Yasuhiroさん
レビュアー:
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架空の島のフィールドワークの形を借りて日本の「喪失」を描ききる。梨木香歩が日本語表現を極めたと感じさせる傑作。
新作「椿宿の辺りに」を上梓された梨木香歩さん、実に5年ぶりだそうです。で、その5年前の長編が「海うそ」。2014年発表という時期から推察できるように、東日本大震災の体験を通して新たに「喪失」ということを描こうとした大作でした。
物語は二部からなり、前半は昭和初期、人文地理学者秋野が指導教授、婚約者、そして両親を相次いで亡くし、恩師の遺志を継ぐべく九州南部にある架空の島「遅島」にフィールドワークにやってくるところから始まります。
冒頭にその島の地図が記されていて、前半から中盤でその地図の一つ一つが丹念に描写されます。彼をあたたかく迎える人々、島の地名・由来や場所による違い、地質学、動物学、植物学、地質学、民家構造に関するレヴィ・ストロース的環太平洋民俗学、風習と宗教、平家落人伝説等々の考察。まるで実在の島があって著者自身がフィールドワークを行ったかの如くに、微に入り細を穿ち描かれていて見事です。(地理や大きさ、形的に言うと九州の甑島あたりが似ているかな、と思います。もちろん橋を渡せるほど近くはありませんが)
特に修験道の島という設定を活かし、残存する祠、洞穴、そして、かつて高野山に比肩した施設の廃墟等、明治維新後の廃仏毀釈により「喪失」したものは本当に丹念に描かれています。
そして最後には海。蜃気楼である「海うそ」へと秋野の関心は深まっていきます。
梨木さんは、それら実際に失われたもの、実際にはないものへの哀切な思いと、秋野本人が深いところで何かを「喪失」いるさまを淡々とではありますが、絶妙にリンクさせています。
例えばカモシカに対する主人公の観察。こちらをじっと見つめるカモシカの眼差しは、曰く言い難い神秘的な気配と哀愁を漂わせているように秋野は感じます。その思いの源泉は亡き許嫁でした。彼女は何もかも見透かすような
更に、冬にはカモシカが立ち尽くしたまま凍死していることがあるという島人の話や、洞穴の奥の暗黒に吸い込まれそうになる主人公の描写を通して、何か許嫁の死に秘密があるのではないかと感じさせる梨木の文章は絶妙です。
もちろんそれだけではありません。昭和初期篇における滋味ある梨木さんの文章は、日本語表現を極めた感があるほど素晴らしい。
後半はそれから五十年後。秋野は結婚して二人子どもをもうけ、もう八十台。残念ながら遅島の家構造に関する論文は書けず、老いてしまいました。そして因果は巡るのか、息子が勤務先の総合レジャーランド、リゾート開発計画のため、遅島に赴任していたことを知ります。秋野は矢も楯もたまらず遅島を再訪しますが、なんと遅島には本土から橋が架かっていました。
昭和初期でも「喪失」しているものは数多くありましたが、それからの50年はもっと徹底的に、秋野が慈しんだこの島を変えてしまっていました。
その一つとして、カモシカは絶滅していました。息子にそのことを知らされた時初めて父は許嫁の死の真相を語ります。
そして、達観するのです。終盤の文章の見事さはもう鳥肌が立つほど感動的でした。引用して終わります。
物語は二部からなり、前半は昭和初期、人文地理学者秋野が指導教授、婚約者、そして両親を相次いで亡くし、恩師の遺志を継ぐべく九州南部にある架空の島「遅島」にフィールドワークにやってくるところから始まります。
冒頭にその島の地図が記されていて、前半から中盤でその地図の一つ一つが丹念に描写されます。彼をあたたかく迎える人々、島の地名・由来や場所による違い、地質学、動物学、植物学、地質学、民家構造に関するレヴィ・ストロース的環太平洋民俗学、風習と宗教、平家落人伝説等々の考察。まるで実在の島があって著者自身がフィールドワークを行ったかの如くに、微に入り細を穿ち描かれていて見事です。(地理や大きさ、形的に言うと九州の甑島あたりが似ているかな、と思います。もちろん橋を渡せるほど近くはありませんが)
特に修験道の島という設定を活かし、残存する祠、洞穴、そして、かつて高野山に比肩した施設の廃墟等、明治維新後の廃仏毀釈により「喪失」したものは本当に丹念に描かれています。
そして最後には海。蜃気楼である「海うそ」へと秋野の関心は深まっていきます。
梨木さんは、それら実際に失われたもの、実際にはないものへの哀切な思いと、秋野本人が深いところで何かを「喪失」いるさまを淡々とではありますが、絶妙にリンクさせています。
例えばカモシカに対する主人公の観察。こちらをじっと見つめるカモシカの眼差しは、曰く言い難い神秘的な気配と哀愁を漂わせているように秋野は感じます。その思いの源泉は亡き許嫁でした。彼女は何もかも見透かすような
ロシア風の黒い大きな瞳を持っていました、それがカモシカの瞳とそっくりだったのです。
更に、冬にはカモシカが立ち尽くしたまま凍死していることがあるという島人の話や、洞穴の奥の暗黒に吸い込まれそうになる主人公の描写を通して、何か許嫁の死に秘密があるのではないかと感じさせる梨木の文章は絶妙です。
もちろんそれだけではありません。昭和初期篇における滋味ある梨木さんの文章は、日本語表現を極めた感があるほど素晴らしい。
その地名のついた風景の中に立ち、風に吹かれてみたい、という止むに止まれぬ思いが湧いて来たのだった。決定的な何かが過ぎ去ったあとの、沈黙する光景の中にいたい。そうすれば人の営みや、時間というものの本質が、少しでも感じられるような気がした。
私は一昨年、許嫁を亡くし、また昨年、相次いで親を亡くしていた。(龍目蓋ー影吹)
恐ろしいくらいの意気軒昂を誇っていた真夏の庭の植物たちが、憑き物の落ちたように素直になって、天の恵の滴を受けている。(龍の目蓋ー角小御崎)
夜遅く上り始めた月は、深更、山間の小さな苫屋の屋根にも、その生命のまなざしを皓々と降り注いでいたのだった。(中略)ただただ無心に漏れ来る光の林よ。
(中略)いつの間にか晩夏夜半の虫の音が、遠慮深げに辺りに響き、月光は紫雲山の稜線を白々と浮かび上がらせていた。厳かに、知らず、跪いて、頭を垂れる。(呼原ー山懐)
けれど、この、胸を引き千切られるような寂寥感は。
空は底知れぬほど青く、山々は緑深く、雲は白い。そのことが、こんなにも胸つぶれるほどにつらい。(山懐ー尾崎ー森肩)
後半はそれから五十年後。秋野は結婚して二人子どもをもうけ、もう八十台。残念ながら遅島の家構造に関する論文は書けず、老いてしまいました。そして因果は巡るのか、息子が勤務先の総合レジャーランド、リゾート開発計画のため、遅島に赴任していたことを知ります。秋野は矢も楯もたまらず遅島を再訪しますが、なんと遅島には本土から橋が架かっていました。
昭和初期でも「喪失」しているものは数多くありましたが、それからの50年はもっと徹底的に、秋野が慈しんだこの島を変えてしまっていました。
その一つとして、カモシカは絶滅していました。息子にそのことを知らされた時初めて父は許嫁の死の真相を語ります。
そして、達観するのです。終盤の文章の見事さはもう鳥肌が立つほど感動的でした。引用して終わります。
そして過去に見た紫雲山の、神さびてすらいた姿が、ロープウェイさえ引かれようとする今の姿と、奇岩に覆われていた胎蔵山の謎めいた姿が、削られて威厳など跡形もなくなった今の姿と、まるでそれぞれが最初からひとつのものであったかのように、私の中で認識されてきたのだった。時間というものが、凄まじい速さでただ、直線的に流れ去るものではなく、あたかも過去も現在も、なべて等しい価値で目の前に並べられ、吟味され得るものであるかのように、喪失とは、私の中に降り積もる時間が、増えていくことなのだった。
立体模型図のように、私の遅島は、時間の陰影を重ねて私の中に新しく存在し始めていた。これは、驚くべきことだった。喪失が、実在の輪郭の片鱗を帯びて輝き始めていた。(五十年の後)
「昔、ひとの好い爺さんと婆さんが、たらい舟であの温泉に通ったものだ・・・・・・」
長い長い、うそ越えをしている。
超えた涯は、まだ、名づけのない場所である。
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馬鹿馬鹿しくなったので退会しました。2021/10/8
この書評へのコメント
- ことなみ2019-06-25 08:44
三太郎さん
東北にもいるんですね。野性の動物には魅力があります。だんだん住みづらくなっているでしょうね。
そうなんです。出合ってびっくりしました。
私の旅の記録に娘が書いたものですが。
「向こうも驚いたろうが、こっちも驚いたよ」
「今回はこうして偶然出会えたが、熊野には「かもしか牧場」という
ニホンカモシカを自然飼育している施設もある」
らしいです。娘には間違いなく私の遺伝子がはいってます(^▽^)
奈良といっても上北山村から熊野に抜けたんです。それも雪がチラついてました。相当山深い道でいつもの高速はやめようと意見が一致して、カモシカと対面しました。朝夕の海も綺麗だったのにカモシカ騒ぎで盛り上がりました。
ピンボケを一枚。うまく張り付きますかしら。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 
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- 出版社:岩波書店
- ページ数:200
- ISBN:9784000222273
- 発売日:2014年04月10日
- 価格:1620円
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