詩が書けなくなった詩人=藤堂孝雄と訳あり女性編集者=今泉桜子。突然、口をきかなくなった娘=クルミとその真相を探る母親=清水まひろ。詩人との交流を通して、リアルな自分の言葉で気持ちを伝えようと、詩を梃子にほんとうの言葉を探していく女性たちを描く。果たして訳ありの編集者の桜子は藤堂静雄に新作の詩を書いてもらえるのか?クルミとその母親まひろは和解できるのか?
この小説は11年前の2015年4月に河出書房新社から出版されている。その前年には集団的自衛権の行使を限定的に認める「存立危機事態」を含む安全保障法制の骨子が閣議決定され2015年9月に可決し成立している。
作者がこの政変を真正面から受け止め、その主題を小説を組み立てる骨子にしたと思われる。手垢のついた浮遊している言葉たちのほんとうの着地点を探し求めて言葉が発話される現場に足を運ぶように言葉たちの行く末を見守るかのごとくに。
ベタなストーリーの展開(詩人と編集者の過去には癒されないトラウマがあり、予備校生のクルミとその母親には口外できないクルミの高校時代のそれこそ存立危機事態に陥るという事件があった)ではあるがこの登場人物たち4人の精神の存立危機事態を如何にして詩の言葉で快復することが可能か?がテーマであるような気がする。この作者は詩人でもあるようだ。この本の帯に谷川俊太郎が言葉を寄せている。
「世界は言葉の拘束着を着ている、詩はその綻びか。活字ではなく浮世に生きる詩と詩人を描いて新鮮。」と。
この小説には重要な脇役として、詩が書けなくなった詩人・藤堂孝雄が、主宰する「詩のスクール」に最初から生徒として熱心に通う最年長の高校の国語教師の洋子さんがいる。
「洋子さん、桜子にはわかりませんよ。言ってもムダだ。まだ若いんだから、自分がある日を境に生きてるとは言えないと感じ始めるなんことは知りようがない」
「ほんとうのことは心の目で見なさいっていう言い回し自体が、ずいぶんすり減ってしまった気がします。いい言葉だったのに」
このような文章を読むと作中の日本の詩壇の重鎮として登場する詩人のモデルは谷川俊太郎で洋子さんは佐野洋子ではないか?と妄想を膨らませる。(笑)。
そしてこの小説のもう一つのテーマが作中詩として登場する藤堂孝雄の
「朝の祈り」で高校の教科書にも掲載されたという設定である。
─朝の祈り─ 藤堂孝雄
ゆうべはこめんねときみが言った
きみが恋人なら それは
仲直りの始まり
以下省略してこの詩を要約する。
きみが妻なら…きみが生徒なら…
きみが息子なら…きみが風なら、太陽なら、雲なら、隣の国なら…とつづき
最後は以下の句で終わる。
謝罪は権力を生む
だからあやまってほしくないんだ
朝は等しく祈りたいんだ
言葉をすべて飲み込んで
狂った世界のために
ただ祈りたいんだ
きみが権力を生まないように
僕が権力を生まないように
無言でただ 祈りたいんだ
このふたつの事象(私とその外部)との間に生じた齟齬を和解させ親和させ友好を結ぶには、そのどちらか一方が謝罪し(ごめんねと言う)当事者の相手方がそれを了解して解決する。とされてきた。この劇中詩『朝の祈り』はそれを相対化する。
この女とギャンブルには目がないダメな詩人藤堂孝雄は10年以上詩は書かないが、SNSには頻繁に「あることないこと」を投稿しては炎上する。その対抗手段として投稿した内容がまた炎上する。金で解決できないなら「もう、戦うしかないじゃないか」「自衛の措置としての武力行使の新三要件」国を家庭に、国民を家族に置き換えて考える。しかし、ここで待ったをかける。実在の詩人石原吉郎が登場する。『怒りを〈組織〉してはならぬ』と。
さらに「この無意味な世界を生きるに値するものにするということは、無意味を意味に置き換えることではない。無意味と闘い続けることである」と。
一方向からの謝罪は個の沈黙の喪失と「私」の不在を生み、誠実な対峙を隠蔽し、新たな権力を生む。それを回避させるには……。
作家の星野智幸氏が11年前にこの作品を新聞でとりあげていた。以下に要約引用する。
「例えば、戦争に荷担する法律を作るのに、なぜ、『平和のため』という言い方をするのか」「言葉と心が、深いところで断ち切られているのだ。このテーマを真っ正面から扱った小説が、本作だ」
「詩とは心の内側に降りていくための階段」であると言った藤堂の言葉と重なる。この作品は今こそ読まれるべき小説ではないか?少しつめたい4月は過ぎ去り、暑い5月になってしまったが…。
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