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「差別と憎しみを教える人を師匠などと呼べるものですか?あなたの神は神でないのです」(本書収録『アヴァター』より、イエシュアの台詞。彼の名前はナザレのイエスのヘブライ語読み)

  • レビュアー: さん
  • 本が好き!1級
  • 海外戯曲アンソロジ-: 海外現代戯曲翻訳集〈国際演劇交流セミナ-記録〉 (2)
  • by
  • 出版社:日本演出者協会
海外戯曲アンソロジ-: 海外現代戯曲翻訳集〈国際演劇交流セミナ-記録〉 (2)
日本演出家協会が編纂した「海外戯曲アンソロジー」全三冊の第二巻になります。この協会や、出版の背景と意気込みについては、第一巻のレビューで触れてありますので、そちらを参考にしてください。


本書には5人の作家の6作品が収録されていますが、個別に簡単に紹介します。なお()内は作者名、生没年、国籍、発表年となっています。


●『アヴァター』(ロベルト・ラモス=ペレア、1959年生まれ、プエルトリコ、1999年)

まず題名ですが、今ではまずオンラインゲームやSNSでのユーザーを表わすキャラクタのことをまず思い起こしますが、ここでは神の化身=アヴァターである主人公イエシュアを指しているのだと思います。なお、イエシュアとはイエスをヘブライ語読みした名前です。本作は、イエス・キリストとして知られる人物の若き日から処刑され復活するまでを描いたものですが、現代のマリア・コルテス・モンテネグロという比較宗教学の博士号と取ろうとしている女性が、学位論文の指導者たちとやり合う場面から始まります。マリアは冒頭でこう言います。

「何世紀もの間、ヨハネ、ルカそしてマルコの福音書だけがイエシュアの人生について信頼できる文献だった。しかし、それらの福音書は彼らの側近の弟子達によって書かれたものですらなく、キリスト教の宣伝と歴史主義的な予言書以外の何ものでもない。そこにある事実とは、カトリック教会とその評議会という上位の階級組織によって、2000年に渡って改ざんされたものである」

これは、おそらくその通りなのでしょう。ただ、現代の場面は冒頭だけで、その後はイエシュアの生涯をたどることになります。興味深い点は、いわゆる幕や場が本作には書かれていないこと、ト書きで、複数の登場人物を同一俳優が演じることが記されていることです。後者に関しては、キリストの生涯や聖書に詳しい方ならば、作者の意図について、いろいろと気づくことがあるかもしれませんが、そもそも宗教に懐疑的な私には、ちょっと無理です。そういう意味では、作中でイエシュアは仏教やイスラム教やヒンズー教の指導者たちと議論をするのですが、そこもこれらの宗教に対する基礎知識を持っていることが必要と感じてしまいました。というわけで、私にはこの作品を評価する資格がないようです。


●『ローズィーの食堂』(リック・シオミ、1947年生まれ、カナダ、1986年)

この作者は名前から分かるように、日系人の3世です。解説によると、作者は『黄熱』(1982年)という戯曲でデビューしたのですが、その主人公は日系の私立探偵で、ふとしたことから「ジャップ、チャンコロ排除」を掲げる白人至上主義者の秘密結社の存在を知り、日系のみならず中国系の仲間と力を合わせて、それに対峙するという内容だそうです。解説では「今まで沈黙を続けてきた日系人の欝憤が一気に吹きでたような過激なテーマ」と述べられていますが、これにはもちろん第二次大戦中の日系人の強制収容が背景にあります。アメリカでは、フォード大統領が1976年に大統領令で「日系人の強制収容は、誤りだっただけではなく、彼らは当時も今も、忠実なアメリカ人である」と述べたことが、この強制収容に対する最初の反省のようで、その後、1982年に強制収用を調査した委員会が「「日系人の強制収容は、軍事的な必要性ではなく、人種差別・戦時中の集団ヒステリー・政権の失策に基づいた、不当なものだった」と結論付けました。ですから『黄熱』がその同じ年に初演されたのは、ある意味で歴史的な出来事だったのでしょう。なお、カナダでは政府が正式に謝罪し、被害者に賠償金(一人21千ドル)が支払われたのは、1988年のことでした。本作の背景としては、こういうアメリカとカナダの事情があることは知っておいた方がいいでしょう。

時代は1951年、本作のヒロイン、20代初めのローズィー・オーハラは、母親がキャンディー・ショップ兼住宅を持っていた日本人街(おそらく西海岸)に戻ってきます。店は荒れ放題でしたし、近所にあった銭湯や食堂や日本語学校は、軒並み閉まっていましたが、ローズィーはここで食堂を開くことを決意します。しかし、両親をはじめ、親族は一人も残っていません。それでも、彼女はいろいろな人間の力を借りて少しずつ店の準備を始めました。

さて、登場人物ですが、この時代の日系社会を象徴するようなキャラクタを配してあります。登場人物のト書きの一部を紹介します。

「サム・シカゼ 20歳代初め。警察学校の生徒。
 ケンジ・カドタ サム・シカゼの友人。20歳代初め。『日系人の将来は白人社会との融和にあり』と信じている。
 ミチオ・タナカ 30歳代。実践的な処世術に長けている。戦時中の『日本人強制収用』をいまだに恨み、いつ爆発するか分からない強い怒りを抱えている。
 キミコ アッパー・ミドル・クラスの仲間入りを夢見る美女。
 ジョナサン・ウェブスター 中年の(白人)私立探偵。
 ジョニー・ワダ キミコの弟。ロックンロール狂で『ツイン・ジェイズ』というバンドのギター奏者」

これらの人物の会話から、強制収容された日系人の財産は政府によって安価に売却されたこと、日系人はカナダ社会でこれからどう生きるべきか様々な意見があること、日本に戻りたいと思っている人間もいること等が分かってきます。そして、白人を狙った一連の強盗事件が発生し、その犯人探しも始まるのでした。

さて、変な表現ですが、本書収録作のうち、この戯曲だけが物語も登場人物も「現実的」なものです。歴史上の事実を背景としているので当然なのですが、他の作品は時代が20世紀でなかったり、実験作だったりして、表現は悪いのですが、どうも「非現実的」なのです。そういう意味で、非常に入りやすい戯曲でした。


●『赤毛の司祭―ヴィヴァルディ、最後の恋』(ミエコ・オーウチ、1969年生まれ、カナダ、2003年)

こちらも日系3世ですが、生年には20年の隔たりがあり、扱っているテーマも違います。リック・シオミが日系人を登場させ、日系人に感心が深いテーマを取り上げているのに対し、ミエコ・ナオミは日系人が直接関係するテーマには興味がないようです。

本作の主人公は『四季』が有名な音楽家ヴィヴァルディ(1678-1741)です。聖職者でもあり、実際に「赤毛の司祭」というあだ名がついていました。彼はヴェネツィアに生まれ、理髪師でしたがヴァイオリンの名手としても知られた父親の手ほどきを、幼少期から受け、自らも名手となりました。司祭となったのは「庶民階級のヴィヴァルディが、やがて世に出て、さまざまな階級の人と引け目なく交わるには、聖職者になるのがもっとも確実な方法だった」とWikipediaには書かれています。

本作は、ヴィヴァルディがパトロンの覚えを良くするために、パトロンのヴァイオリンがほぼ素人のその奥方にヴァイオリンを教えているうちに、恋におちるという内容です。ただし、恋に主眼が置いてあるわけではなく、名声と富を得るために、パトロンにヨイショしなければならない音楽家を描いたものです。作中で、ヴィヴァルディの数々の名曲が流れるようになっていますし、クラシック音楽が好きな方なら、楽しめるでしょう。ただ、そうでない方にとっては、あまり面白くないかもしれません。


●『独り芝居 俺は担ぎ屋』(劉深、1975年生まれ、中国、2001年)

北京生まれの劉深が、本作を書いたのは若干25歳の時でした。登場人物は、笑い話という名前の「ちょっと神経質で、しょっちゅう話が脱線する中年の男」と、「いったい何歳なのかよくわからない老人」である管大臣という名前の男だけで、役者が一人二役で演じる独り芝居です。作中に二人が会話する場面がありますが、テレビに映った笑い話が管大臣に質問するという方法を採っています。なお、担ぎ屋とは棺桶をかつぐことを職業とする者のことです。語りと言う意味では、100年は生きているのではないかと思われる管大臣が、それまで担いできた棺桶に入っていた様々な人物を回想するというものです。あまり政治的な作家ではないと解説には書いてありますが、同時に「登場人物が強烈な民族的アイデンティティーを持っている」とも書いてあり、正直なところ、この二つは矛盾しているのではないかと思います。ちょっと、ググってみたのですが、この作家のことは本作以外にはヒットしないのは、なんらかの政治的背景があるのではないかと勘ぐってしまいました。悪い状況になっていなければいいのすが。


最後の2作品は、同じ作者ですので、まとめて紹介します。生年不詳の作者、リャオ・プイティンは中国系のマレーシア人で「劇作家・女優・教育者として、20年以上にわたり演劇と関わりを持ち活動を続けている」女性だそうです。また「彼女はまた実験的な作家としても知られており、テキストの一部をランダムに空白にして、セリフを俳優自身に任せた即興演劇を行っている」とのことですが、個人的にはどうも気に入っていません。これでは「自分の作品」と言えなくなってしまうのではないでしょうか。映画でも即興演出はありますが、演劇においてはセリフは命だと思っているので、この点は引っかかります。それだけでなく、本書に収録されている2作は、劇場での公演が不可能と思われるものなのです。個別に見ていきます。

●『「アンタウムイ」という名の現代女性』(1994年)

まず、幕とか場というものがありません。全体が4部に分かれていて、(1)「銀幕の大女優に(ヒロインが)宛てた手紙」、(2)「アンタウムイ、買い物に行く」、(3)「アンタウムイ、走るのを辞める」、(4)「アンタウムイ、家に帰る」となっています。(1)では、12歳の時から始まり、中年になってトイレ掃除で生計を立てるようになったアンタウムイが書き綴ったファンレターの内容が書かれているだけで、どういう形で観客にそれを伝えるかは書かれていません。これを即興演出というのは、私の感覚にはありません。(4)でアンタウムイは死ぬのですが、これも「アンタウムイは風呂を浴び、寝床に入り、その後、二度と起きあがらなかった」と書いてあるだけです。これが映画や小説なら、これで構わないのですが、戯曲と呼べるのでしょうか、というのが私の素朴な疑問です。

●『三人の子供たち』(1988年)

少年少女が三人出てくるのですが、なんと冒頭で馬に乗って走るのです!馬に乗るだけなら、まぁ、作り物の馬でいいでしょうが、走るのは舞台ではできないですよね。これも、映画や小説ならいいのですが、演劇にはならないでしょう。

と、こう考えてくると、この作家は演劇の枠をぶち破る、あるいは反演劇というものを志向しているような作家だという気がします。しかし、あがけばあがくほど、読む側はかえって演劇の限界と枠組みを意識してしまうようです。というわけで。正直なところ、あまり好きになれませんでした。


さて、この中からベストを選ぶなら、「安心」の戯曲である『ローズィーの食堂』になります。なお、本書収録の5人の作家のうち、4人までが黄色人種です。日系カナダ人が2名、中国人が1名、中国系マレーシア人が1名で、そのうち男性と女性は2名ずつというのは、相当そのことを意識した編纂だったのではないかと思います。ただ、そこから浮かびあがってくるのは、結局のところ、彼らの間に共通点は何もない、言い換えると、黄色人種の間では肌の色への帰属意識が薄いということのようです。おそらく、黒人ですとこれは違うのでしょう。そういう意味では、興味深い編纂結果を見せてもらったと思います。

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  • 掲載日:2026/05/13
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