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「神は偉大なり」とはちっとも思わないのですが、「ドストエフスキーは偉大なり」という言葉は、人類が存続する限り、真実でしょう。本書には『貧しき人びと』『地下室の手記』『罪と罰』の3作が収録されています。

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新潮世界文学 10 ドストエフスキー 1
「ドストエフスキーを論ずるあらゆる著作は、人類がこの作家を認めたという地点から出発しなければならない。ドストエフスキーを侮辱することは、偉大な方法と企画を数多く持った人類そのものを凌辱することになる」

これは、本書に収録されている訳者・江川卓が書いた『ドストエフスキーの生涯と作品』で紹介されている、ソ連の文芸学者ヴィクトル・シクロフスキーが、1957年に発表した『肯定と否定』の中の文章です。この年はフルシチョフのスターリン批判演説の翌年でしたが、スターリン時代には『悪霊』が30年間発禁だったドストエフスキーを大胆に擁護したものでした。これを受けて、江川卓自身もこう述べています。

「ドストエフスキーを侮辱することが、サルトルを、カミュを、フォークナーを、いや、世界の現代文学全体を侮辱することになるのは、だれも否定できまい。いや、視野をもっと限っても、すくなくともそれは、明治以来の日本近代文学の歩みに唾を吐きかけることを意味する」

これが「贔屓の引き倒し」に聞こえないのは、やはりフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエススキー(1821-1881)の凄いところです。先日、『カラマーゾフの兄弟』(1880年)を読んだので、今年は他の長編も読んでもみようと思い、手始めに本書を手に取りました。本書収録作を簡単に紹介します。


●『貧しき人びと』(1846年)

ドストエフスキーが25歳の時に発表した処女作です。完成したのはその前年ですが、出版時には大絶賛されたそうです。

本作は、マカール・ジェーヴシキンという一人暮らしの初老の小役人と、その遠縁にあたる天涯孤独な若い娘ワルワーラ・ドブロショーロワ(ワーレンカ)との間でやり取りされる、日常の出来事を中心に語る手紙という書簡小説の形式を採っています。マカールの方は、明らかにワーレンカに恋していて、自分もそんな高給取りでもないのに、日銭を削って、ワーレンカの生活費を支援したり、贈り物をしたりしています。マカールの住居はワーレンカのところからすぐの場所なのですが、歳の差もあって、自分と彼女の関係が目立つことを嫌い、日曜日の教会で会った時に会釈を交わすぐらいにしており、手紙のやり取りで、いろいろな話をしているわけです。しかし、当然のごとく、最後にはワーレンカはマカールの庇護とも言えないような庇護の下を離れ、別の男と結婚するために去っていくことになります。

作者は処女作に向かって成熟する、とはよく言われることですが、書簡小説の形式を採った本作は、まさにその好例でしょう。なぜなら、ドストエフスキーの最大の魅力である巧みな台詞、時として感情がほとばしるような台詞が、全編にわたって展開されるからです。「言葉の小宇宙」とは優れた小説に対して、私がよく使う言葉ですが、本作にも、もちろん後年の五大長編ほどではないにしろ、それを感じるところがあります。また、マカールのワーレンカに対する叶うはずのない恋が中心のモチーフではありますが、後の『罪と罰』でも展開される、当時のロシアの「貧しい人びと」の生きづらさの描写もまた印象に残ります。ただ同時に、五大長編に見られるような完成度には及ばないが故の、未熟さの魅力というと語弊があるかもしれませんが、いかにも処女作らしいみずみずしさも感じさせる作品で、個人的にはとても好きな作品です。


●『地下室の記録』(1864年)

よく知られていることですが、1850年1月から54年3月まで、ドストエフスキーはシベリアのオムスクという町の監獄に収容されていました。その生活を、江川卓は次のように描写しています。

「頭を半分剃られ、足枷をはめられ、囚人服を着せられて、日夜、殺人犯、強盗、泥棒たちのなかで暮らさねばならぬ生活。あぶら虫の浮いた実のないキャベツ汁をすすりながら、雑役夫として、零下数十度の厳寒のなかを労役にかり出される生活。(中略)しかも、持病の癲癇は、このころからますます悪化していた」

この描写の一部は『罪と罰』のエピローグで語られているもので、主人公ラスコーリニコフは「あぶら虫の浮いた実のないキャベツ汁」すら、以前は食すことができなかったと思うのです。この流刑の背景について、江川卓はかなり詳しく述べていますが、要約すると次のようなものです。

ドストエフスキーは『貧しき人びと』の大成功のあと、続けていくつかの中短編を発表しますが、批評家からの受けは良くなく、人づきあいがうまくなかったせいもあったようで、文壇ではやや孤立していたようです。そして1847年春ごろから革命思想家べトラシェフスキーのサークルと近づきになり、その一員となります。1848年は『共産党宣言』が発表された年でもあり、それに対する警戒と見せしめの意味もあったのでしょうが、1949年4月にベトラシェフスキーのサークル全員が逮捕されます。そして同年12月22日の朝、刑場に全員引き出され、ドストエフスキーには銃殺刑を宣告されます。そして、最初に3人が柱にくくりつけられました。ドストエフスキーは次に処刑される順番となっていました。ところが、そこに封書が届けられ、皇帝命によって死刑から減刑され、懲役刑となったのです。しかし、これは完全に芝居で、その4カ月前に皇帝によって減刑は裁下されていたのでした。そして、柱から解かれた者の一人は、既に発狂していました。この死刑執行の芝居体験とシベリアの監獄体験なしに、おそらくドストエフスキーはドストエフスキー足りえなかったでしょう。結局、ドストエフスキーの本領は、シベリア後に発揮されることになるのです。

この『地下室の手記』は、最初の五大長編『罪と罰』の直前に完成させた作品です。その前に『死の家の記録』(1860年)と『虐げられた人々』(1861年)がありますが、この2作は「新潮世界文学 11巻 ドストエフスキー2」に収録されていますので、そちらで触れることにします。

さて、江川卓はアンドレ・ジッドの「ドストエフスキーの全作品を解読する鍵」と呼んでいることを紹介し、自身も「明らかにこの一編から、ドストエフスキーは真に<ドストエススキー的>な作家になるのであり」「真のドストエススキー的世界を予告するプロローグとも位置づけられる」としています。

ただ、正直に言いますが、個人的にはあまり面白くない作品でした。その最大の理由は、こんなことを言ったら、あちこちから叱られそうですが、ドストエフスキーに限らないのですが、おそらく解読という行為にあまり興味がないからだと思います。もちろん、いろいろな作品を自分なりには解釈しますし、作者は何を考えていたか分かるような資料は参考になりますが、作者が何を考えていようが、作品がそのように仕上がっているかは別の話ですし、私の解釈が正しいか否かということは意味がなく、単なる私個人の意見に過ぎないと思っているからです。これが、アマチュアの気楽なところです。まず内容について簡単に紹介します。

本作は、第一部『地下室』と第二部『ぼたん雪にちなんで』の二部構成になっています。舞台はペテルブルグで、第一部では一人称の独り身の主人公は40歳の元公務員で、前年に親戚の一人が6千ルーブリの遺産を遺したため公務員を辞め、町はずれの「ぼろくそのひどい」「地下室」に引っ込んだ生活を送っています。第一部は、ほとんどが哲学的な内的独白から構成されていると言ってもいいのですが、第二部は、主人公が24歳の時の行きずりの娼婦リーザとの交流を中心に語られています。実は、この第二部の主人公が、ちっとも気に入っていないのです。主人公は、娼館にいるリーザに「おまえ、こんなところにいると、ロクなことにはならないよ」と説教をたれ、自身も赤貧にあえいでいるのに、酔った勢いで「お前のことを助けてやる」という類のことを言い、「いつか訪ねておいで」とばかりに自分の部屋のアドレスを書き残したりするのです。ところが、翌朝酔いが覚めてみると、彼女がこの部屋にやって来ると、自分が貧乏人のお仲間だということが分かってしまうと気づき、慌てます。ただ、2日経っても3日経っても彼女は現れません。ところが、主人公が安心しだした頃、災害=彼女はやって来たのでした。

お分かりかもしれませんが、この主人公が、まったく好きになれないのです。金のために身を売らざるをえなくなった女性に、しかも彼女を買った後で、偉そうに説教するとは、なんと嫌な奴だろう、と思ってしまいます。ただ考えてみると、この主人公の善悪とりまぜた卑劣な自己中心ぶりは、典型的なドストエフスキー的人物ではあります。後述するように、『罪と罰』にもこういう人物は複数登場するのですが、本作では一人称による語りで描かれているので、主人公の卑劣さが読む側に直接訴えてくるので、どうしても嫌悪感が先に立ってしまうのだと思います。ですから「真のドストエススキー的世界を予告するプロローグ」というのも、理解はできます。ですが好きとは言えない、というのが私の評価です。それでも、本書の月報に収録されている、椎名麟三による『存在の矛盾』では興味深い指摘がありますので、それを紹介しておきます。

「ドストエフスキーは矛盾を好んで描いているように見える。しかしそうではなくて、人間の存在は根本的に二律背反だということを知っているからである。(中略)『地下室の手記』の主人公の宣言は(中略)二二ガ四という合理的な精神に対し、どうして二二ガ五であってはいけないのかという抗議であるからだ。たしかにこの抗議は、人間の非合理の強調のように見える。しかしよく読めばわかることではあるが、二二ガ四という精神に敵対しようとしているのではないのだ。まったく敵なしに敵対することができるだろうか。非合理が存在するためには、合理が必要なのだ。(中略)しかし二二ガ四を認めながら、二二ガ五も認めるということは矛盾である。しかし、ドストエフスキーにとって特徴的なことは、この矛盾の間から、人間存在の深淵がうかび上がって来るということなのである」


●『罪と罰』(1866年)

本作を初めて読んだのは高校生の時で、それ以来の再読になりました。当たり前かもしれませんが、人生経験を積んだ今回の方が、はるかに深い感銘を受けました。よく知られたストーリーですが、簡単に紹介すると、「ナポレオンのような一部の『超人』は、自分の力を発揮するために、犯罪をすることも許される」と信じた主人公ラスコーリニコフが、己の赤貧と母妹の苦境を救うために、斧で金貸しの老婆を殺し、たまたま居合わせた顔見知りの人の良い老婆の使用人も殺すものの、良心の呵責に耐えかねて、自首し、シベリアに送られるというものです。

まず、本書の月報には開高健による『チェーホフ、ダァ!ドストエフスキー、ニェット!』という興味深い文章が載っているので、その一部を紹介します。1961年の冬モスクワを訪れた際、「ジャーナリストと作家の養成機関という奇妙な学校」に連れて行かれた時、「チェーホフか、ドストエフスキーか、諸君はどちらか」という質問を開高健がすると、「青年たちはいっせいに声をそろえて一つの答」「チェーホフ、ダァ!ドストエフスキー、ニェット!」を叫んだそうです。彼らは「いっせいに声をそろえて、チェーホフを支持し、ドストエフスキーを葬った」のです。興味深いのは、この学校を離れ、モスクワに帰る途中で、通訳の女性がこう言って、青年たちを罵倒したことです。

「私はどちらかといわれたらチェーホフ型の人間です。しかし、ドストエフスキーは人間の悪を徹底的に誠実に追求したのです。それにはやっぱり感嘆します。あの子たちはバカですよ。または誰かに教えられたままの言葉を繰りかえしているのですよ」

これを受けて、開高健は次のように書いています。

「チェーホフも深淵を直視した。ドストエフスキーも深淵を直視した。二人は別の方角から一つの広大な豊沃の荒地に浸透していったのである。率直を愛する人ならチェーホフもドストエフスキーも二人とも、けっして叫ぶ声ではなくて、”ダァ!”と認めざるを得ないはずである、と私は思う」

先に引用した『存在の矛盾』と、この文章の内容を頭に置いて、『罪と罰』を読むと、ドストエフスキーの偉大さと凄みをよく感じることができると思います。主人公のラスコーリニコフは言うに及ばず、本作で描かれている悪と善が同居する幾多の登場人物に、ドストエフスキーの世界がよく表れているからです。

まず、主人公が最初に自分の犯した殺人を告白するソーフィヤ・セミューノヴナ(ソーニャ)がいます。彼女は素朴かつ敬虔に神を信じているキリスト教徒なのですが、家族を食べさせるために、娼婦となっている女性です。彼女の職業を悪と呼んではいけないのかもしれませんが、少なくともキリスト教においては罪であることは間違いなく、そういう罪を背負いながら、神の善意を信じて生きており、その素朴さが最後にはラスコーリニコフを救うことになります。

そして彼女をそんな境遇に追いやったのは、父親のマルメラードと、その後妻カテリーナ・イワーノヴナでした。ラスコーニコフは犯行前にふと立ち寄った酒場で、マルメラードに話しかけられ、この一家と関係を持つようなるのですが、マルメラードの話によると、自分は田舎に住んでいた元官吏で、カテリーナ・イワーノヴが駆け落ちまでして一緒になった夫が博打に狂って死んだ後、3人の子連れで「救いのない貧しさ」に残されたことに同情し彼女と結婚したと言うのです。しかし、その後役所の組織改革(リストラ)で首になり、酒にのめり込むようになり「彼女の靴下まで」飲むようになってしまいました。流れついたペテルブルグでも、昔の伝手で仕事にありついたものの、すぐに辞めてしまい、家に帰ると妻に叱られ殴られることもあって、今は家出状態だと言うのです。おまけに、ソーニャには飲み代をせびっていると言うのです。カテリーナ・イワーノヴナは、元々は良家の出身で「気性がはげしく、気位の高い、負けずぎらいの女で」「床は自分で洗うし、黒パンばかりかじってはいても、ひとにさげすまれることはがまんできない」性格でした。しかしそれ故、経済的に窮地に陥っても、手を差し伸べる親戚や知人がおらず、マルメラードと結婚することになったのです。しかし、食も満足に取れない生活を長年続けたこともあって、今は肺を病んでおり、時々喀血もしていました。

さて、この家族には、いわゆる悪人はいません。しかし、マルメラードとカテリーナ・イワーノヴナは、自分たちで積極的にアレンジしたわけではありませんし、表面上はソーニャが一人で娼婦となる手続きに行くのですが、彼女を追いこんで娼婦となることを決意させたのは彼らです。この一家は「人間の存在は根本的に二律背反だ」を体現するような存在なのです。ただし、作者は、マラメードとカテリーナ・イワーノヴナには悲惨な最期を用意してあります。殊に、後者は滑稽とも言える惨めな死に様を見せるのです。

予審判事のボルフィーリイ・ペトロ―ヴィチも興味深い人物です。彼は、この金貸し老婆殺人事件を担当するのですが、実は早くから質草を預けてある人物を容疑者候補として調べており、その一人であるラスコーリニコフが雑誌に掲載した「超人」理論を語る論文を読んで、彼が犯人に違いないと検討をつけていました。ところが、ラスコーリニコフを前にすると、そんなことはおくびにも出さず、ニコニコといいかげんな話をのらりくらりとしています。まるで猫が逃げられない鼠をいたぶるようなので、ラスコーリニコフはイライラさせられますし、大嫌いな相手です。ところが、最後にラスコーリニコフに対峙した時、逮捕をもう一日か二日伸ばすから、自首することを勧告するのです。この行動はよく理解できないところもあるのですが、貧困から来る犯罪を山のように見ていることと、ラスコーリニコフが、いわば完全な「獣人」でないことを見てとっていたからではないかと思います。とぼけていますが人間観察に長けた人物のようです。なお、このボルフィーリイとラスコーリニコフの関係は、メグレはボルフィーリイのように雄弁ではありませんが、メグレ警視シリーズで、代表作の一つ『男の首』(1930年)を含む数作に応用されています。

もう一人興味深い人物は、スヴィドリガイロフです。彼は地方の地主であり、女たらしです。たらしこんで結婚したマルファ・ペトローヴナの資産を活用し、大金持ちでもありました。ラスコーリニコフには、アヴドーチャ・ノマーノヴナ(ドゥーニャ)という芯の強い美しい妹がいるのですが、スヴィドリガイロフ家で家庭教師をしていた時、彼に横暴恋され、妻子を捨てるから一緒に逃げようとまで言われます。結局、この出来事は妻に露呈し、妻とドゥーニャに詫びを入れる形で、一度は引き下がりました。ところが、マルファ・ペトローヴァが死に、その全財産を引き継いだ後、母と共にラスコーリニコフに会いに来たドーニャを追ってなのか、ペテルブルグに現れます。妻の死とて、殺されたのではないかという疑いがあったのですが、この男はラスコーリニコフに近づきます。そのつながりで、ソーニャ一家も知ることになります。そして、実父のマカール・ジェーヴシキンと継母のカテリーナ・イワーノヴナを次々と亡くし、継母の連れ子だった子供たち3人を抱え、途方にくれていたソーニャに対し、金銭的援助をします。それだけでなく、3人の子どもたちを施設に入れ、生活の心配がないようにしてやります。ラスコーリニコフとの会話からも、とてもそんな善人のようには思えないのですが、はたして彼はドーニャを諦めてはいなかったのです。そして、実に卑劣な手段に打って出ます。二律背反という点では、ボルフィーリイ以上なのですが、彼の行動基準は、あくまで自己中心的で、他者への働きかけも自分の欲望をベースにしたものです。ところが、己の欲望がどうあっても満たされないと分かった後で、彼はさらに意外な行動を採ります。人間の心の「深淵」を覗くという意味でも、本作でももっとも印象に残る人物です。

もちろん、こういう登場人物ばかりではありません。善を代表する人物として、ラスコーリニコフの母親プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、ドゥーニャ、ラスコーリニコフの友人ラズミーヒンが登場します。悪を代表する人物としては、己の出生しか考えておらず、おためごかしでドゥーニャと結婚しようとするルージンが登場します。しかし、ある意味で分かりやすい、こういう人物像は、やはりドストエフスキーの本領ではないような気がします。人間の「深淵」の深さは、やはりただ事ではないのです。しかし「深淵」を「深淵」のまま描き出すことに成功した文学者はそんなに多いわけではなく、そこがやはりドストエフスキーの凄さであり偉大さであることを、今回の再読で痛感しました。もちろん、前述したように、全編を通して登場人物の感情あふれる力強い台詞の数々も素晴らしいです。

しかし同時に、本作のラスト、流刑となったラスコーリニコフと、彼を追ってやって来たソーニャが、よやく真に心を通わせ、刑期を終えるまで「7年!たった7年!」と思うようになる場面は、とても感動的でした。これも凄いことだと思います。

またまた、異例の長文になってしまいました。ここまで読んでくださった方には感謝いたします。最後に、本作のラストを引用して、この拙文を終わらせてもらいます。

「しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。一人の人間がしだいに更生していくものがたり、その人間がしだいに生れ変り、一つの世界から他の世界へしだいに移って行き、これまでまったく知らなかった新しい現実を知るものがたりである。これは新しい作品のテーマになり得るであろうが、―このものがたりはこれで終った」

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  • 掲載日:2026/04/14
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