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心温まるファンタジーである。 そして紛れもなく戦争の悲しみと怒りをうちに秘めた厭戦ユーモア小説である。

趣味の遺伝
この短篇小説は、日露戦争の出征兵に材をとった、厭戦・反戦的な小説である。しかしながら一筋縄にいかないのが夏目漱石である。そもそも「趣味の遺伝」という題名に、訝らざるをえない。集英社のコレクション戦争と文学シリーズのNo.13のⅠに小川未明『野ばら』と江戸川乱歩『芋虫』とともにおさめられている。このシリーズがなければおそらく読むことはなかった。

冒頭は次の文章ではじまる。

《陽気のせいで神も気違になる。「人を屠りて餓えたる犬を救え」と雲の裡より叫ぶ声が、逆しまに日本海を撼かして満洲の果迄響き渡った時、日人と露人ははっと応えて百里に余る一大屠場を朔北の野に開いた。》
──本文より引用。

日露戦争という言語に絶する過酷な惨劇の幕開けを告げる。と同時に狂った神=明治天皇=国家への痛烈な
アンチテーゼでもある。

物語は、語り手である余(作者)が、日露戦争で勝利した将軍らの凱旋パレードを見学するところからはじまる。(この余は小説家ではない。
あらゆることに興味を持ちそれを解き明かそうとする在野の独学者で、時々大学で教鞭をとっている。最近は「遺伝学」に興味を持っている)
その誇らしげに行進する兵隊の中には親友の浩一はいない。旅順で戦死したのだ。

《ステッセルは降った。講和は成立した。将軍は凱旋した。兵隊も歓迎された。然し浩(こう)さんはまだ坑から上がって来ない。》
──本文より引用

《彼らの足が壕底に着くや否や穹窖よりねらいを定めて打ち出す機関砲は、杖を引いて竹垣の側面を走らす時の音がして瞬く間に彼らを射殺した。殺されたものが這い上がれるはずがない。》──本文より引用。

大勢の観衆たちが「バンザイ」を叫んで帰還兵たちを出迎えるが余はどこか冷めている。

こうして余は、浩さんを弔うための墓参りをする。浩さんが埋葬されたとされる寂光院の化銀杏の黄金の雲のように銀杏の葉が落ちて舞う様を次のように描写し、「閑静」という概念の真髄をあきらかにする以下の文章には真に死者を弔うことの荘厳さと静謐さを感じさせる。

《空中を揺曳して遊んで居る様に思われる。閑静である。──凡てのものの動かぬのが一番閑静だと思うのは間違っている。動かない大面積の中に一点が動くから一点以外の静さが理解できる。(中略)否其一点の動く事其れ自らが定寂の姿を帯びて、しかも他の部分の静粛な有様を反思せしむるに足る程に靡いたなら──其時が一番閑寂の感を与える者だ。銀杏の葉の一陣の風なきに散る風情は正に是である》──本文より引用

そこには既に先客がいた。若い女性である。今まで見たこともない絶世の美女がいた。
ここからこの物語は思わぬ方向へと進みゆく。シェイクスピアの『マクベス』が『ロミオとジュリエット』が引用され、相思相愛の悲しい定めが心の遺伝子としてその家族に集合的無意識として刻印されているに違いないとその妄想が暴走する。
「趣味」というのは「相思相愛」を意味する。このあたりの展開はコミカルであり、ユーモアである。
しかしラストシーンでは亡くなった浩一の母親と寂光院のお墓に現れた謎の美女が散歩するシーンで終わる。心温まるファンタジーである。
そして紛れもなく戦争の悲しみと怒りをうちに秘めた厭戦ユーモア小説である。
  • 掲載日:2026/05/15
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