書評でつながる読書コミュニティ
  1. ページ目
詳細検索
タイトル
著者
出版社
ISBN
  • ログイン
無料会員登録

紅い芥子粒
レビュアー:
泉の底に六ペンス銀貨が落ちていたとする。そのとなりには、天中の満月が水に映っている。銀貨は、手を伸ばせば拾えるだろう。しかし、水に映った月は……
図書館閉館中なので、つい書店に足が向いてしまう。家には積読の本があり、kindleの中には未読の電子書籍が眠っているというのに……

食料品の買い出しの途中に立ち寄った本屋さんで、この本をみつけた。
迷わず買ったのは、翻訳者が金原瑞人さんだったから。
積読にせず、帰宅後すぐに読み始めた。

作家の「わたし」を語り手に、ある画家の数奇な一生が語られる。
ゴーギャンの生涯をモチーフとした小説であることは、広く知られている。

「わたし」がチャールズ・ストリックランドに出会ったのは、まだ23歳の駆け出しの作家だったころ。
ストリックランド夫人の主催する夕食会に招かれて。
ストリックランド氏は40歳で、株式仲買人として成功し、そこそこの富と社会的地位を手にしていた。社交上手でまあまあの美貌の妻と一男一女の家庭の主人。
社会的には申し分のない男性だったが、若かった「わたし」の目には、退屈な人物に映った。

チャールズ・ストリックランドが失踪したのは、その数か月後のことだった。
妻には、一銭も残さずに。
結婚して十七年間、喧嘩ひとつしたことのない仲のいい夫婦だったのに。
パリから手紙が来たから、どうやらパリにいるらしい。
手紙には「帰るつもりはない」とだけ、書いてあったという。

きっとオンナができたのよ、お願い、パリへ行って確かめてきて――夫人に懇願され、「わたし」は、パリへ出向いてストリックランドを探した。
高級ホテルにいると思いきや、彼は、貧民街のみすぼらしいホテルに滞在していた。
オンナはいなかった。画を描くために、何もかも捨てたと、彼は「わたし」にいった。
妻も子も、どうなろうと知ったことか、おれは描かなきゃならんのだ、と。

そのことを夫人に伝えると、あの人に絵の才能なんてあるものか、若いころに描いていたことがあるが、子どもよりも下手くそだった、あんな人、貧乏のまま野垂れ死にすればいいんだと、こき下ろし、嘆いた。

それから五年後、「わたし」は、パリに移り住んだ。
パリには、ディルク・ストリーヴェという画家の友人がいた。きれいな写真のような絵を描き、よく売れたが、芸術の才能はない絵描きだった。人情家でお人好し、生まれついての道化師のような男だったが、不釣り合いの美しい妻と心地よい家庭を築いていた。
ストリーヴェにストリックランドのことをきくと、よく知っていると答えた。彼の絵は素晴らしい、彼こそほんものの天才だと、ストリーヴェはストリックランドのことを称賛する。

しかし、ストリックランドは、あいかわらず無名で貧乏だった。
汚らしい狭い部屋で、食うや食わずで売れない画を、いや売るつもりもない絵を描いていた。不衛生や栄養失調が祟ったのか、彼は、重い病を得る。
放っておいたら死んでしまう、あの男は不世出の天才だから死なせてしまってはならんと、ストリーヴェは、夫人の拒絶を押し切って、ストリックランドを自宅に連れてきて、献身的に看病する。
一命をとりとめたストリックランド。しかし、そのことが、ストリーヴェ夫妻に恐ろしい災難を招く……

おもしろくて恐い小説だった。会話文が簡潔で、テンポよく書かれていることもあるだろう。読みやすく、読みだしたら止まらなかった。
ストリックランドの狂気じみた残酷さは、「地獄変」(芥川龍之介)の絵師・良秀に通じるものがあると思った。
若かった「わたし」が初めて会ったときは、凡庸で退屈な印象しか残さなかった男が、わずか数か月で豹変してしまう。だれにもさとられず、胸底でじわじわと芸術への熱と狂気を育てていたのかと思うと、人間っておそろしいと思う。

ゴーギャンがそうであったように、ストリックランドも、その後タヒチへ移住する。
そこで、数多の傑作を描き遺した。その作品が高く評価されたのは、彼の死後だったが……

表題の「月と六ペンス」の意味を考えた。
浅い泉の底に、六ペンス銀貨が沈んでいたとする。
そのとなりには、天中の満月が水に映っている。
六ペンス銀貨は、手を伸ばせば拾えるだろう。
しかし、水に映った月は、すくってもすくっても、指の間からこぼれ落ちてしまう。けっしてすくい上げることはできない。
六ペンスは、世俗的な富と幸福の象徴、月は美と芸術の象徴。
美に憑りつかれたストリックランドは、月をすくい上げようとして、狂気のように生きて、死んだのだ。


お気に入り度:本の評価ポイント本の評価ポイント本の評価ポイント本の評価ポイント本の評価ポイント
掲載日:
投票する
投票するには、ログインしてください。
紅い芥子粒
紅い芥子粒 さん本が好き!1級(書評数:561 件)

読書は、登山のようなものだと思っています。読み終わるまでが上り、考えて感想や書評を書き終えるまでが下り。頂上からどんな景色が見られるか、ワクワクしながら読書という登山を楽しんでいます。

読んで楽しい:12票
参考になる:19票
あなたの感想は?
投票するには、ログインしてください。

この書評へのコメント

  1. No Image

    コメントするには、ログインしてください。

書評一覧を取得中。。。
  • あなた
  • この書籍の平均
  • この書評

※ログインすると、あなたとこの書評の位置関係がわかります。

『月と六ペンス』のカテゴリ

フォローする

話題の書評
最新の献本
ページトップへ