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三太郎さん
三太郎
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夢の中の描写と主人公の実体験を語る部分とが混然としている物語の中で、主人公は失われていた幼少期の、大切な人たちの記憶を取り戻し、生きる希望を見つける。
北杜夫が東北大学に在学中に書いた、最初の長編小説。1956年に自費出版し、後に中央公論社(1960年)から出版された。

小説ではもう二十歳を過ぎた主人公が、自分の幼年期の記憶を少しずつひも解いていく物語なのだが、小説の冒頭でまず、忘れられていたはずの幼年期の出来事が語られる。

小説では主人公の少年は幼い頃に姉を亡くし、母が失踪(病死?)し、さらに学者だった父親も失い、叔父の家に引き取られている。

この設定はまったくのフィションだが、中学生の頃に昆虫採集に熱中していたこと、東京の家が空襲で焼けてしまい、信州の高校の寄宿舎に入ったことなどは作者の実体験に基づいているのだろう。

医学生で奇術好きの若い叔父さんが偶然腎炎を見つけてくれ、半年もの闘病生活を送ったという少年時代のエピソードは作者の実体験なのかどうか分からない。でもこの叔父さんはモデルがいたらしい。闘病中に夢の中で幼少期の記憶の断片を見るのだが、それが何だったのかはその時は本人にもまだ分からない。

敗戦直前に主人公は松本の高校に入ったが、戦争が終わってから却って「死」について思うようになる。彼は死を身近に感じ不眠症になる。その時幽霊を見たのだ。
やがて、不眠のおもたくのしかかる夜が訪れる。よく僕は夜半に窓をあけて、冷え切った闇のいろを見た。かすかな星かげの下に、物象が身をこわばらして佇んでいるのが認められた。・・・そうした夜には、生きているものが好んで死んだふりをするし、また死んだものがよく生きているふりをするのだ。

その不安を同じ下宿で親しくなった弁の立つ医学生に相談すると、山歩きを勧められた。山に登ると蝶を採っている少年に出会う。彼自身も中学時代には昆虫採集に熱中していたが、幼少の頃に小さな美しいシジミチョウを見た時の感動は長いこと忘れていた。そして美ヶ原の高原を彷徨ったときに美しいウスバシロチョウに出会い彼は再び感動する。彼はひとり自然の中で性的な高揚をおぼえ恍惚となった。

それからは、彼はいくらかの食料が手に入れば、大自然に抱かれるために、初夏の北アルプスの峰々や渓谷をひとりで踏破した。縄を使って岩壁を滑り降り、シュラフにくるまって一夜を明かした。夜半の山頂に見上げる星の数々はこの世のものとは思われなかった。山巓の空気は一種不思議なきよらかさがあった。風のそよぐ林のなかに寝そべっていると、下宿屋で医学生が聴かせてくれたドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」のフルートの音が聴こえてくるようだった。美しいクモマツマキチョウやミヤマモンキチョウが次々と飛んできた。

ある時、見覚えのある滝を見に坂を下っていったときに、彼は美しいウラギンシジミを見た。その瞬間に、彼は幼少時の大切な記憶を取り戻していた。そこには猫背の父と美しい母と幼い姉がいた。

奇術好きの叔父から、亡くなった両親と戦前に親しかったというある夫人を紹介され、夫人の家を訪れた主人公は、戦前のドイツの町で撮ったという母の若い頃の写真を見せてもらう。またその時、「牧神の午後への前奏曲」は母の好きな曲だったと教えられた。

それからしばらくして、北アルプスを一人で西鎌尾根沿いに槍ヶ岳へ登った主人公は、槍沢の雪渓で濃霧にまかれ、夢見るような感じのまま霧のなかに母の幻影を見る。しばらく気絶していたらしく、目が覚めるともう真夜中で頭上は満天の星空だった。肩の小屋で一人寝ずに夜を過ごした彼は、もう人間のなかに降りていこう、と決心する。そうすれば母に似て、あるいはまた姉にも似たあの少女に巡り合えるかもしれないではないか。


この小説の文体は夢の中の描写と主人公の実体験を語る部分とが混然として、一瞬どちらか分からなくような効果があります。失われたと思っていた幼少期の記憶が夢の中で甦ってくる描写が見事です。

忘れている部分も多かったですが、確かに若い頃一度読んでいました。北アルプスの高山での場面の、たたみかけるような自然描写が印象的でした。もしかしたらこの本の影響で僕は後年山に登りだしたのかも、と思いました。

(添付の写真はウェブサイトの写真の一部をコピーさせて頂いたものです。)
    • クモマツマキチョウ
    • ミヤマモンキチョウ
    • ウラギンシジミ
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三太郎
三太郎 さん本が好き!1級(書評数:825 件)

1957年、仙台に生まれ、結婚後10年間世田谷に住み、その後20余年横浜に住み、現在は仙台在住。本を読んで、思ったことあれこれを書いていきます。

長年、化学メーカーの研究者でした。2019年から滋賀県で大学の教員になりましたが、2023年3月に退職し、10月からは故郷の仙台に戻りました。プロフィールの写真は還暦前に米国ピッツバーグの岡の上で撮ったものです。

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