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くにたちきち
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55年体制といわれ、最大野党として、自由民主党に対峙してきた日本社会党は、冷戦の終結とともに衰退し、その役割を終えた。その歴史をたどり、戦後民主主義とは何であったのかをを問い直しています。
この本は「日本社会党」と題されていますが、それは戦後政治史のなかで、同党と対峙してきた「自由民主党」との関係において、その鏡としての役割をもっていたことを軸として書いていています。そして、その役割は冷戦の終結とともに終えたという歴史を綴っています。その内容は、次のとおりです。

はじめに
第1章 敗戦・占領と日本社会党――誕生から左右分裂まで(1945(昭和20)年~1955(昭和30)年)
第2章 五五体制の形成と社会党(1955(昭和30)年~1960(昭和35)年)
第3章 高度経済成長と社会党(1960(昭和35)年~1970(昭和45)年)
第4章 社会党と五五体制の終わり(1970(昭和45)年~1990(平成2)年)
おわりに――「戦後革新」としての社会党

日本社会党は、1945年11月3日に日比谷公会堂で、結党大会が開かれ、戦後の諸政党の中でいちばん早く誕生しました。委員長は空席とし、書記長に片山哲、総務に水谷長三郎、選挙対策部長に平野力三、議会対策部長に西尾末広がなり、党の主導権は、右派(旧社民系)が握ったとしています。

その一週間後の11月9日に、鳩山一郎らの日本自由党が、16日には日本進歩党、12月に入ってから日本共産党の再建大会が開かれ、続いて、日本協同党が結成されて、有力五政党がそろいました。同時に、労働組合や農民組合もそれぞれ結成され、45年12月には「労働組合法」が制定されました。

翌46年4月に総選挙が行われ、その結果、自由党が140議席で第一党となり、以下進歩党94、社会党93と続きました。定員は466人であり、過半数を占めた党派がなかったので、政局は混迷し、最初は自由党の鳩山一郎を首班とすることとなりますが、その直後に鳩山が公職追放されたので、後継者である吉田茂が首相となりました。

1946年11月3日に「日本国憲法」が公布され、翌年の5月3日に施行されました。社会党は、保守政党が「右のほうに行けば行くほどパッシブ・レジスタンス」(芦田均)という傾向を示すなかで、積極的に新憲法体制を支持する勢力として自らの立場を確立した、と述べています。

労働運動の高まりの中で、47年2月1日にゼネストに突入することを宣言しましたが、その前日にマッカーサーの命令によって中止を余儀なくされ、総選挙の早期実施を促された吉田首相は、4月20日の初めての参議院選挙に続き、25日には衆議院総選挙を実施します。結果は、社会党143、自由党131、民主党124、国民協同党31、共産党4、諸派・無所属29となりました。

一年前と同じく、過半数を制した政党がなかったので、政局は連立内閣の帰趨をめぐって展開することになり、紆余曲折の末、5月23日の新憲法下最初の首班指名選挙が行われ、憲政史上例を見ない衆参両院がほぼ満場一致で、社会党委員長である片山哲を首相に指名します。

片山内閣は、民主化の徹底(民法や刑法の改正、警察制度改革、労働省の設置など)と経済再建(経済安定本部・経済復興会議を両軸にした計画的統制、傾斜生産方式の実施)の二つの課題を背負って、その実現に邁進しました。しかし、炭鉱国家管理問題と平野力三農相の閣内非協力による罷免から始まる党内混乱などにより、48年2月10日、片山内閣は9か月たらずの在任期間で総辞職しました。

2月21日に首班指名選挙が行われ、民主党の芦田均が選ばれ、民主・社会・国協の三党連立による、芦田内閣が成立しますが、3月15日に、民主党から離脱したグループを自由党が吸収し、民主自由党(吉田茂総裁)となり、第一党になります。その後、与党内対立や昭和電工疑獄事件による閣僚の逮捕などにより、芦田内閣は10月7日に総辞職します。7か月の短命内閣でした。

10月19日には、第二次吉田内閣が成立し、1949年1月23日に、衆議院総選挙が行われ、民自党が264で過半数を獲得した半面、民主党69、社会党48、国協党14と三与党は惨敗、共産党が35へと躍進するという結果になりました。これは、片山・芦田内閣の政治指導の拙さ、相次ぐスキャンダルが吉田の民自党に有利に働いたと指摘しています。

その後の社会党は、1950年1月の党大会において左右両派の対立が顕在化し、51年10月の党大会において、左右両派に分裂するに至ります。そして、右派は民主社会主義、左派は社会民主主義の旗幟をそれぞれ掲げて、1952年10月1日のいわゆる抜き打ち解散に伴う衆議院総選挙に臨みます。そして、右派57、左派54と大躍進を示します。なお、自由党240、改進党85、そして共産党は議場から姿を消しました。

10月30日に、第四次吉田内閣が発足しますが、自由党内の対立は激しく、吉田、鳩山の両派に分裂し、それに加えて、衆院予算委員会における吉田首相の「バカヤロー」発言などが引き金となり、首相懲罰動議が可決され、続いて内閣不信任案も可決成立し、1953年4月19日に解散総選挙となりました。

その結果は、吉田自由党199、改進党76、鳩山自由党35であったのに対して、右社66、左社72と躍進を遂げました。総選挙直後、経済四団体は「安定政権の確立を望む」との要望書を、吉田自由、鳩山自由、改進および右社に申し入れたのだそうです。

続投した吉田内閣は、1954年に入り、保全経済会事件に続き造船疑獄が自由党を襲い、犬養法相の指揮権発動などにより、末期症状を示し始め、11月24日に日本民主党(総裁鳩山一郎)が発足し、12月7日に吉田内閣は総辞職、10日に鳩山内閣が発足します。そして、翌年2月27日に総選挙が行われました。

その間に、両社統一の動きが加速し、1955年1月28日に左右社会党はそれぞれ党大会を開催し「社会党統一実現に関する決議案」を採択します。そして、総選挙の結果は、民主党185、自由党112、左社89、右社67となり両社合わせて156となり、憲法改正を阻止しうる総議席の三分の一を確保しました。

そして、10月13日に統一大会が行われ、綱領・政策などを可決すると同時に、委員長に左派の鈴木茂三郎、書記長に右派の浅沼稲次郎を選んで閉会しました。また、11月16日には、自由党と民主党が合同し、自由民主党が結成され、いわゆる五五年体制が形成されることになります。

その後、1957年2月15日の岸信介内閣の誕生とともに、勤務評定、警職法反対闘争より60年安保闘争へとヒートアップしていきます。岸内閣の後を受けて、60年7月19日に発足した、池田勇人内閣の低姿勢、寛容と忍耐に基づく所得倍増によって高度経済成長時代を迎え、社会党の動きは、激しい内部抗争とともに、ソ連の崩壊と冷戦の終結により、五五年体制が崩壊していく過程と重なっていきます。

1996年1月に社会党は党名を社会民主党と改め新生を誓いましたが、結党からおよそ半生記、戦後政治史における社会党の歴史に事実上終止符が打たれた、と筆者は結んでいます。(なお、この本が出版される一か月前の総選挙の結果、衆議院には、社会民主党の議席は、零となりました。)




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くにたちきち
くにたちきち さん本が好き!1級(書評数:798 件)

後期高齢者の立場から読んだ本を取り上げます。主な興味は、保健・医療・介護の分野ですが、他の分野も少しは読みます。でも、寄る年波には勝てず、スローペースです。画像は、誕生月の花「紫陽花」で、「七変化」ともいいます。ようやく、700冊を達成しました。

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