ソネアキラさん
レビュアー:
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言語化至上主義時代に『論考』は有効か 有効だよってさ
『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の基本 言語化できないことに意味はないの?』古田徹也著を読む。
いきなり『論理哲学論考』(以下『論考』)を読むのは、泳げないのにプールに飛びこむようなもの。
とりわけこの本には入門書がたくさんある。これまで結構、『論考』の入門書を読んできた。で、さらに入門書の入門書を著者が書いたというので読んでみることにした。いわば、ウィトゲンシュタイン・ファースト・コンタクト・本。
まず、『論考』の骨の部分をまとめている。
「『論考の構成』
1.世界は、成立していることの総体である。
2.成立していること、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。
3.事実の論理像が、思考である。
4.思考とは、有意味な命題のことである。
5.命題は、要素命題の真理関数である。
6.真理関数の一般形式は、[ p ー , ξ ー ,N( ξ ー )] である。
7.語りえないことについては、沈黙しなければならない」
「この7つの文章が、『論考』の中心となる主張です」
『論考』は薄い本。読もうと思えば、すぐ読めるが、中身はさっぱりわからない。
著者の「恩師のおひとりは、ウィトゲンシュタインの文章は俳句のようだ」と。確かに。詩的というかアフォリズムまたは禅問答を思わせるようなスタイル。
難解な言葉が洪水のようにあふれる分厚い哲学書とは、まったく違う。
「言語化」が、なんだかカッコイイように思われている。だが、言語には「利便性の落とし穴」があると。
「言語というツールは非常に便利で強力であるだけに、見かけ上、よく分からないけどいかにも意味がありそうな言葉の連なりを簡単に作成することができてしまいます。そのため、ときに私たちは、実際には有意味な命題ではないものを有意味であるかのように勘違いし、言葉が言葉を呼ぶだけの空回りしたやりとりに終始してしまうことがあります」
活字離れと言われるが、ネットやSNSなどでテキストを読む量は増えているとか。
例えが違うかもしれないが、メールやグループLINEでのテキストのみのやりとりでは、お互いの言いたいことがうまく伝わらない。でも、顔をつきあわせてのミーティングにすると、簡単に問題がクリアできたりして。
さらに、
「私たちはややもすると、言語化できれば理解できたとか、それで問題は解決されたと思いがちです。―略―雷や夕焼けや虹などを言語化するとき、その言葉が詳しく明瞭なものであればあるほど、それらを目の当たりにした当初の驚きや感動は失われてしまいがちです」
「高い解像度の写真や動画に写し取れたらそれで満足してしまい、その風景や場面を自分の目ではろくに見ずに済ます。―略―そこでもやはり、目の前の光景に驚いて自分の胸の内に受けとめる、という契機が失われているように思います」
スマホで撮った膨大な画像。ヴァルター・ベンヤミンの唱えた「アウラ」と重なるような。
「詩人の石垣りんは、詩とは何か。詩とは、たとえば虹を詩的に書くことであると多くの人が考えているようだ。しかしそうではなくて、「虹をさし示している指、それがどうやら詩であるらしい」というんですね」
「さし示している指」=「語りえないこと」としたら、語ることによる二律背反。
「ウィトゲンシュタイン自身が『論考』で実践したのは、言語化の可能性をむしろ極限まで許容しつつ、さらにその限界を示してみせることでした。それは言ってみれば、詩の役割や領分を示すことでもあったのかもしれません。―略―『論考』をはじめとするウィトゲンシュタインの文章自体が詩的な雰囲気をまとっていますが、言葉によって語りえないことを示す『論考』がそうした文体によって綴られているのは、決して偶然ではないでしょう」
さて、『論考』を読み直すことにしよう。
『懐疑論 古代ギリシアからデカルト、陰謀論まで』 古田徹也著
『謝罪論 謝るとは何をすることなのか』古田徹也著
『言葉の魂の哲学』古田徹也著
『いつもの言葉を哲学する』古田徹也著
いきなり『論理哲学論考』(以下『論考』)を読むのは、泳げないのにプールに飛びこむようなもの。
とりわけこの本には入門書がたくさんある。これまで結構、『論考』の入門書を読んできた。で、さらに入門書の入門書を著者が書いたというので読んでみることにした。いわば、ウィトゲンシュタイン・ファースト・コンタクト・本。
まず、『論考』の骨の部分をまとめている。
「『論考の構成』
1.世界は、成立していることの総体である。
2.成立していること、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。
3.事実の論理像が、思考である。
4.思考とは、有意味な命題のことである。
5.命題は、要素命題の真理関数である。
6.真理関数の一般形式は、[ p ー , ξ ー ,N( ξ ー )] である。
7.語りえないことについては、沈黙しなければならない」
「この7つの文章が、『論考』の中心となる主張です」
『論考』は薄い本。読もうと思えば、すぐ読めるが、中身はさっぱりわからない。
著者の「恩師のおひとりは、ウィトゲンシュタインの文章は俳句のようだ」と。確かに。詩的というかアフォリズムまたは禅問答を思わせるようなスタイル。
難解な言葉が洪水のようにあふれる分厚い哲学書とは、まったく違う。
「言語化」が、なんだかカッコイイように思われている。だが、言語には「利便性の落とし穴」があると。
「言語というツールは非常に便利で強力であるだけに、見かけ上、よく分からないけどいかにも意味がありそうな言葉の連なりを簡単に作成することができてしまいます。そのため、ときに私たちは、実際には有意味な命題ではないものを有意味であるかのように勘違いし、言葉が言葉を呼ぶだけの空回りしたやりとりに終始してしまうことがあります」
活字離れと言われるが、ネットやSNSなどでテキストを読む量は増えているとか。
例えが違うかもしれないが、メールやグループLINEでのテキストのみのやりとりでは、お互いの言いたいことがうまく伝わらない。でも、顔をつきあわせてのミーティングにすると、簡単に問題がクリアできたりして。
さらに、
「私たちはややもすると、言語化できれば理解できたとか、それで問題は解決されたと思いがちです。―略―雷や夕焼けや虹などを言語化するとき、その言葉が詳しく明瞭なものであればあるほど、それらを目の当たりにした当初の驚きや感動は失われてしまいがちです」
「高い解像度の写真や動画に写し取れたらそれで満足してしまい、その風景や場面を自分の目ではろくに見ずに済ます。―略―そこでもやはり、目の前の光景に驚いて自分の胸の内に受けとめる、という契機が失われているように思います」
スマホで撮った膨大な画像。ヴァルター・ベンヤミンの唱えた「アウラ」と重なるような。
「詩人の石垣りんは、詩とは何か。詩とは、たとえば虹を詩的に書くことであると多くの人が考えているようだ。しかしそうではなくて、「虹をさし示している指、それがどうやら詩であるらしい」というんですね」
「さし示している指」=「語りえないこと」としたら、語ることによる二律背反。
「ウィトゲンシュタイン自身が『論考』で実践したのは、言語化の可能性をむしろ極限まで許容しつつ、さらにその限界を示してみせることでした。それは言ってみれば、詩の役割や領分を示すことでもあったのかもしれません。―略―『論考』をはじめとするウィトゲンシュタインの文章自体が詩的な雰囲気をまとっていますが、言葉によって語りえないことを示す『論考』がそうした文体によって綴られているのは、決して偶然ではないでしょう」
さて、『論考』を読み直すことにしよう。
『懐疑論 古代ギリシアからデカルト、陰謀論まで』 古田徹也著
『謝罪論 謝るとは何をすることなのか』古田徹也著
『言葉の魂の哲学』古田徹也著
『いつもの言葉を哲学する』古田徹也著
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女子柔道選手ではありません。開店休業状態のフリーランスコピーライター。暴飲、暴食、暴読の非暴力主義者。東京ヤクルトスワローズファン。こちらでもささやかに囁いています。
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- 出版社:中央公論新社
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- ISBN:9784120059896
- 発売日:2026年02月09日
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