darklyさん
レビュアー:
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本書の副題は「死んだらどうなるかは自分で決めなさい」、それはどのように生きるのかと同じ問いである。
本書は「不思議なキリスト教」で有名な橋爪大三郎さんが死をテーマに書かれたものです。所謂スピリチュアルなものではなく、またキュブラー=ロスや立花隆のように医学あるいは科学的に死について迫ろうとしたものでもありません。いわば様々な宗教の死についての考え方を通じて、私たちは死をどのように捉えるべきなのか、そしてどのように生きるべきなのかという哲学に近い内容となっています。
著者はまず科学で死は扱えないと主張します。科学はこの世界の経験的な出来事を、合理的に説明するものです。その科学を担うのは生きている人間です。しかしその人間である私が死ねば何も経験できず死という科学は成り立ちません。ではどのようなアプローチがあるかと言えば哲学と宗教ということになります。
本書はまず代表的な宗教についての概説とその宗教における死についての考え方を整理します。一神教ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教があります。インドにおける宗教としてバラモン教を元にヒンドゥー教生まれ、そこから仏教が派生しました。そして中国の儒教や道教、様々な宗教がごちゃ混ぜとなった日本における神道や仏教など。それぞれの宗教には死について様々な考え方がありますが、どれを信じるとか、どれが真実なのか等は本質的な問題ではないと筆者は考えています。大事なのは死に対する自分の考え方を決めることによりどのように生きるかが決まるということなのです。
実は「死」と「神」という概念は似ています。どちらも科学ではどのようなものか証明できないが、人生においては意味があるという点で。その一つの例を挙げたいと思います。
私は常々、一流の科学者でありながら神を信じる学者が多数いることを不思議に思っていました(主にキリスト教)。彼らほどの合理主義者がなぜ神を信じるのか。本書を読み自分の考えが浅いことを思い知らされました。それは徹底した合理主義者だからこそ神が必要なのです。
合理主義はすべての結果には原因があると考えます。では自分がこの世に生まれたことに合理的な説明はあるのか。それは単なる偶然ではないのか。いくら考えても偶然という可能性を否定できない。偶然なら自分の人生にそもそも意味などないのかもしれない。その不安定な状況をまさに神という存在が救ってくれます。私が存在するのも、自然が存在するのも、物理法則が存在するのも、すべて神の意思であると。著者は一神教と合理主義は親和性が高いと述べています。
重要なのはこの先です。この世に偶然はなく、すべては神の意思であり、自分も理由があって神が生み出したものだ。だからこの人生には意味があり、ベストを尽くさなければならないと考えることが重要なのです。かたや神など存在しない、死ねばただの虚無だと考えれば、その人は捨て鉢な人生を送るかもしれません。私のような表面的にしか宗教のことがわからない人間は「神を信じる」=「神が客観的に物理的に存在していると思っている」と捉えてしまい、あたかも神の存在証明が議論の中心のように思ってしまいますが、(確かめようもない)神の存在は実は手段であって目的は人生をよりよく生きることなのです。
死に対する考え方が生き方を決める別の例を挙げてみましょう。なぜ一向一揆が手強かったのか。正確な表現ではありませんが、基本的には仏教には輪廻転生しながら仏を目指すというステップがあります。これには途方もない時間がかかる上に、何に転生するかも分かりません。一向宗などの浄土信仰は死ぬと輪廻せずに極楽に往生できます。極楽に往生すれば仏の一歩手前まで一気に修行のランクが進みます。著者曰く修行のショートカットです。そして極楽で死ぬと仏になれるのです。しかもそのためには念仏を唱えるだけで良いのです。
抽選で何名様極楽へご招待ではないのです。全員、どんな身分も人でも漏れなく当選です。こうなれば死を恐れず念仏唱えながら修行として信長と戦うのです。死を恐れない集団ほど強いものはありません。
本書は高校生でも分かるようにと、難しい言葉を使わずに分かりやすく、しかし散漫な内容になりがちな宗教論を死にフォーカスすることでとても各宗教がイメージしやすく大変参考となりました。もちろん宗教の奥は深く、本書はそのさわりだけなのですが、私にとってはとても知的興奮を覚える内容でした。
著者はまず科学で死は扱えないと主張します。科学はこの世界の経験的な出来事を、合理的に説明するものです。その科学を担うのは生きている人間です。しかしその人間である私が死ねば何も経験できず死という科学は成り立ちません。ではどのようなアプローチがあるかと言えば哲学と宗教ということになります。
本書はまず代表的な宗教についての概説とその宗教における死についての考え方を整理します。一神教ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教があります。インドにおける宗教としてバラモン教を元にヒンドゥー教生まれ、そこから仏教が派生しました。そして中国の儒教や道教、様々な宗教がごちゃ混ぜとなった日本における神道や仏教など。それぞれの宗教には死について様々な考え方がありますが、どれを信じるとか、どれが真実なのか等は本質的な問題ではないと筆者は考えています。大事なのは死に対する自分の考え方を決めることによりどのように生きるかが決まるということなのです。
実は「死」と「神」という概念は似ています。どちらも科学ではどのようなものか証明できないが、人生においては意味があるという点で。その一つの例を挙げたいと思います。
私は常々、一流の科学者でありながら神を信じる学者が多数いることを不思議に思っていました(主にキリスト教)。彼らほどの合理主義者がなぜ神を信じるのか。本書を読み自分の考えが浅いことを思い知らされました。それは徹底した合理主義者だからこそ神が必要なのです。
合理主義はすべての結果には原因があると考えます。では自分がこの世に生まれたことに合理的な説明はあるのか。それは単なる偶然ではないのか。いくら考えても偶然という可能性を否定できない。偶然なら自分の人生にそもそも意味などないのかもしれない。その不安定な状況をまさに神という存在が救ってくれます。私が存在するのも、自然が存在するのも、物理法則が存在するのも、すべて神の意思であると。著者は一神教と合理主義は親和性が高いと述べています。
重要なのはこの先です。この世に偶然はなく、すべては神の意思であり、自分も理由があって神が生み出したものだ。だからこの人生には意味があり、ベストを尽くさなければならないと考えることが重要なのです。かたや神など存在しない、死ねばただの虚無だと考えれば、その人は捨て鉢な人生を送るかもしれません。私のような表面的にしか宗教のことがわからない人間は「神を信じる」=「神が客観的に物理的に存在していると思っている」と捉えてしまい、あたかも神の存在証明が議論の中心のように思ってしまいますが、(確かめようもない)神の存在は実は手段であって目的は人生をよりよく生きることなのです。
死に対する考え方が生き方を決める別の例を挙げてみましょう。なぜ一向一揆が手強かったのか。正確な表現ではありませんが、基本的には仏教には輪廻転生しながら仏を目指すというステップがあります。これには途方もない時間がかかる上に、何に転生するかも分かりません。一向宗などの浄土信仰は死ぬと輪廻せずに極楽に往生できます。極楽に往生すれば仏の一歩手前まで一気に修行のランクが進みます。著者曰く修行のショートカットです。そして極楽で死ぬと仏になれるのです。しかもそのためには念仏を唱えるだけで良いのです。
抽選で何名様極楽へご招待ではないのです。全員、どんな身分も人でも漏れなく当選です。こうなれば死を恐れず念仏唱えながら修行として信長と戦うのです。死を恐れない集団ほど強いものはありません。
本書は高校生でも分かるようにと、難しい言葉を使わずに分かりやすく、しかし散漫な内容になりがちな宗教論を死にフォーカスすることでとても各宗教がイメージしやすく大変参考となりました。もちろん宗教の奥は深く、本書はそのさわりだけなのですが、私にとってはとても知的興奮を覚える内容でした。
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昔からずっと本は読み続けてます。フィクション・ノンフィクション問わず、あまりこだわりなく読んでます。フィクションはSF・ホラー・ファンタジーが比較的多いです。あと科学・数学・思想的な本を好みます。
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- 出版社:ダイヤモンド社
- ページ数:0
- ISBN:9784478111192
- 発売日:2020年09月30日
- 価格:1870円
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