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菅原万亀
レビュアー:
理想と現実の狭間で揺れる無器用でナイーブな若者の姿は、昔も今も、そう変わらないのかも。

※ネタバレ注意! 以下の文には結末や犯人など重要な内容が含まれている場合があります。

明治41(1908)年9月から12月にかけて、
大阪朝日新聞に連載された夏目漱石の青春(?)小説。

東京帝大入学のため、故郷九州から上京した三四郎の、
大学生活の出来事と甘酸っぱい(?)恋愛(…というか恋愛未満)の日々を綴った物語。

テーマといえるほどの遠大なテーマをもった作品ではないと思うが、
強いていえば、田舎で育った、そこそこ知的だけれど純朴な青年が、
大都会・東京で、学友や先輩、そしてその都会で育った
時代の最先端を行く女性との関係を通じて、成長(?)していく物語だ。


物語の始まりは、三四郎が熊本から列車に乗って、
まさに上京するところから始まるが、東京に降り立った三四郎は自問する。

 凡ての物が破壊されつつある様に見える。
 そうして凡ての物が又同時に建設されつつある様に見える。
 大変な動き方である。(中略)
 この劇烈な活動そのものが取りも直さず現実世界だとすると、
 自分が今日までの生活は現実世界に毫も接触していない事になる。(中略)
 自分の世界と、現実の世界は一つ平面に並んでおりながら、
 どこにも接触していない。
 そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして
 行ってしまう。甚だ不安である。(中略)
 ──明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を
 四十年で繰り返している。

この部分を読むと、三四郎は自分自身について、
そして自身を取り巻く社会や時代について、
冷静に正しく認識しているように見える(さすが帝大生?!)。

故郷という旧世界・旧日本に象徴されるような現実から、
大学に入るために列車に乗って遠ざかり、上京して大学生活が始まると、
新世界の現実の中に身を置きながら、
まるで「置き去り」にされたような隔たりを感じている。

そんな自身の在り様について「矛盾だ」とつぶやく三四郎は、
まだ自分の未来も、居場所の見当もついていない様だ。
…さあ、どうする? 三四郎。

現状認識はあるものの、三四郎は自分にとっての新しい世界を、
それに従って(あるいは抗って)自分の力で切り開いていくことが
できるのだろうか──。

ところが、というか、やはり、というか…大学入学後の三四郎が、
その後、学問に取り組む中で成長したのかといえば…う~ん…と
考え込まざるを得ない。

まず、学問に関しては、三四郎、お世辞にも
一生懸命学んでいるようには見えない。
授業にも出たり出なかったり。
たまたま出会った学友(与次郎)の、よく分からない主義主張を語り
バタバタと動き回るペースに巻き込まれて、主旨不明の集会に出たり、
母親からの仕送りのお金を、そっくりそのまま貸してしまったり…。

現代とは違う、激動の明治期の物語ではあるのだが、
三四郎の大学生生活は、現代の若者の「上京物語」と、
大筋で変わらないようにも感じる。
都会の人間や出来事に翻弄され、その場その場の雰囲気と
相手の思惑に左右されて、いつのまにか過ぎていく日々…。

 三四郎は本来からこんな男である。
 用談があって人と会見の約束などをする時には、
 先方がどう出るだろうという事ばかり想像する。
 自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声で云って遣ろう
 などとは決して考えない。
 しかも会見が済むと後からきっとその方を考える。
 そうして後悔する。

まあ、性格だから別に悪いことではないとは思うが、三四郎くん、
いささか受け身で流されやすい傾向にあるようで…;;

三四郎の大学生としての日々は、多かれ少なかれ、
現代でも田舎から出て来た学生にとっては、ありがちな体験のようにも思う。
ある意味、この作品が書かれたことで、当時の学生の在り様が
その心の内の部分までも、今日に伝わったといえるのかもしれない。

文化・風習が未だに前時代を色濃く残していただろう田舎から
上京してきた若者が、当時の最高学府である大学(しかも東京帝大)に入学して、
優秀な学友や先輩、そして先生と出会うことで知的刺激を受けて
学問に励み立身出世──という明治の学生の
<表>の物語では「ない」ことだけは確かだ。

さらに…。

 三四郎は勉強家というより寧ろ低徊家なので、割合書物を読まない。
 その代りある掬すべき情景に逢うと、何遍もこれを頭の中で新にして喜んでいる。
 その方が命に奥行がある様な気がする。

おやおや妄想だけは凄いようで。
たいして勉強家でもないし本も読まないのに、
よく東京帝大に入れたものだ…いわゆる地頭がよい、というタイプなのだろうか。
この部分を読む限り、学者よりも小説家に向いているような。
やっぱり三四郎のモデルは漱石先生自身がかなり入っているようで。

上京の際の三四郎の、自身と社会に対するせっかくの認識は、
大学生活を始めた後の彼の意識と行動には、どうやら直接関わることはない様子。
そしてそして、彼の意識の大部分を占めるのはやはり…大都会で出会った、
美しくミステリアスな(三四郎にとっては)女性の存在だ。

これもまた、古今東西の若者の宿命といえばそうなのだが、
やっぱりこの部分は避けて通れない疾風怒濤?体験なのだろう…。
しかしその報われない恋愛を通して三四郎が大成長した、
という話ならまだ分かるが、結局女性に翻弄されて
ほぼ片想いのまま遊ばれて?三四郎の恋があえなく終わったところで
物語も終了──この経験が生かされる(?)機会は、
また別の物語に持ち越しとなった。

 自己の個性を完からしむる為に、
 なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。
 細君一人を知って甘んずるのは、
 進んで自己の発達を不完全にする様なものである。

などと、勇ましい(浅ましい)ことを言っておきながら(笑)、
たった一人の女性にも、満足に告白することもできずに
撃沈している様子も情けないが、なんだか可愛いくもある。

三四郎、物語の終わりに自ら呟いた「迷羊」──まさに
<ストレイシープ>という自身の現在地を確認して終わっている
(これ、美禰子さんにも何度も言われてましたね)。

さあ、これを機に、もっと勉学に励みなさいよ、と母親目線で思った。
ほんと、故郷のお母さんはさぞ心配していることだと思う
(母親からの手紙の返事もなかなか書かないし)。

三四郎が大学生としての生活を、どんな風に全うしたのかは、
物語が続いていないので分からないのだが、
女性に対してだけでなく、友人や世間に対しても、
流されやすい性格のようなので、ロクなことにはならなかったのでは…
と想像してしまう(母親目線では、ホント、心配…;;)。

そして物語の中に断片的に出てくる、当時の日本と世界に対する若者の認識も、
三四郎の言葉に限らず、なんだかそれを口にしている人物と、
その人物自体の現実とが「接触していない」ように描かれているのも、
この年代の若者特有の理想と現実が乖離している様を
リアルに表しているようにも感じられた。

 吾々は旧き日本の圧迫に堪え得ぬ青年である。
 同時に新しき西洋の圧迫にも堪え得ぬ青年であるという事を、
 世間に発表せねばならぬ状況の下に生きている。
 新しき西洋の圧迫は社会の上に於ても文芸の上に於いても、
 我等新時代の青年に取っては旧き日本の圧迫と同じく苦痛である。

これは、三四郎が友人の与次郎に誘われて出席した会合で
学生が行った演説の中の一節だが、
この会合の開催に奔走した与次郎の人物像も、どこか詐欺師めいていて、
上滑りな感じが否めない(三四郎からお金も引き出すし)。

また次の言葉を語る、与次郎の尊敬する先輩である広田先生も、
与次郎が惜しむように、実力に相応するポストに就くことなく、
現実社会とは一線を引いて、世捨て人のような生活を送っている。

 近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強過ぎて不可ない。
 吾々の書生をしている頃には、する事為す事一として他を離れた事はなかった。
 凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。
 それを一口にいうと教育を受けるものが悉く偽善家であった。
 その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、
 漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、
 今度は我意識が非常に発展し過ぎてしまった。
 昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。(中略)
 度を越すと、その露悪家同志が御互いに不便を感じて来る。
 その不便が段々高じて極端に達した時利他主義が又復活する。
 それが又形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。
 つまり際限はない。

鋭い認識をもちながら、それに基づいて新しい社会を形作る行為を成すのが
難しい現実──この物語は、新しい世界に一歩を踏み出した三四郎の日々を描くことで、
激動の明治維新を過ぎて、新しい世界を生き始めた若者──
「迷える子」たちのありのままの姿を描いているように思う。

そう考えると、美禰子のような、知性も教養も(そして美貌も)ある、
都会の裕福な家の若い女性は、当事の日本社会の最先端の価値観の
象徴なのかもしれない。
そんな女性に憧れながらも、手も足も出ない青年は、
新旧の価値観・世界観の狭間で揺れる、
近代化が始まったばかりの若い日本の姿そのものなのだろう。

この作品が発表された当時、ここで描かれた三四郎の立居振舞に、
この時代のリアルな感覚として共感した若い人(とりわけ若い男性たち)も
大勢いたのかもしれない。
そしてその姿は、意外に現代においても、そんなに大きくは変わっていない──
理想と現実の狭間で揺れる、無器用でナイーブな若者の姿のようにも感じられた。

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菅原万亀
菅原万亀 さん本が好き!1級(書評数:262 件)

読むことも書くことも孤独な作業ですが、言葉はいつも語られ受け取られるためにあるものだと思っています。誰かに喜んでもらえる言葉を語ることができれば嬉しいです。できることならば…。

近・現代日本文学を中心に、外国文学、児童文学、医療・健康関係の本、必要に応じて読んだ実用書などについて書いていきたいと思っています。

不定期でアロマテラピーインストラクター、セラピストの仕事をしています。

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