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「そういう時間と空間を求めて、わざわざここまでやってきたのだから。とはいえ、ひとりでいることの不可能をもっと自然に受け止められるようになれたら、とも心の底で期待しているあたりに、・・・」(103頁)

  • レビュアー: さん
  • 本が好き!1級
河岸忘日抄
 本書を要約すれば、ある日本人が(30代前半くらいでしょう)かつて留学していたフランスへ渡り、河岸に係留されている舟に暮らす日々の記録となります。学校や職場に通うことはなく、おそらくほぼ1日中、その舟の中にいるようです。
 彼がしていることを外観からみると、そこで「暮らす」もしくは「住む」ことだけで、フランス内を観光したりもしません。それだけのお話で文庫版400頁近くを埋め尽くします。ところが、それが退屈かというとそんなことはまったくなく、「ずっとこのまま読んでいたい」という思いにもさせられる、そんな不可思議な小説です。文庫版解説は、哲学者の鷲田清一。

 何かを急かされるような現代社会の日々へのアンチテーゼ、なんていうのを気取っているわけでもなく、本当にただそこで暮らすだけです。人によっては、この状態を「引きこもり」と評するかもしれませんし、定義上「ニート」にあてはまるかもしれません。
 なぜ、彼が「ここ」にやってきたのか。日本でうまくいかないことがあったようでもあり(本文中でたしか1回だけ、働きすぎたと大家に告白する場面があります)、身近な親族を亡くしたことにも少しだけふれられています。そんなもろもろから逃げてきて、引きこもっているかにも見えます。ただ、彼の日々はいわゆる「引きこもり」かというと、そういう感じはまったくしません。そもそも日本の自室ではなく、かつての留学先に来ているだけでも、とても前向きな感じもします。

 期間の長短はあれ、世間的に想像される引きこもりに限らず、育児や介護、その他もろもろの事情で世間から離される日々を送ることになった人は実は少なくはないことでしょう。その時の心的状態を顧みた場合、過去の出来事にこだわり、その記憶や思いに苦しまされることが多いのではないでしょうか。
 どうでもいいような些事が思い起こされ、なぜあれができなかったのか、これができていたら今は、などと無益な思いに囚われます。そして囚われる思いしかできないことに余計に鬱々ともします。ただ、これは考えてみれば当たり前の話です。事情はどうであれ引きこもり状態では、自身の未来や現在を考えるきっかけがないわけで、向き合えるのは過去とその情報しかないわけですから、どうしても過去の出来事を参照するしかなくなるわけです。前向きになりようがないわけです。
・・・彼の本性的な弱さがあった。」(103頁)

 本書の主人公はどうかというと、この状態からは紙一重で脱している印象があります。過去の出来事に囚われていないとはいえないかもしれませんし、前向きとは言い難いです。が、ごく限られた回路とはいえ、そこをもとにから日々を暮らしていきます。定期的にくる郵便配達夫にコーヒーをふるまい、時々クレープをたべにくる少女と語らい、たまにこの舟の大家と語らい(正確にはおもに大いに語られるのを聞く側ですが)、そして日本にいる枕木さんと手紙やFAXのやりとりをします。そうしたささやかなことが彼を現在に係留しているのです。
 こう書いてみると、なんだかとても豊かな日々にも見えてきます。とりわけ、大家とのやり取りは、というより大家の反語的なことばは、彼の静かな生活と読者の思考を心地よくかきまわしてくれます。たとえば、以下のようなどう読んでも矛盾することばが説得力をもって迫ってきます。

「いいか、きみはまだ若いほうに属する人間だ、けっして大勢にはつくな、多数派には賛同するな、たとえ連中が正しくともだ、こいつは屁理屈なんかではない、なぜなら、数が多いというだけで、それはまちがっているからだよ。」
(本書、327頁)

 そんな主人公の日々が気になって、ページをめくってしまう1冊です。ちなみに、私もヘクトパスカルよりも、ついミリバールと発してしまう派です。
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  • 掲載日:2026/05/14
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