Yasuhiroさん
レビュアー:
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いよいよ第二篇が始まるがまだ「花咲く乙女たち」は登場しない。悶々としたジルベルトへの思慕の思いが「いじいじ」綴られるとともに、モーブ(薄紫)色のスワン夫人とそのサロンが「華麗」に語られる。
マルセル・プルースト畢生の大作「失われた時を求めて」も第三巻に入り、第二篇「花咲く乙女たちのかげに」が始まります。本巻には第一部「スワン夫人のまわりで」が収録されています。
まだ「花咲く乙女たち」は登場せず、第一部の「土地と名・名」の続き的な内容で、「私」の初恋の人ジルベルト・スワンへのひたすら悶々とした思慕の思いと、スワン家に出入りできるようになり知ったスワン夫妻や夫人のサロンでの上流階級の人々の様子が描かれています。。
この巻では主人公「私」は十代も半ばを過ぎており、その頃を思い返す後年の「私」の一人称というこれまでと同じ形式で話は綴られていきます。
相変わらず取り留めなく、あちらこちらへ脱線し、外交官ノルポア氏や「私」の憧れの作家ベルゴットの口も借りて、ラ・ベルマ(サラ・ベルナールがモデルと思われる)、フェルメール、カント等々の芸術の蘊蓄が随所に撒き散らされ、更にはお馴染みの女中フランソワーズの作るノルポア氏絶賛のキュイジーヌの数々を描写しつつ、話はのろのろとではありますが進んでいきます。
上流階級ユダヤ人と高級娼婦の組み合わせであるスワン夫妻を快く思わないノルポア氏の予測に反して「私」はジルベルトとの付き合いを許され、待望のスワン家への訪問や、ベルゴットとの面会も果たします。
そして後半はある諍いがもととなり、ジルベルトとの仲に暗雲が立ち込めます。後半殆どのページを費やして、自分勝手なジルベルトへの思慕と反感の間で揺れ動く「私」の心理描写が延々と続くので、読むのは相変わらず大変、辟易もします。
しかし、若い頃片思いに悶々とした記憶は誰にでもあるでしょう。プルーストの、そのあたりの心理を徹底的に抉り出した描写や人間観察眼、さらには芸術に対する造詣には敬服せざるを得ないものがあります。
そして翻訳越しの文章ではありますが、ここまで読んでくるとさすがにその魅力にはまってしまいますね。いみじくも訳者の高遠弘美氏が反プルースト派のフランス人に
と訊かれたことがあると書いておられますが、たしかに不思議。
プルーストの文章のどこが魅力的なのか表現するのはとても難しいのですが、彼自身がこの巻で「私」の憧れの作家ベルゴットの文章の魅力を語らせている部分があり、そこにプルーストの文章の魅力もある気がしますので、少し長いが引用してみます。
閑話休題、結局ジルベルトとの初恋は叶わぬまま断腸の思いで「私」は彼女を諦めるのですが、実を言うとそのジルベルトの人物像についてはあまり深く描写されていません。高遠氏によればこれはプルーストの手法なのだそうです。
それよりも「私」が思い出して詳細に語るのはこの篇の題名通り、元高級娼婦「オデット・ド・クレシー」ことスワン夫人です。どちらかと言うとスワン夫人への憧れの方が強いのではないかと思わせるほど主人公は彼女に入れ込んでおり、描写も微に入り際に穿っています。この巻の印象を色に例えれば、スワン夫人を象徴する「モーブ(薄紫)色」であると言って過言ではないでしょう。
第二巻「スワンの恋」で、スワン氏は初めはオデットのことをちっとも綺麗だとは思っていませんでしたし、恋が終わる頃には容色が衰えて綺麗でなくなったとも書いていました。そのようなスワン氏の描写と裏腹に「私」が見たオデットは美しい。結婚後第二のピークを迎えていたのでしょうか、それとも「私」とスワン氏では見方が違うのか、それは読者の想像に任されます。
ただ、彼女がヴェルデュラン夫妻に対抗して自宅に社交場として「サロン」を開き、毎日のようにブルジョア階級の人々が訪れるようになっていたことは間違いありません。それだけの魅力がオデットにはあったと言うことでしょう。第一編でも出てきたヴェルデュラン家の元「クラン」の何人かもこちらへ鞍替えしており、コタール夫人、ボンタン夫人などの名前も見え、彼女たちの話の中に今後の「私」のファム・ファタールとなるアルベルチーヌの噂もチラッとお目見えします。
ここで当然ながら「なぜ高級娼婦がサロンを開くことができるのか」と言う疑問が出てきます。これに関し、高遠氏は読書ガイドにおいて高級娼婦について徹底的に調べ上げ、詳細に解説されています。これは一読の価値あり、です。
もちろんそれもスワン氏の財力あってのことなのですが、そのスワン氏について「スワンの恋」という一節を設けたほどのプルーストですが、「私」から見たスワン氏像はやや辛辣であるように感じます。要するにあまりよく思っていないのですね。
それに、どうして恋が終わったオデットと結婚して子供をもうけた(あるいはその逆なのか)のかは曖昧模糊とした記述に終わっています。本作品の重要人物ゲルマント公爵夫人とオデット・ジルベルト二人を引きわわせるためだけに結婚したのだ、とか
と言った記述に終始します。スワン氏の精神はもう死んでいるのでしょうか?
一方のスワン氏の名声と財力を利用してサロンを開くことのできたオデットですが、彼女の思惑もそれだけが目当てだったのかどうか、詳しいことはまだわかりません。
一つだけ「私」の語りという形でプルーストがネタばらししていることがあります。ゲルマント公爵夫人とオデット、ジルベルトの二人は後年知り合うのですが、スワン氏はそれを知ることなく亡くなっているのです。そのあたりの経緯の真相も今後の楽しみの一つです。
兎にも角にもプルーストらしい「無意識記憶」の揺蕩うままに綴られる文章に酔うように読み進んでいき、私のジルベルトへの諦めとスワン夫人への賛美で終わる終章までたどり着くと、このような爽やかな文章でこの第一部は終わりを告げます。
失われた時を求めて〈1〉~第一篇「スワン家のほうへI」~
「失われた時を求めて」 フランスコミック版 スワン家のほうへ
失われた時を求めて〈2〉第1篇・スワン家のほうへ〈2〉
まだ「花咲く乙女たち」は登場せず、第一部の「土地と名・名」の続き的な内容で、「私」の初恋の人ジルベルト・スワンへのひたすら悶々とした思慕の思いと、スワン家に出入りできるようになり知ったスワン夫妻や夫人のサロンでの上流階級の人々の様子が描かれています。。
この巻では主人公「私」は十代も半ばを過ぎており、その頃を思い返す後年の「私」の一人称というこれまでと同じ形式で話は綴られていきます。
相変わらず取り留めなく、あちらこちらへ脱線し、外交官ノルポア氏や「私」の憧れの作家ベルゴットの口も借りて、ラ・ベルマ(サラ・ベルナールがモデルと思われる)、フェルメール、カント等々の芸術の蘊蓄が随所に撒き散らされ、更にはお馴染みの女中フランソワーズの作るノルポア氏絶賛のキュイジーヌの数々を描写しつつ、話はのろのろとではありますが進んでいきます。
上流階級ユダヤ人と高級娼婦の組み合わせであるスワン夫妻を快く思わないノルポア氏の予測に反して「私」はジルベルトとの付き合いを許され、待望のスワン家への訪問や、ベルゴットとの面会も果たします。
そして後半はある諍いがもととなり、ジルベルトとの仲に暗雲が立ち込めます。後半殆どのページを費やして、自分勝手なジルベルトへの思慕と反感の間で揺れ動く「私」の心理描写が延々と続くので、読むのは相変わらず大変、辟易もします。
しかし、若い頃片思いに悶々とした記憶は誰にでもあるでしょう。プルーストの、そのあたりの心理を徹底的に抉り出した描写や人間観察眼、さらには芸術に対する造詣には敬服せざるを得ないものがあります。
そして翻訳越しの文章ではありますが、ここまで読んでくるとさすがにその魅力にはまってしまいますね。いみじくも訳者の高遠弘美氏が反プルースト派のフランス人に
時代も国も文化も違う日本人のあなたがどうして、第三共和国政下の社交界を描いた作家であるプルーストをそれほど愛して、かつその翻訳までしようと思うのか
と訊かれたことがあると書いておられますが、たしかに不思議。
プルーストの文章のどこが魅力的なのか表現するのはとても難しいのですが、彼自身がこの巻で「私」の憧れの作家ベルゴットの文章の魅力を語らせている部分があり、そこにプルーストの文章の魅力もある気がしますので、少し長いが引用してみます。
ベルゴットの書物の中には、話されている言葉以上に抑揚があり響きがある。その響きは文体の美から独立していて、著者のもっとも内奥にある人格と不可分の関係にあるがゆえに、著者自身はおそらくそれに気がつかない。書物の中でベルゴットがまったく自然のままでいるとき、彼の綴るしばしば無意味としか思えない言葉にリズムを与えるのはこの響きである。この響きは文章のなかに記されていないし、そこでこれが響きだと示すものは何もないのだが、響きは自ずと言葉につけ加わって、それ以外の言い方が出来なくなる。それは作家のうちでもっとも脆く消え去るものでありながら、もっとも深いところに根ざすものである、それこそが作家の本性を示す証拠となるだろう。
閑話休題、結局ジルベルトとの初恋は叶わぬまま断腸の思いで「私」は彼女を諦めるのですが、実を言うとそのジルベルトの人物像についてはあまり深く描写されていません。高遠氏によればこれはプルーストの手法なのだそうです。
それよりも「私」が思い出して詳細に語るのはこの篇の題名通り、元高級娼婦「オデット・ド・クレシー」ことスワン夫人です。どちらかと言うとスワン夫人への憧れの方が強いのではないかと思わせるほど主人公は彼女に入れ込んでおり、描写も微に入り際に穿っています。この巻の印象を色に例えれば、スワン夫人を象徴する「モーブ(薄紫)色」であると言って過言ではないでしょう。
第二巻「スワンの恋」で、スワン氏は初めはオデットのことをちっとも綺麗だとは思っていませんでしたし、恋が終わる頃には容色が衰えて綺麗でなくなったとも書いていました。そのようなスワン氏の描写と裏腹に「私」が見たオデットは美しい。結婚後第二のピークを迎えていたのでしょうか、それとも「私」とスワン氏では見方が違うのか、それは読者の想像に任されます。
ただ、彼女がヴェルデュラン夫妻に対抗して自宅に社交場として「サロン」を開き、毎日のようにブルジョア階級の人々が訪れるようになっていたことは間違いありません。それだけの魅力がオデットにはあったと言うことでしょう。第一編でも出てきたヴェルデュラン家の元「クラン」の何人かもこちらへ鞍替えしており、コタール夫人、ボンタン夫人などの名前も見え、彼女たちの話の中に今後の「私」のファム・ファタールとなるアルベルチーヌの噂もチラッとお目見えします。
ここで当然ながら「なぜ高級娼婦がサロンを開くことができるのか」と言う疑問が出てきます。これに関し、高遠氏は読書ガイドにおいて高級娼婦について徹底的に調べ上げ、詳細に解説されています。これは一読の価値あり、です。
もちろんそれもスワン氏の財力あってのことなのですが、そのスワン氏について「スワンの恋」という一節を設けたほどのプルーストですが、「私」から見たスワン氏像はやや辛辣であるように感じます。要するにあまりよく思っていないのですね。
それに、どうして恋が終わったオデットと結婚して子供をもうけた(あるいはその逆なのか)のかは曖昧模糊とした記述に終わっています。本作品の重要人物ゲルマント公爵夫人とオデット・ジルベルト二人を引きわわせるためだけに結婚したのだ、とか
ー実際に結婚したのは、もはや彼女に愛を感じなくなってから、すなわち、彼女と生涯をともに暮らしたいとあれほど願いつつも断腸の思いで諦めたスワンの内なる存在が死んでしまってからだったのだが、その結婚は、死んだあとに起こるはずの出来事の予兆に似た、いわば死後の幸福のようなものではなかったか。
と言った記述に終始します。スワン氏の精神はもう死んでいるのでしょうか?
一方のスワン氏の名声と財力を利用してサロンを開くことのできたオデットですが、彼女の思惑もそれだけが目当てだったのかどうか、詳しいことはまだわかりません。
一つだけ「私」の語りという形でプルーストがネタばらししていることがあります。ゲルマント公爵夫人とオデット、ジルベルトの二人は後年知り合うのですが、スワン氏はそれを知ることなく亡くなっているのです。そのあたりの経緯の真相も今後の楽しみの一つです。
兎にも角にもプルーストらしい「無意識記憶」の揺蕩うままに綴られる文章に酔うように読み進んでいき、私のジルベルトへの諦めとスワン夫人への賛美で終わる終章までたどり着くと、このような爽やかな文章でこの第一部は終わりを告げます。
五月になって、ある種の日時計のようなものの上に、十二時十五分から一時までの時間を読み取ろうとするたびに、私は喜びを覚えずにはいられない、まるで藤の花のアーケードの下で反射する光を浴びているかのように、日傘の下でスワン夫人とおしゃべりをしている自分の姿をまざまざと思い浮かべて。
失われた時を求めて〈1〉~第一篇「スワン家のほうへI」~
「失われた時を求めて」 フランスコミック版 スワン家のほうへ
失われた時を求めて〈2〉第1篇・スワン家のほうへ〈2〉
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馬鹿馬鹿しくなったので退会しました。2021/10/8
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- 出版社:光文社
- ページ数:576
- ISBN:9784334752682
- 発売日:2013年03月12日
- 価格:1399円
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