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裁判の“その後”を描く異色ミステリ。白黒がついたはずの事件の裏側で、人は何を背負うのか。敗北と後悔に満ちた弁護士の記憶を追う。書評として余韻深く語ってみた。

暗黒の瞬間
ドイツ発のミステリだが、いわゆる“勝利の快感”とは無縁の物語だ。
主人公はベルリンで活動する60代の刑事弁護士。 彼女がこれまで扱ってきた九つの事件を振り返る形式で物語は進む。

普通のミステリなら、弁護士や刑事は苦戦しつつも最終的には勝利をつかむ。
だが本作では、依頼人に裏切られ、負け、悔いを残す。 読者は気づけば、この“勝てない弁護士”に声援を送りたくなっている。

プロローグで彼女は弁護士辞職願を郵送する。
引退を前に、苦い思い出ばかり詰まった事件を読者に差し出すようにして物語が始まる。

この小説で提示される最初の事件は「正当防衛」だ。
豪邸に侵入した17歳のルーマニア人少年が、反撃に遭い死亡した。 弁護士はこの事件を担当していない。新聞で知っただけだ。 だが豪邸の主が外国人労働者排斥の思想を持つ人物だと知り、 「これは正当防衛を装った殺害ではないか」と疑念を抱く。

その疑念は、彼女自身の過去の“苦い経験”から生まれたものだ。
弁護士人生の第一の事件で、彼女は結果的に犯罪の隠蔽に加担してしまった。
その悔恨こそが、全編を貫く暗い水脈になっている。 その経緯は、最後の章で静かに明かされる。

本作は、事件の概要を三人称で、 事件への見解を弁護士の一人称で描き分ける構造が巧みだ。
アフリカで子どもを誘拐し洗脳して兵士に仕立てる武装勢力。
年上の男との関係で人生を狂わされた女子学生。
輪姦された少女と、法律上“無罪になりかねない”男たち。

扱われる題材は重く、ひねり方も従来のミステリとは異なる。
裁判官も弁護士も、被害者も加害者も、 結審のあとに訪れる“真の判決”を黙って受けるしかない。

その瞬間こそが、本書のタイトルである「暗黒の瞬間」なのだ。
小説だけが持つ醍醐味がここにある。 映画のように俳優の表情を追うのではなく、 読者自身の思考力を総動員して、 白と黒のあいだに沈む“灰色の真実”を味わう。

シーラッハの作風を思い出す読者も多いだろう。 確かに近いが、シーラッハが法律論に寄るのに対し、 ホーフェンはもっと人間の弱さと後悔に寄り添う。
どちらも法曹界出身というのは、なるほどとうなずける。

これは“もう一人のシーラッハ”ではない。
むしろ、シーラッハが描かない領域──敗北、後悔、沈黙の重さ──をホーフェンは真正面から描く。 法廷ミステリの読後感を、ここまで“暗い余韻”に振り切った作家は珍しい。

シーラッハに興味のある方は、こちらの書評もどうぞ。
刑罰」……法律の外側で人は壊れる。
「テロ」……判断を避けて生きてきた私が、著者に裁かれた。

 そして余談だが──。 主人公がプールサイドでレナード・コーエンを聴く場面がある。 「声が安らぎを教えてくれる」とあるが、どの曲だったのだろう。
私は勝手に「Nothing to One」だと思っている。
I am the distance you put between
The moments that we will be

2016年11月12日、コーエンの訃報を伝える朝日新聞の切り抜きを、 私はいまも大切にしている。享年82。 もう一人好きな歌手、ジョルジュ・ムスタキの命日は5月23日。 つい先日だった。

そして私は──82歳。 まだ生きて、惰眠をむさぼっている。 それでも、こうして本を読み、書き、誰かに届けている。
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  • 掲載日:2026/05/26
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