ディーノ・ブッツァーティ(1906-1972)は、20世紀イタリアを代表する作家の一人です。彼は、ミラノの新聞社《コッリエール・デラ・セーラ》に21歳の時に入社したのですが、「最初は校正部で働いたのだが、後にはレポーターや特別特派員、エッセイスト、編集者、批評家として働く」(Wikipediaより)ようになり、結局死ぬまで在籍することになりました。ただ、今まで彼が新聞に書いた短い記事やコラムがまとまって日本に紹介されたことはないはずで、そういう意味では、興味深く読ませてもらいました。なお、収録作は『犯罪 LA NEAR』(2021年)から訳者が選んだものです。四つの題材を扱った複数のコラムが収録されていますが、特に印象的なものを簡単に紹介します。
●『黒の事件簿-初期掌編コラム集』
15の掌編が収められていますが、重犯罪を扱っているわけではなく、ケチな詐偽やコソ泥の話ばかりで、読んでいておかしい話が多いです。いくつか紹介します。
・『ガソリンスタンドでの盗み』
あまり腕のよくない自動車整備士が、ある建物の中庭にあった新品のバイクの誘惑にかられ、エンジンをかけて、走り去ります。ところが、50メートルもいかないうちに、エンストを起こし、いろいろ修理を試みたのですが直らないので、手で押して歩いていました。一方、自宅で夕食中、聞きなれたエンジン音を耳にした持ち主は、すぐさま外に走り出て、遠くにバイクと泥棒の姿を認めます。ところが、この泥棒、すぐにバイクを放りだすと、全速力で逃げ出します。その早いこと!追手を振り切るかと思われた時、たまたま通りかかった巡査と鉢合わせして、あっけなく御用となります。そして泥棒は、エンストの理由を知らされて、愕然としたのでした。
・『捜査官に同行して強盗被害者の身元確認をする泥棒』
題名通りの話です。被害者のところに警官と同行した泥棒が、被害にあったことに気づいていないのか、忘れたのは定かでないのですが、何も盗まれていないと主張する被害者にいう台詞がケッサクです。
「思い出してみてください。身分証明書と狩猟免許証が入っている赤い財布が思い浮かびませんか?」
・『死者のいない遺族の家で』
ある家に35歳くらいの人物が訪れ、「長々とした支離滅裂な自己紹介の後」家の主人の父親が重度の肺炎で、病院で死にかけていると伝えます。もちろん、主人はあわてて、自転車に飛び乗って病院に向かうのですが...。電話がさほど普及していない時代の話ですね。今では無理な詐欺です。
●『サン・グレゴリオ通りの虐殺』
イタリア犯罪史上でも有名な事件のようで、フィクション、ノンフィクション問わず、数多くの本で題材にされていることが、訳者による『D、あるいはジャーナリズムへの情熱』と題する巻末の文章でも述べられています。事件の内容については、ブッツァーティが書いていない前書きがあります。
「1946年11月29日、ミラノ。サン・グレゴリオ通り42番地で、フリウリ出身の31歳のリナ・フォルトが、恋人の不在に乗じて、シチリア出身の35歳の『織物業商人』として知られるジョゼッペ・リッチャルディのアパートに上がり込み、アイロンで殴りつけて恋人の家族全員を虐殺した。彼女は40歳の妻フランカ・パッパラルドと、7歳の息子ジョヴァンニ、5歳の娘ジュゼッピーナを滅多打ちにしたのだ。彼女の怒りは、生後わずか11か月の幼いアントニオを前にしても止まらず、翌朝、アントニオはハイチェアに座ったまま亡くなっているのが発見された。彼らはアイロンで殴られ、その後アンモニアに浸した脱脂綿で窒息死させられていたのだ。彼女は嫉妬から、それは短期間の同棲の後、リッチャルディに捨てられたことへの復讐のためだった。リナ・フォルトは直ちに逮捕され、17時間に及ぶ尋問の末に罪を自白した。(中略)リナ・フォルトは1950年に終身刑を宣告され(中略)1975年2月、彼女は28年と73日後に刑務所から解放され、カテリーナ・ベネデッソという名前でフィレンツェに移った。(中略)彼女は1988年3月に完全な孤独のうちに他界した。ジュゼッペ・リッチャルディは、深刻な危機を乗り越えて再婚した後、1974年にシチリア島で、63歳で亡くなった」
収録してあるコラム数は、虐殺現場への訪問、裁判の開始から結審するまでの16に及びます。もちろん世間的にも注目された事件ではあるのですが、ブッツァーティの関心も強かったことがうかがえます。ただ、裁判の内容を細かく報告するということにはあまり興味がなかったようで、もっぱら被告人リナ・フォルト、犠牲者の夫であり父親であるジョゼッペ・リッチャルディ、弁護人、判事、証人等の裁判関係者の描写、彼らを見ていて感じたことの記述が中心となっています。それゆえ、フランカ・パッパラルドの死体の状況が語られる場面は、かえって印象に残ります。
「仰向けに臥して...連続性のある三角形の裂け目...後頭部の一部に亀裂が8、9、10、11、12、13か所...下の縁に18と19か所...21、22、23、24か所...」
直接的に語られてはいませんが、犯行に使われた凶器のアイロンは、パッパラルド家のものであったようで、これが判決で「故殺」と判断された大きな理由のようです。なお、これに限りませんが、執筆当時によく知られていた事柄については、ほとんど説明していません。言い換えると、内容があまりにもリアルタイムな出来事であるため、そこから70年以上経って読むと、理解するのが難しい記述もあるようです。新聞に載せる文章という前提である以上、仕方ないことなのでしょうが、現在の読者にはちょっと辛い部分もあります。
●『ヴァヨントの災禍』
イタリアのみならず、世界の災害史上でも、有名な災害です。これも前書きを紹介します。
「ロンガローネ(ベッルーノ)、1963年10月9日。午後10時45分、サッカーの国債試合、レアル・マドリード対グラスゴー・レンジャーズがテレビで放映されていたとき、トック山で6億トンの土砂崩れが発生し、3年前に開通したヨーロッパで最も高いヴァヨント水力発電ダム(高さ262メートル)の建設によって作られた人口湖の薬1億5千万立方メートルの水が、盆地に流れ込んだ。土砂崩れによって発生した膨大な水量(2千3百立方メートル)が約2百メートルの波となり、ダムを越えて谷に流れ落ちたのだ。ダムは持ちこたえたが、ロンガローネ、ピラーゴ、リヴァルタル、ヴィッツラノーヴァ、フェアの村々は流された。最終的な死者数は1994人となる」
ここでは三つのコラムが収録されています。『自然の惨たらしさ』は事故発生の二日後、『ヴァヨンヨの少女人形』は1年後、『山崩れの監視者たち』は4年後に発表されたものです。実は、ブッツァーティは、この地方をよく知っていたようで、『自然の惨たらしさ』でこう述べています。
「私はそれらの場所をとてもよく知っている。何百回、何千回もそこに行ったことがある」
また、作者はこの事故を次のように表現しています。
「水の入ったコップに石が落ち、水がテーブルクロスの上に溢れた。それだけのことだ。石は山ほどの大きさで、その下のテーブルクロスの上には、自分自身を守ることのできない何千もの人間が生活していたのだ。コップが割れたわけではないので(中略)それを建てた人間たちを野獣と呼ぶことはできない。このコップは熟練の職人の手によって作られており、人間の粘り強さ、才能、勇敢さの証だ。ヴァヨントダムは、美的観点から見ても傑作だったし、今もなお傑作だ」
興味深いのは、作者がダムの存在そのものは批判していないことです。ブッツァーティは『戦艦《死》トート』や『偉大なる幻影』(別題『石の幻影』)を読んでも分かるように、巨大建造物に対する憧憬のようなものを感じるのですが、その気持ちが出ているようです。
そして『ヴァヨントの少女人形』は、作者の知人が持っていた不気味な人形のことを、どうもどこかで見たことがあると気になる話で、コラムというより、今風の実録怪談です。
『山崩れの監視者たち』は、被災地の復興にあたる現地関係者へのインタビューの試みを扱ったものですが、同時に、この大惨事の前にも後にも、他の人口湖に土砂崩れがあり水が溢れた災害が発生していることも語っていて、「監視者」たちの重要性を訴えたものです。
ところで、ネットで検索すると、このダムの名前は「バイオント」となっているのですが、この拙文では本書の記述に従っています。また、この事故が起きる前から前兆のような土砂崩れがあり、数日前から村民を避難させるべきであったとして、裁判で何人かが有罪になったとWikipediaには記されています。ただし、本書では、結局恩赦等で長期間の服役はしなかったことが語られています。その是非は別として、地滑りの規模は幅2キロにわたり、水面から2百メートル上にあった村まで被害を受けたそうですから、そこまで人間の想像力は及ばなかったのだろうという気はします。なお、この事故以来、ダム建設の際には、側面の山からの地滑りが重要なチェックポイントとなったそうです。また、このダムは現在は、発電所としては使われていないそうです。
さて、本書全体の感想ですが、それなりに面白かったり、興味深かったりしますし、ブッツァーティが実際の出来事からヒントをもらって創作していたと思うこともあるのですが、やはり、ブッツァーティのファン向きの本だと思います。やはり、ブッツァーティは小説家であったことを、再認識したような読書でした。
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