になってしょうがない。あれこれ想像して、二人から目が離せなくなる。
蝋燭の炎が揺らめく座敷。
盥に並べられた鮓。手桶に柄杓の番茶。湯灌の盥とあか桶を模したものらしい。
おもしろがっている客もいるが、”僕”は入れ物なんか別に何でも……と、
気にしない。
百物語といっても、参会者が順に怖い話をしていくわけではない。
落語家の怪談を聞くのである。
”僕”は、古臭い怪談には興味がなく、食べるだけ食べて、聞かずに帰ってしまう。
そうして思うのである。
自分は、生まれながらの傍観者だ、けっして感興の渦に身を置くことはない。
あの飾磨屋のように。
西洋にいたときも……云々。
おやおや。
異国で恋に落ちたときも、感興の渦に巻き込まれそうな自分を、冷静にながめているもう一人の自分がいたというわけですね。
いつもいつも傍観者の自分が、感興の渦に巻き込まれる自分の妨げとなる。
鴎外は、そんな自分を、ちょっとつまらないと思っていたような……
モチーフとなった百物語の催しは明治29年7月。
盛大で奇抜な催事だったらしく、東京朝日新聞の記事にもなっている。
もう何年もまえのことなので記憶がおぼろになっている、と前置きしながら、作者は順を追って詳細に「生涯にただ一度の出来事」を、”僕”の一人称で綴っていく。
”僕”を百物語の催しに誘ってくれたのは、蔀君という写真を道楽にしている下町の若旦那である。
集合時刻は午後三時半ごろ、場所は柳橋の船宿。
蔀君とは別行動になり、一人で出かけた。
船宿一軒借り切りにされていて、客がいっぱい詰めかけていた。
聞こえてくる会話を傍聴しながら、時をつぶす。
百物語なんて過去の遺物だとか、てんで魅力がないとか、”僕”は冷めている。
そこへ屋根船が五、六艘。そのうちの一艘に”僕”は乗り込む。
周りは知らない人ばかり。
船には、酒肴が用意されていて、飲食しながらの他愛もない会話が耳に入る。
川面に目を向ければ、淀んだ水に、藁やら鉋屑やら傘の骨やらが浮かんでいる。
花火見物を兼ねての船だと思うが、花火のことは一行も書かれていない。
船を降りるとき、混雑の中で履物が失われてしまう。
”僕”はみんなが降りてから、残り物の歯のすり減った下駄を履いて、会場まで歩く。
会場は、ありふれた小さな屋敷。
中は、お化け屋敷になっている。
肝試しの趣向も凝らされているようだが、”僕”は平然としたものだ。
ひとりで怖がるのもばかばかしいのかもしれないが。
階上の座敷には、おおぜいの招待客。
”僕”は蔀君に会い、主催者の飾磨屋主人に紹介される。
飾磨屋は富豪の事業家だが、最近は破産寸前と聞いている。
陰鬱な感じの人で一言も発せず、うなずくばかり。
隣には、ひいきの芸者と思しき女性。
”僕”は、その二人を見て、まるで患者と看護婦のようだと思う。
破産寸前なのに、このような盛大な催しを開くとは。飾磨屋とは、いかなる人物か。
そして、落ち目の旦那にぴたりと看護婦のように寄り添う、あの美人の芸者は。
しかも、飾磨屋は、少しも愉快そうではない。むしろ憂鬱そうに見える。
主催者でありながら、まるで傍観者のようではないか。
”僕”は、お化け屋敷も怪談もどうでもよく、飾磨屋と寄り添う芸者のことが、気になって気になってしょうがない。あれこれ想像して、二人から目が離せなくなる。
蝋燭の炎が揺らめく座敷。
盥に並べられた鮓。手桶に柄杓の番茶。湯灌の盥とあか桶を模したものらしい。
おもしろがっている客もいるが、”僕”は入れ物なんか別に何でも……と、
気にしない。
百物語といっても、参会者が順に怖い話をしていくわけではない。
落語家の怪談を聞くのである。
”僕”は、古臭い怪談には興味がなく、食べるだけ食べて、聞かずに帰ってしまう。
そうして思うのである。
自分は、生まれながらの傍観者だ、けっして感興の渦に身を置くことはない。
あの飾磨屋のように。
西洋にいたときも……云々。
おやおや。
異国で恋に落ちたときも、感興の渦に巻き込まれそうな自分を、冷静にながめているもう一人の自分がいたというわけですね。
いつもいつも傍観者の自分が、感興の渦に巻き込まれる自分の妨げとなる。
鴎外は、そんな自分を、ちょっとつまらないと思っていたような……
掲載日:
書評掲載URL : http://blog.livedoor.jp/aotuka202
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読書は、登山のようなものだと思っています。読み終わるまでが上り、考えて感想や書評を書き終えるまでが下り。頂上からどんな景色が見られるか、ワクワクしながら読書という登山を楽しんでいます。
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- 出版社:
- ページ数:14
- ISBN:B009IXIWEQ
- 発売日:2012年09月27日
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