爽風上々さん
レビュアー:
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地名というものはずっと続いているようで結構無くなっていくものかもしれません。そういった事例を取り上げています。
様々な社会的要因や変動で昔の地名がどんどんと消えていくということはよく見られます。
この本は2000年の時点で熊本の地元新聞社熊本日日新聞の呼びかけで、熊本県内各地の地域の歴史愛好者たちが集まり、「消えた地名」をまとめたものです。
地名の消える要因ということでは、市町村合併というのが非常に大きいのですが、それだけではありません。
そもそも何らかの人々の動きや産業によってできた集落などに付けられた地名もその集落が無くなってしまえばそれに伴い消えてしまうということもあるようです。
なお、この本で扱われた例は古来の地名が消えたという例ばかりでなく、明治やそれ以降になってできた地名がさらに消えたというものも取られています。
明治22年の全国的な市町村合併というものがあり、その時に古来の地名の多くが消えたということもあったのですが、その時に命名された新地名がさらにその後(昭和、平成の合併)によって消えてしまうということも多く起きていました。
数多くの例が紹介されていますが、一つについての記述は1ページのみ。
これではなかなか十分に説明というわけにもいかず、また多くの執筆者によって書かれているために統一もされておらず、その地名の由来に重点を置くものもあり、地名の消失を語るものもあり、やや不揃い感はありました。
私としてはこの本の趣旨からも「地名の消失状況」を詳しく知りたかったのですが。
熊本市中心近くに新屋敷と言われる地名が今でもありますが、これは幕末に武家屋敷が不足してきたために拡張することとなったためだそうです。
それは明治になっても続き、どんどんと新屋敷と言われる地域が広がってしまったため、もともとの新屋敷は「古新屋敷」と呼ばれるようになったとか。
しかし第二次大戦の空襲ですべて焼かれ、その後の区画整理で消えてしまいました。
玉名郡岱明町の中で、330年前の絵図に記されている「土器屋村」(かわらけやむら)は明治9年に中程村と合併しその名は消失しました。
村名の由来は分かっていないのですが、古代の土器の製造途中の遺物が発掘されているためその製造が為されていたのではないかと考えられています。
これを「かわらけや」と読むのは珍しいのでは。
かつて知人にこう書いて「どきやさん」という人がいました。
八代市には明治時代以降大工場が進出し、熊本県内でも大きな工業地帯となりました。
特に昭和初期には三楽酒造(現メルシャン)、興国人絹(現興人)、十条製紙(現日本製紙)の各社が工場を建てたのですが、その地の地名はそれぞれ三楽町、興国町、十条町となりました。
それらの地は以前は別の地名があったわけですが、そういった名は消えてしまいました。
それが三楽町は、古浜町、六反畑町、浜成町等、興国町は明成寺、源代、高野辺等、十条町は八反、西、水戸、長森等の地名だったそうです。
熊本では現在の熊本市および八代市が城下町と言えるものですが、そこでは武家屋敷の地域と町人の地域とが別れており、江戸時代には武家屋敷の地名は「小路(しゅうじ)」と呼ばれていたものが、明治に入ると「丁」と書くようになったそうです。
それで町人地区の「町」と区分けしていたそうですが、明治12年には武家街でも「町」の字を使うことになりました。
八代でもかつては飛渡丁、堀端丁という地名があったそうですが、まったく残っていません。
人々の暮らしが変わってしまって地名も消えるというのは仕方ないこととも思えますが、市町村合併のようなことで古い地名が消えるというのは少し疑問に感じます。
この本は2000年の時点で熊本の地元新聞社熊本日日新聞の呼びかけで、熊本県内各地の地域の歴史愛好者たちが集まり、「消えた地名」をまとめたものです。
地名の消える要因ということでは、市町村合併というのが非常に大きいのですが、それだけではありません。
そもそも何らかの人々の動きや産業によってできた集落などに付けられた地名もその集落が無くなってしまえばそれに伴い消えてしまうということもあるようです。
なお、この本で扱われた例は古来の地名が消えたという例ばかりでなく、明治やそれ以降になってできた地名がさらに消えたというものも取られています。
明治22年の全国的な市町村合併というものがあり、その時に古来の地名の多くが消えたということもあったのですが、その時に命名された新地名がさらにその後(昭和、平成の合併)によって消えてしまうということも多く起きていました。
数多くの例が紹介されていますが、一つについての記述は1ページのみ。
これではなかなか十分に説明というわけにもいかず、また多くの執筆者によって書かれているために統一もされておらず、その地名の由来に重点を置くものもあり、地名の消失を語るものもあり、やや不揃い感はありました。
私としてはこの本の趣旨からも「地名の消失状況」を詳しく知りたかったのですが。
熊本市中心近くに新屋敷と言われる地名が今でもありますが、これは幕末に武家屋敷が不足してきたために拡張することとなったためだそうです。
それは明治になっても続き、どんどんと新屋敷と言われる地域が広がってしまったため、もともとの新屋敷は「古新屋敷」と呼ばれるようになったとか。
しかし第二次大戦の空襲ですべて焼かれ、その後の区画整理で消えてしまいました。
玉名郡岱明町の中で、330年前の絵図に記されている「土器屋村」(かわらけやむら)は明治9年に中程村と合併しその名は消失しました。
村名の由来は分かっていないのですが、古代の土器の製造途中の遺物が発掘されているためその製造が為されていたのではないかと考えられています。
これを「かわらけや」と読むのは珍しいのでは。
かつて知人にこう書いて「どきやさん」という人がいました。
八代市には明治時代以降大工場が進出し、熊本県内でも大きな工業地帯となりました。
特に昭和初期には三楽酒造(現メルシャン)、興国人絹(現興人)、十条製紙(現日本製紙)の各社が工場を建てたのですが、その地の地名はそれぞれ三楽町、興国町、十条町となりました。
それらの地は以前は別の地名があったわけですが、そういった名は消えてしまいました。
それが三楽町は、古浜町、六反畑町、浜成町等、興国町は明成寺、源代、高野辺等、十条町は八反、西、水戸、長森等の地名だったそうです。
熊本では現在の熊本市および八代市が城下町と言えるものですが、そこでは武家屋敷の地域と町人の地域とが別れており、江戸時代には武家屋敷の地名は「小路(しゅうじ)」と呼ばれていたものが、明治に入ると「丁」と書くようになったそうです。
それで町人地区の「町」と区分けしていたそうですが、明治12年には武家街でも「町」の字を使うことになりました。
八代でもかつては飛渡丁、堀端丁という地名があったそうですが、まったく残っていません。
人々の暮らしが変わってしまって地名も消えるというのは仕方ないこととも思えますが、市町村合併のようなことで古い地名が消えるというのは少し疑問に感じます。
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小説など心理描写は苦手という、年寄りで、科学や歴史、政治経済などの本に特化したような読書傾向です。
熊本県の片田舎でブラブラしています。
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- 出版社:熊本日日新聞社
- ページ数:0
- ISBN:9784877550912
- 発売日:2000年11月09日
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