そうきゅうどうさん
レビュアー:
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我々は「(ただの)群れ」である。
哲学書や思想書というのは理想論や空理空論を語るだけで、現代という時代を生きる上で全く役に立たない──そんな風に思っている人がいるとしたら、この船木亨の『現代思想講義──人間の終焉と近未来社会のゆくえ』をオススメしたい。時代と切り結ぶ哲学、思想の持つヒリヒリする感覚が分かるだろう。
「あとがき」によれば、本書は先にちくま新書から出た『現代思想史入門』(私は未読)の第五章「暴力」を詳細に語り直し、勁草書房から出た『いかにして思考すべきか?』(私は未読)の初稿に入れながら結局削除した、言語の思考への影響と、真理を思考するための言語の特殊な使用について述べた章を加えたものだという。つまり本書はこの2冊の補遺のようなものだが、それでも500ページを超える大著である。
船木が本書で論じるのは、来るべき近未来をどのように生きる──というより生き抜く、あるいは生き残る──か、である。
プロローグとエピローグに挟まれた本論は、第一章「人間──家族は消滅しつつある」、第二章「国家──社会は国家ではない」、第三章「意識──自我は存在しない」、第四章「政治──ヒトはオオカミの群れの夢を見る」、第五章「道徳──群れの分子は身体のマナーがある」、第六章「思考──統計と確率の間で決断せよ」の全6章で構成される。そこで船木が示す
「オオカミを手懐けてイヌ科させることでヒトもまたイヌ化し、群れを作るようになった」とする船木の仮説は文化人類学的に正しいかどうかはともかく、「社会、国家=(単なる)人の群れ」とする、その見方はある面で非常に的を射ていると思う。そしてそこから導かれる結論は…
…と、ここからはネタバレになるので(哲学書、思想書でネタバレ云々というのも変な話だが)、レビュアーとしてのマナーに則ってその点を断った上で、それでもいいという人だけ。
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実はシレッとした顔で、既に上にその答えを書いてしまっているのだが、船木が導き出したのは「人の群れとしての社会や国家の振る舞いは確率、統計に従う」ということなのだ。本書の中で何より恐ろしいのがそこであり、それが船木が本書を書いた動機でもあるだろう。実際、人間社会を構成しているものが「自我を持った理性的な独立した個人」ではなく「(ただの)群れとしての我ら」であると考えると、その振る舞いは確率、統計に従うというのは腑に落ちることが多く、世界の有り様を見る解像度が一段階上がるのを感じる。
しかしながら、そう述べる船木自身がそのことの意味をまだ正しく理解できていないのではないか、と私は疑っている。なぜなら、船木はこれからの生き方として「(人並みではなく)異例のものとなって、統計自体から逃れ出よ」と言っているからである。けれども、ある確率でそうした異端の者が現れることも既に統計に含まれている。これが確率・統計の最も不可思議で不気味なところで、我々は原理的にそこから逸脱することはできないのだ(『西遊記』で、孫悟空がどれだけ釈迦の手から逃れようとしても、結局は釈迦の手のひらの上だった、というエピソードを思い出そう)。
そういうわけで、私は本書のその部分には不満だが、時代を俯瞰するための本としては他のどの本よりも読む価値があると思う。
「あとがき」によれば、本書は先にちくま新書から出た『現代思想史入門』(私は未読)の第五章「暴力」を詳細に語り直し、勁草書房から出た『いかにして思考すべきか?』(私は未読)の初稿に入れながら結局削除した、言語の思考への影響と、真理を思考するための言語の特殊な使用について述べた章を加えたものだという。つまり本書はこの2冊の補遺のようなものだが、それでも500ページを超える大著である。
船木が本書で論じるのは、来るべき近未来をどのように生きる──というより生き抜く、あるいは生き残る──か、である。
わたしがこれから述べようとしていることは、未来学や社会学のように、未来を予想したり社会現象を説明したりして、ひとびとに準備させようという趣旨のものではありません。必要なのは、まだ到来はしていないから、どのようなものかははっきりしないにせよ、しかしここそこに多様な兆候を示しはじめた社会現象に対して、その事実を直視して、なにがしか対峙する方法──必要なのは「倫理学」なのです。
倫理学に対して違ったイメージをもつひとも多いと思いますが、倫理学とは、状況をよく判断し、そのなかで何をなすべきかという実践的知恵と、それがふまえるえき「生きる指針」について論じる学問です。その正しさの根拠となる世界と人間の根源的なありさまについて、まず哲学的に探求しておくということが前提になりますが。(プロローグより)
プロローグとエピローグに挟まれた本論は、第一章「人間──家族は消滅しつつある」、第二章「国家──社会は国家ではない」、第三章「意識──自我は存在しない」、第四章「政治──ヒトはオオカミの群れの夢を見る」、第五章「道徳──群れの分子は身体のマナーがある」、第六章「思考──統計と確率の間で決断せよ」の全6章で構成される。そこで船木が示す
その正しさの根拠となる世界と人間の根源的なありさまとは、西洋近代思想(例えばホッブズ、ルソー、カントら)が中心に据えてきた「自我を持った理性的な独立した個人」という人間像とは真逆の、「ただの群れとしての我ら」である。そこに至る船木の社会や人間を見つめる目は透徹にして冷徹で、その厳しさに読んでいて心が寒々としてくるほどだ。しかし、「私たちは一人ひとりが、かけがえのない存在です」などという甘ったるい“おためごかし”が幅を利かす中、こうやって現実を見つめ直す目を与えてくれる本は、それだけで貴重であると言えるだろう。
「オオカミを手懐けてイヌ科させることでヒトもまたイヌ化し、群れを作るようになった」とする船木の仮説は文化人類学的に正しいかどうかはともかく、「社会、国家=(単なる)人の群れ」とする、その見方はある面で非常に的を射ていると思う。そしてそこから導かれる結論は…
…と、ここからはネタバレになるので(哲学書、思想書でネタバレ云々というのも変な話だが)、レビュアーとしてのマナーに則ってその点を断った上で、それでもいいという人だけ。
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実はシレッとした顔で、既に上にその答えを書いてしまっているのだが、船木が導き出したのは「人の群れとしての社会や国家の振る舞いは確率、統計に従う」ということなのだ。本書の中で何より恐ろしいのがそこであり、それが船木が本書を書いた動機でもあるだろう。実際、人間社会を構成しているものが「自我を持った理性的な独立した個人」ではなく「(ただの)群れとしての我ら」であると考えると、その振る舞いは確率、統計に従うというのは腑に落ちることが多く、世界の有り様を見る解像度が一段階上がるのを感じる。
しかしながら、そう述べる船木自身がそのことの意味をまだ正しく理解できていないのではないか、と私は疑っている。なぜなら、船木はこれからの生き方として「(人並みではなく)異例のものとなって、統計自体から逃れ出よ」と言っているからである。けれども、ある確率でそうした異端の者が現れることも既に統計に含まれている。これが確率・統計の最も不可思議で不気味なところで、我々は原理的にそこから逸脱することはできないのだ(『西遊記』で、孫悟空がどれだけ釈迦の手から逃れようとしても、結局は釈迦の手のひらの上だった、というエピソードを思い出そう)。
そういうわけで、私は本書のその部分には不満だが、時代を俯瞰するための本としては他のどの本よりも読む価値があると思う。
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「ブクレコ」からの漂流者。「ブクレコ」ではMasahiroTakazawaという名でレビューを書いていた。今後は新しい本を次々に読む、というより、過去に読んだ本の再読、精読にシフトしていきたいと思っている。
職業はキネシオロジー、クラニオ、鍼灸などを行う治療家で、そちらのHPは→https://sokyudo.sakura.ne.jp
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- 出版社:筑摩書房
- ページ数:570
- ISBN:9784480071491
- 発売日:2018年06月06日
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