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ゆうちゃん
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不条理について考えてみよう!

※ネタバレ注意! 以下の文には結末や犯人など重要な内容が含まれている場合があります。

「異邦人」の哲学的解説と言うのが本書のコンセプトだと聞いて手にしたが、あまりに難解である。二百頁程度の本なのだが、僕には電車の中で読めるような代物ではなく、GWを使ってじっくり読んでみた。全体は四部構成で、第一部「不条理な論証」、第二部「不条理な人間」、第三部「不条理な創造」、第四部「シーシュポスの神話」となっている。

「不条理な論証」の冒頭に、通常は結論とされる本書のテーマ・不条理を出発点として扱うとあった。これは恐らく不条理をあるがままに受け入れると言う意味ではないかと思う。ここから第一章「不条理と自殺」が始まる。人生が生きるに値するか否かを判断するのが哲学の根本問題であれば、真に重要な哲学の問題は自殺であると言っている。自殺の原因は色々あるが、ここでは社会的な要因の追求ではなくあくまでも心理的、個人的要因を追求している。本書では自殺の原因が生きることに意義を見出さないことなのか生存の不条理性からの逃避することなのかを問い、それが「不条理な論証」(第一部の主題)であると定義している。その結論らしきものは第四章「不条理な自由」まで持ち越される。
次に不条理がなぜ生まれるのかを論考している(第二章「不条理の壁」)。結局、それは連続する日常に対するふとした疑問(ハイデッガーのいう「憂慮」)がきっかけだと言っている。この思考を押し進めると「この世界はそれ自体として人間の理性を超えている。この世界について言えるのはこれだけだ」となる。結局、不条理と言う言葉のあてはまるのは、
この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、両者がともに相対峙したままである状態について、である。不条理は人間と世界と、この両者から発する(35~36頁)
状態である。つまり「本質的に理解し難い(非合理な)世界」と「その世界を理解しようとする理性(人間、精神)」の両者が存在することで不条理が生まれると言っているようだ。恐らくこれが本書の問題提起であり結論らしい。
この次に第三章「哲学上の自殺」が始まり、シェストフ、キルケゴール、ヤスパースなどの哲学を引き合いに、彼らの哲学ではこの世界と理性の対置によって生じる不条理が正しく認識されていないと言うことを延々と説いている。これまでの事例ではこの不条理の基礎を無視し、対立の一方の項を否定するだけである(61頁)。著者はこれを「哲学上の自殺」と呼んでいる。
最後の第四章は「不条理な自由」と題されている。人間には意識があるから不条理が認識される。ここで著者の第一部の結論らしい場所を少し長いが引用する。
ここで自殺に接近出来た。以前は人生を生きるには人生に意義がなければならぬのか、それを知ることが問題だった。だが、人生に意義がなければないだけ、それだけいっそうよく生きられるだろうと思える。ひとつの運命を生きるとは、それを完全に受け入れることだ。この運命が不条理だと知っているときには、意識が明るみに出すこの不条理を、全力を挙げて自分の眼前に支え続けなければ、ひとはこの不条理の運命を生き抜いてゆくことが出来ぬであろう。この不条理は対立を糧とするものであり、対立の一方の項を否定することは、不条理から逃げ出すことだ。意識的反抗を廃棄することは、問題を回避することだ。生きるとは不条理を生かすことだ。筋道の通った数少ない哲学的な姿勢のひとつは反抗である。形而上的反抗は意識と経験の全面にゆきわたらせる。それは憧れではないし希望を持たぬ。これは諦めを捨てた確信である(78~79頁)

*ちなみに「対立の一方の項を否定することは、不条理から逃げ出すことだ」は前記実存哲学者たちの態度。
結局、著者は不条理を認識しそれと緊張関係にあること(反抗と言っている)が「価値ある生」だと言っている。自殺はどうやら逃避の手段であり、こう言う不条理に対する認識の不足だと言っているらしい。ここでは、自殺は「以前の問題」と片付けられてしまっており、冒頭で自殺が問題だと言っておいて、不条理と自殺は関係がない、という結論に自分には納得が行かないものがあった。
カミュの定義した不条理の世界には神はいない。ここで第四章の「不条理と自由」の話が出て来て、カミュ流の不条理を認識し反抗をする人間には、高次元の存在(神)から与えられた自由など無く、もっと深い自由を獲得する、と言っている。
死と不条理とが、妥当の唯一の自由の、つまり人間の心情が経験し生きることのできる自由の原理となる。これが第二の帰結である(86頁)

これが第四部の「シーシュポスの幸福」に繋がってゆく。そして、ここからカミュ流の不条理を認識した人間の生き方が導き出される。
絶えず意識の目覚めた魂の前にある現在時、そして現在時の継起、これこそ不条理な人間の第三の帰結である(91頁)

「第三の帰結」は、理想、使命と言う言葉が相応しくない、として最後に持ち出された言葉である。第一部の「不条理な論証」の結論は、評者には、『本質的に理性的(合理的)ではない世界に意識を持った人間(理性、精神)が相対峙するときに不条理は生まれるが、そうした状況に反抗しながら、緊張感を持って長く生きろ、それが偉大な生だ』と言っているように感じた。

ここまでで十分長い文章になってしまったが、第一部でだいたい分量の半分である。第二部の「不条理な人間」の内容は、ドン・ファン、役者、(精神的な)征服者を例に第一部で展開された不条理と対峙しながら生きる例を提示している。
とにかく第一章で語った不条理な論証に、本来持っていた筈の、さらに熱っぽい相貌を取り戻させてやることが必要だったので、著者はこれらの人間像を語った(131頁)。ドン・ファンと不条理は表面的には結びつかないのだが、著者はドン・ファンが女をとっかえひっかえするのは、その女に飽きたからではなく(本当か??)、どれだけ愛しても愛には十分という満足が得られないからだ、と言っている。まさに愛は不毛である。それ故、ここでは年老いたドン・ファンにまで言及されていて、そこには第四部のシーシュポスを彷彿させるものがある。ドン・ファンもシーシュポスも己のしたことのつけとして究極の不条理な生を送ることになる。役者が不条理なのはわかりやすい。舞台で悲劇を演じ、幕が下りてから3時間後にはラーメンを啜っているなどカミュが喜びそうな不条理だ(僕から見れば、どれも本人のしたいことをしている、という点で合理的なのだが)。

第三部の「不条理な創造」は、第二部の続きと言える。つまり「不条理な人間」のなかでも創造する人たちは特筆に値するので、独立した部を設けていると思われる。創造活動とは不条理と対峙する良い手段で、創造するカミュ流の定義での優れた芸術家について論考している。
大切なのは不条理とともにあって呼吸すること、不条理の教訓を承認し、その教訓を肉体の形で見出すことである。こう考えた場合、最高度に不条理な悦びは芸術創造である。・・・不条理による不断の緊張、これにより人間にもう一つの熱病を与える。・・・この宇宙においては、作品こそが彼の意識をそのまま保ちながら、意識の様々な冒険を定着する類いない機会となる。創造するとは二度生きることだ(134~135頁)

ここでは、創造活動の代表的なものとして「哲学」と「芸術」を比較し、主に「芸術」について論考している。第一部で実存哲学が唐突に登場したように思えたが、あそこで哲学を引用したのは、こうした創造活動のひとつだったから、というのが理由ではないかと評者は推測する。ここでカミュは芸術の良し悪しを以下のように言っている。
真の芸術作品は人間の尺度に釣り合っている。それは本質的に<より少なく>語るものだ。説明的である作品はよくない(140頁)

優れた芸術がもしそうなら、絵画や音楽は一段と優れたものと言える。僕も芸術の優劣をこのように評価することに賛成だ。芸術に説明は不要だ。和声楽など音楽の美しさを説明する理論は存在するが、それを知らずともメロディーの美しさは自然とわかる。だがカミュは、この第三部で創造論の対象に、絵画や音楽ではなくわざわざ小説を取り上げている。ここで説明への誘惑が最も多く残っている作品、小説の創造について語りたい(141頁)。著者が小説家というのもひとつの理由であろうが、<より少なく>語るに困難なものを取り上げたいようだ。
ここで取り上げられるのがドストエフスキーの「悪霊」に登場する土木技師キリーロフの人間像である(草稿ではドストエフスキーではなくカフカだったが、それは付録に回っている)。一見、不条理な人物の登場が多いドストエフスキーの小説にも希望があり、どうやらカミュには多少ご不満なように思える(カフカに対しても同じ論考が行われている)。これまで散々論証してきた通り、カミュ流の不条理に「希望」は要らない。希望はここではやっかいな人間の業のようなものとして扱われている。ここでもいささか長いが第三部の結論を引用する。
この様に著者は、思考に対して要求していたもの、反抗と自由と多様性を不条理な創造にも求める。不条理な創造は、その深い無用性を示すものでなければならない。・・・創造者も征服者も自分の企図からも自己を解放することが出来るように、最後の努力をふり絞らねばならない。征服であれ創造であれ、そうした営みにそれ自体がなくてもいいものだと認める境地に至りつかねばならない。そうして個人の生はいかなるものであれ、本質的に無用なものだという自覚を完成させねばならない。ちょうど人生の不条理性に気が付いたことで、彼らが自信をもって人生に跳び込み、あらゆる面で常識を超える振る舞いが出来たように。残るところは唯一の出口は死と言う不可避なものであると言う運命だ(165~166頁)

これを読むと、では、芸術とか創造は何のためにあるのか?単なる自己満足ではないか、とは思うが、カミュ流の不条理論を押し進めた先にある創造活動がこうであっても矛盾はない。
第四部の「シーシュポスの神話」はまさにギリシャ神話に登場する「シーシュポスの神話」を引用し、無益な罰を課される彼こそが「不条理の英雄」だと言っている。カミュは、彼が不条理を悟っており、そうした無益な罰の中にも幸福を見出しているのだと説く。
不条理な人間は死を除けば自分こそ日々を支配するものだと知っている。シーシュポスは岩を追いかけながら、相互につながりのない一連の行動が、彼自身の運命となるのを、彼によって作りだされ、彼の記憶のまなざしのもとにひとつに結び付き、やがて彼の死によって封印されるであろう運命と変わるのを凝視しているのだ(172頁)


自分の考察も交えた粗筋も、ここまででも相当な分量になってしまったが、本書を読んでの自分なりの感想を書かせてもらいたい。一番読み応えがあったのはやはり第一部だった。世界と人間に対するカミュ流の論考はそのまま受け入れたい。世界は理解し難いし、神も居なさそうだ。それぞれの出来事の連鎖は不規則で、意味など無さそうだ。しかし、人間はこれを理解したがる。だがこのカミュ流の不条理論を考えすぎるのは危険でもある。結局、本書では不条理を認識した人間は、幸福に生きられるのだ、と主張しているように見えるのだが、本当にそうなのかは疑問である。カミュの不条理観を突き詰めていけば、「どうせ死ぬのになぜ努力などするのか」と思い、そのまま生をリセットするのは有りだと思えてくる。日々の暮らしやルーチンワークに何か意味があるのか、本をたくさん読み知識を増やしたところで、何か意義を見出せるのか?等々。ただ、目的と手段の取り違えはよくあることで、本書でも触れられていたが、幸福に生きるために金を稼ぐことに熱中するあまり、金を稼ぐことが目的となってしまっている(146頁)。不条理の認識も本書によれば偉大に生きるための手段であり、認識のみに留まっていてはいけないのだろう。そもそもこんなカミュ流の幸福など願い下げだし、幸いなことに自分には偉大に生きる勇気もなければ、死ぬ勇気もない。著者からすればまことにお粗末な態度だが、不条理など意識の外に追いやって、日々を過ごすしかないと改めて認識した次第である。
「異邦人」とどんな関係にあるのか?は、本書を一読すれば明らかである。主人公ムルソーの態度への難解な注解だ。「異邦人」の拙評を改めて読み返すと「人間が価値を見出すものに、本当にどれほど価値があるのだろうか」は当たっているのだろうが、自分の趣味に絡めて書いた下りは完全に的外れなことを言っていると思った。
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ゆうちゃん
ゆうちゃん さん本が好き!1級(書評数:1683 件)

神奈川県に住むサラリーマン(技術者)でしたが24年2月に会社を退職して今は無職です。
読書歴は大学の頃に遡ります。粗筋や感想をメモするようになりましたのはここ10年程ですので、若い頃に読んだ作品を再読した投稿が多いです。元々海外純文学と推理小説、そして海外の歴史小説が自分の好きな分野でした。しかし、最近は、文明論、科学ノンフィクション、音楽などにも興味が広がってきました。投稿するからには評価出来ない作品もきっちりと読もうと心掛けています。どうかよろしくお願い致します。

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この書評へのコメント

  1. noel2021-05-28 13:41

    久方ぶりにオーソドキシカルな書評のカタチを見せてもらった気がします。確かにこれでは「電車の中で読めるような代物」でないのは一目瞭然です。確かかもめ通信さんだったか、ゆうちゃんさんを「本格的な書評家」と評したのもむべなるかなと思います。ますますゆうちゃんさんのファンになりました!
    いわば、不条理を不条理として楽しめる「了解」の仕方こそ、幸せなのだと思います。

  2. ゆうちゃん2021-05-28 17:52

    noelさん、コメントありがとうございます。

    過分なお言葉で恐縮です。仰る通りです(が、僕は本文で書いた通りそれが幸福ならちょっと願い下げです)。でもこれを読み通して、どこにも行けませんでしたが、それなりに充実した連休を送れた、という達成感のようなものは感じました。

  3. noel2021-05-29 22:22

    思うに不条理とは「どこにも行けない」状態、すなわちカル・デュ・サックの穴に墜とし込まれる恐怖に震えることではないでしょうか。それを幸と感じるか不幸と感じるかで、「了解」の在り方が措定されるのです。

  4. ゆうちゃん2021-05-30 01:49

    すいません。「カル・デュ・サックの穴」がわからないです。わからない語があるときは検索してみますが、出てきません。無智に教えを頂けるとありがたいです。

    本書の「不条理」を僕は不合理と解釈しました。本書の冒頭にフランス語訳の解説、不条理の訳の例として「濡れたくなかったから川に飛び込んだ」という説明がありますが、僕は少し違うと思います。本書の読書中に思い出したのは、東日本大震災に先立つ2010年のハイチの大地震で慈善家ジウダ・アルンスさんが亡くなった事です。これを読んた時に僕はこの世に神は居ないと思いました。直近の新聞記事では、2年前の川崎市での外交官や児童殺傷事件が取り上げられていますが、それも同じ感覚で読んでいます。善人が幸せになるのは合理的です。しかし、偶然の作用でこの先何が起きるかわからない世界は、善も悪も神の存在/非存在も関係ないです。カミュの説いた不条理とはそんな事ではないかと思います

  5. noel2021-05-30 08:25

    ごめんなさい。若いころに覚えた単語なので、発音表記の仕方が違っていたようです。この言葉はサルトルが使いだした言葉で、スペルではcul de sacと書きます。ネットでググってみると、

    〈フランス語〉カル・デ・サク◆家が大通りなどに面しておらず、静かで落ち着いた所にあること。◆【複】culs-de-sac 行き止まり、袋小路
    ・He took a wrong turning outside the station and wound up in a maze of suburban culs-de-sac. : 彼は、駅前で道を間違えて郊外の袋小路に迷い込みました。
    行き詰まり、窮地、難局、盲管、盲嚢
    発音kʌ́ldəsæ̀k、カナ カルディサク、変化《複》cul-de-sacs | culs-de-sac

    となっていました。申し訳ありません。当時は、これを「出口なし」と訳していました。

  6. ゆうちゃん2021-05-30 18:03

    ご教示ありがとうございます。勉強になりました。出口なしでも合っていると思います。2020~21年の社会も出口なしですね。そしてそれが多くの人に不条理をもたらしているのだと思います。

  7. noel2021-05-30 19:09

    どのようにあがいてもどこへも行きようがない。ひとがいかに合目的的に生きていけないかの証左でもあるのでしょう。とくにこのコロナ禍で、その思いを強くしました。相手が手ごわすぎるのです。

  8. noel2021-06-04 15:45

    今頃になって言上げするのは「後出しジャンケンだ」と言われるかもしれませんが、不条理とは自らの目的とは異なる事態に直面したときの、自分としてはもっとも不本意な選択をせざるを得ない情況もしくはその渦中に現存在として存在することを言うのではないでしょうか。なので、それはユニバーサルというか、普遍的なものではなく、極めて個人的かつ非自己的な不自由性にあるといえるでしょう。
    自ら選び取ることができない自由の在り方、それが「我」を不自由性のなかに閉じ込めてしまうのです。oldmanさんの書評(https://www.honzuki.jp/book/269524/review/225341/)を読んでそう感じてしまいました。

  9. ゆうちゃん2021-06-04 18:32

    世間一般的な意味では、不条理とはまさにそう言うことだと思います。自分が不条理と感じる時もそういう場合が多いです。会社などで自分の内心では明らかに筋が悪いと思っているプロジェクトを、立場上は引き受けなければならない場合、など。

    本書では、希望も目的も語られませんでしたから、この状況の不条理はカミュの厳密な定義からは外れると思います。カミュの不条理は、「人間の合理精神」と「基本的にランダム事象である世界」が相容れないことでした。

    ご指摘の書評拝読しました。ミステリではありませんが、トマス・マンの「マリオと魔術師」を彷彿とさせる小説に思えます。第二次世界大戦前のドイツも不条理な状況なのでしょう。カミュが本書を書いたのは1942年とのことですから、まさに不条理な状況ですね。

  10. 脳裏雪2021-06-04 19:05

    ソレは本末転倒ではなかろうか、
    そんなに小ムズカシいことではないし、そこら辺に在りますよ、
    そもそも不条理は定義出来ないです、非論理なんだから、
    何とも説明できない、筋の通らぬ意味のない、理性の範疇にない名づけ得ぬもの、、とかの事です、
    着ては貰えぬ貴方のセーターを編んだり、帰りたいけど帰れなかったり、好きで堪らないのに嫌いだっと言ったり、、

  11. noel2021-06-04 19:17

    ソレは、いわゆる「へそ曲がりの感情である」ということでしょうか。それなら、わたしは完全に自己矛盾を孕んだ「不条理な人間」だということができますね。(笑)

  12. ゆうちゃん2021-06-27 00:26

    不条理がそこらへんにある、小難しいことではない、というのはその通りです。不条理が定義できない、ということも同意します。

    ではありますが、この欄は、カミュの「シーシュポスの神話」の拙評に関することですから、私が「シーシュポスの神話」の内容に即したことを書いてもおかしくはないと思います。もちろん世間一般の不条理について書いて戴いても構いません(しつこいですがそれに異論はないです)。

    カミュは「シーシュポスの神話」で不条理について「論じて」いるのですから、不条理が定義されていない状態ではそれは不可能だと思います。本書に即して言えば「不条理が定義できない」では話が始まりません。私は何かおかしなことを申し上げていますでしょうか?

    要約すれば、おふたりの不条理の定義に異論は無い、とした上で、カミュの定義は少し違うのでは?と言っています。このコメントは「シーシュポスの神話」に関するものですからこれ以上のことを本書を読んで頂いてからコメント頂けないでしょうか?

  13. noel2021-06-04 23:02

    ゆうちゃんさん
    頭書の「不条理について考えてみよう!」というコンセプトから行けば、これもある意味、意義があったのでは? いずれにせよ、何らかのものを措定しなければことは始まりませんが……。

  14. No Image

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