スペインの新進作家による長編小説だ。
十歳のイソラと、その友人である語り手の“わたし”。
スペイン・カナリア諸島で生活する二人の少女の日常が、細かく章立てされた幾つものエピソードによって描かれる。活発で、しばしば向こう見ずな行動に出るイソラを、内向的なわたしは自分の聖女として崇拝している。
(膝を怪我した聖女が流す血を舐めるわたし)
年齢相応につたなくたどたどしい、即物的だが同時に叙情的な語りが、灰色の雲が低く垂れこめた町の閉塞した日々と、イソラへの想いを綴っていく。
それは、子供たちを主役に据えた物語にしばしば期待されるような、無垢で繊細な心理の描写や、その時代ならではの輝くような夏の日々の記憶、ではない。
少なくとも、それだけでは。
その世界ではポケモンととっとこハム太郎と自慰とうんちが、フラットに、彼女たちのその時々の興味のままに扱われる。やることなすこと野卑かでなければ下品だが、自分の過去を美化したい読者が願望のフィルターを通過させることをしばし控えるならば、かつてあった子供時代とはまさにこの似姿だったのではとも思わされるような、特定の時代状況下に置かれたごく普通の子供としての強烈なリアリティがある。
ここにいるのは、読者である大人が懐旧の念にうるうると涙ぐむような感情移入可能なアバターとして造形された“子供”ではなく、大人社会の偽善に鋭い批判の視線を向けるような神話的ヒーローとしてのジュブナイル主人公でもない。彼女たちの関心と行動はまさに十歳児の目線の高さにあって、そのパッションの鮮烈さとともに、視野の狭さと行動の愚かしさもまた引き受けている。
変化していく二人の関係や、不意に訪れる美しい場面もまた、卑俗な現実から切り離されたものとしては描かれず、限られた世界を冒険する彼女たちの原色の日常は、容易な共感を拒みながらどこまでも異物として、ごつごつした存在感を手放すことがない。
憂鬱で、濃い、短かった夏の思い出。
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