和歌を愛し、和歌に生きた二十人の生涯と、彼ら彼女らが詠んだ素敵な和歌を堪能する一冊。太古の神々、持統天皇ら万葉歌人から始まり、和泉式部、紫式部の平安歌人、そして藤原俊成・定家親子、式子内親王、源実朝ら新古今歌人、はては幕末志士たちまで一気に俯瞰できる。
春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山
あまりにも有名な持統天皇の歌。持統天皇の業績を知ると、この歌に新たな視点が加わる。彼女の特筆すべき業績の一つに、暦の導入がある。これによって宮廷年中行事が整理され、自然が人間社会の中で秩序化されていった。帝王が高いところに昇り、眼下の国土を眺め、五穀豊穣を予祝する国見の際に詠まれた歌である。国見は元来「春」に行うものであるが、暦上では「夏」に相当する。農事年であれば春の行事であったものが、自らが導入した暦によって夏であることを発見、納得する。それが「春過ぎて・・・」なのだ。
思ひきやありて忘れぬおのが身を君が形見になさむ物とは
和泉式部が恋人である敦道親王の死後に詠んだ歌である。「身」という言葉は、和歌においては「私」という一人称として使われることが多いが、彼女の場合には「肉体」と訳したくなるようなニュアンスを持つ。恋人に愛され、今も忘れずにいる自分自身の肉体こそが愛しい恋人の形見なのだと和泉式部は詠む。身体表現を豊かに駆使しながら恋心を表現する才能を私は愛している。
山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水
自らを意図的に社会から遮断し、静かで奥深い場所に閉じ込める式子内親王の歌。山深い場所に自分を置き、そこで雪解け水の音を聞いている。「たえだえかかる雪の玉水」は、「ぽたぽたぽた」ではなく「ぽた、・・・ぽた、・・・ぽた、・・・」と落ちる雪解け水。長く厳しい冬に耐え、春の到来を待ちわびている孤独な人間だけが発見できる微かな早春の兆しを「たえだえかかる雪の玉水」で見事に表現している。実際に深い山にいるわけではなく、自らの空想の中で描き出した静かな世界観が魅力である。
常磐山松の葉もりの春の月秋はあはれとなど思ひけん
本書の最後を飾ったのは坂本龍馬。「世の人はわれをなにとも言はば言へわがなすことはわれのみぞ知る」が有名であるが、意外と(失礼)和歌の素養があるようだ。祖母や父が和歌を嗜んだ人らしく、その影響をたっぷりと受けたようだ。上の歌は秋の月こそが最も素晴らしいとの固定概念に異を唱えた歌であるが、これは新古今でも多く詠まれており、龍馬の教養が垣間見える歌である。
これまで捉えることの出来なかった視点が得られたり、久々に好きな歌人の和歌に触れ心躍らされたりと楽しい一時を味わった。
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