ikkeyさん
レビュアー:
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戦争と終戦後の混乱に弄ばれた庶民の哀しみを背景に
大激戦の選考を勝ち抜いたという2008年度乱歩賞の受賞作。内容はタイトルの通り子供を狙った営利誘拐を巡るミステリーだが、事件の周辺に幾重にも堆積したエピソードが、戦争、敗戦という混濁の渦に弄ばれた庶民の哀しみと相まって、不思議な興趣を醸している。
昭和21年7月、東京・成城に大きな屋敷を構える実業家久我恵三の一人息子勇一(5歳)が誘拐され、翌月、身代金百万円を使い古しの札で要求する手紙が届く。指定された受け渡し場所は有楽町駅前の闇市。雑然としたバラックの間の路地に何千という男女が犇めく。その通称カストリ横丁は無法の街だ。盗み常習の浮浪児らも屯す。
捜査当局は私服の捜査員を大量動員してカストリ横丁を包囲し、水も漏らさぬ態勢を敷いたが、突然、警棒を手にした制服警官の一団がトラック三台を連ね乗り込んできた。抜き打ちの「闇市一斉取り締まり」だが、誘拐事件担当班は何も知らされていない。
当局内部の連絡ミス。現場は闇物資を押収から守ろうと殺気立つ露店主や、けたたましい警笛、逃げまとう通行人らで大混乱し、犯人逮捕に向けた緻密な態勢は瞬く間に崩れた。結局、久我家のお抱え運転手が運んでいた現金入りカバンを人波に紛れて奪われたばかりか、勇一も取り戻せなかった。捜査当局の完敗だった。
それから15年後の昭和36年。横浜の運送会社に勤める母一人子一人の谷口良雄(20歳)は、ガンで入院中の母貞世のもとに毎夜通い、かいがいしく世話を焼く孝行息子だ。その母を見取った日のこと、《おまえは、ほんとうの息子じゃないよ。私が誘拐——》と、貞世が混濁した意識のなかで口走るのを確かに聞いた。普通なら末期の患者の《うわ言》と片付けていい話だが、良雄は激しく動揺する。
貞世と自分との血の繫がりに疑念を抱くのは、実は初めてではなかったからだ。真相を知らなければ一歩も前に進めない。そう固く思い詰めた良雄は、貞世がタンスの奥にしまい込んでいた古い電話帖を探し出し、片っ端から公衆電話のダイヤルを回し始めた。自分が知らない貞世の過去を明るみに出せば、自分の素性も自ずから知れると信じて……。
良雄が貞世の電話帖を手中にした当夜、杉並の西永福では、惣菜屋の店員と家政婦を掛け持ちして生計を立てる独り身の平凡な女性、下條弥生が駅から自宅アパートに帰る道すがら何者かに襲われ殺された。しかも驚くべきことに弥生の部屋は偏執狂的に荒らされていた。深夜、他人の部屋に長く居座り、周囲に物音ひとつ漏らさず、天井板、ラジオの裏板まで剥がす探し物とは……。一つの考え方として、犯人は弥生に奪われた何か大切なものを、手段を択ばず取り戻しに来たようにも見える。
警察は、弥生が総菜屋と家政婦紹介所の双方に退職を申し出、京都旅行まで計画していた事実を掴む。暮らしに大きな転機が訪れた気配だ。仕事を辞めても暮らして行ける相当の大金が転がり込んだか、その目処がついたかしか考えられないが、弥生に男や犯罪の影はない。
謎解きのカギは、弥生が家政婦として派遣先の家に置き忘れた文庫本にあった。栞の代わりに差し挟まれていたピンボケ写真には、かなり前のものと思われる新聞の見出しが写っており、なぜか《萬》という活字だけが切り取られていた。活字の切り抜きと犯罪の関りで連想されるのは脅迫状だ。例えば百萬円の《萬》。警察は細い糸を懸命に手繰って、15年前の誘拐事件との関わりに辿り着く。
事実上迷宮入りしていた誘拐事件は時効が近いがまだ完成していない。もし、弥生が何かの拍子に事件の真犯人とその所在を知り、決定的証拠も掴んだとする。そのうえで、自分の姿を徹底して隠し通す手立てを見つけ、真犯人に強請(ゆす)りをかけて成功したとすれば、真犯人は手段を択ばず、弥生の口を封じ、強請られた金と証拠の回収に乗り出すはずだ。
捜査は難航を極めるが、専ら誘拐事件の線から攻める輪島・井口組と、弥生の立ち回り先の解明に固執する神崎・遠藤組、ことあるごとに対立する二組のバディの軌跡がやがてひとつに収斂して行く。
入院患者の病室に付き添うのも家政婦の仕事の内だ。そうした家政婦同士には紹介所を通さず仕事を融通し合う《代行》という慣習がある。弥生は代行で入院中の谷口貞世に接していた。紹介所の記録では分からない新事実だった。ここで初めて、過去の誘拐事件と弥生が、貞世を通して結びついた……。
著者は、貞世の入院先の看護婦で、貞世の実直な人柄を信じる杉村幸子を良雄の交際相手として登場させている。幸子の存在が物語全体をヒューマンな色に染めるのに効果を上げている。
昭和21年7月、東京・成城に大きな屋敷を構える実業家久我恵三の一人息子勇一(5歳)が誘拐され、翌月、身代金百万円を使い古しの札で要求する手紙が届く。指定された受け渡し場所は有楽町駅前の闇市。雑然としたバラックの間の路地に何千という男女が犇めく。その通称カストリ横丁は無法の街だ。盗み常習の浮浪児らも屯す。
捜査当局は私服の捜査員を大量動員してカストリ横丁を包囲し、水も漏らさぬ態勢を敷いたが、突然、警棒を手にした制服警官の一団がトラック三台を連ね乗り込んできた。抜き打ちの「闇市一斉取り締まり」だが、誘拐事件担当班は何も知らされていない。
当局内部の連絡ミス。現場は闇物資を押収から守ろうと殺気立つ露店主や、けたたましい警笛、逃げまとう通行人らで大混乱し、犯人逮捕に向けた緻密な態勢は瞬く間に崩れた。結局、久我家のお抱え運転手が運んでいた現金入りカバンを人波に紛れて奪われたばかりか、勇一も取り戻せなかった。捜査当局の完敗だった。
それから15年後の昭和36年。横浜の運送会社に勤める母一人子一人の谷口良雄(20歳)は、ガンで入院中の母貞世のもとに毎夜通い、かいがいしく世話を焼く孝行息子だ。その母を見取った日のこと、《おまえは、ほんとうの息子じゃないよ。私が誘拐——》と、貞世が混濁した意識のなかで口走るのを確かに聞いた。普通なら末期の患者の《うわ言》と片付けていい話だが、良雄は激しく動揺する。
貞世と自分との血の繫がりに疑念を抱くのは、実は初めてではなかったからだ。真相を知らなければ一歩も前に進めない。そう固く思い詰めた良雄は、貞世がタンスの奥にしまい込んでいた古い電話帖を探し出し、片っ端から公衆電話のダイヤルを回し始めた。自分が知らない貞世の過去を明るみに出せば、自分の素性も自ずから知れると信じて……。
良雄が貞世の電話帖を手中にした当夜、杉並の西永福では、惣菜屋の店員と家政婦を掛け持ちして生計を立てる独り身の平凡な女性、下條弥生が駅から自宅アパートに帰る道すがら何者かに襲われ殺された。しかも驚くべきことに弥生の部屋は偏執狂的に荒らされていた。深夜、他人の部屋に長く居座り、周囲に物音ひとつ漏らさず、天井板、ラジオの裏板まで剥がす探し物とは……。一つの考え方として、犯人は弥生に奪われた何か大切なものを、手段を択ばず取り戻しに来たようにも見える。
警察は、弥生が総菜屋と家政婦紹介所の双方に退職を申し出、京都旅行まで計画していた事実を掴む。暮らしに大きな転機が訪れた気配だ。仕事を辞めても暮らして行ける相当の大金が転がり込んだか、その目処がついたかしか考えられないが、弥生に男や犯罪の影はない。
謎解きのカギは、弥生が家政婦として派遣先の家に置き忘れた文庫本にあった。栞の代わりに差し挟まれていたピンボケ写真には、かなり前のものと思われる新聞の見出しが写っており、なぜか《萬》という活字だけが切り取られていた。活字の切り抜きと犯罪の関りで連想されるのは脅迫状だ。例えば百萬円の《萬》。警察は細い糸を懸命に手繰って、15年前の誘拐事件との関わりに辿り着く。
事実上迷宮入りしていた誘拐事件は時効が近いがまだ完成していない。もし、弥生が何かの拍子に事件の真犯人とその所在を知り、決定的証拠も掴んだとする。そのうえで、自分の姿を徹底して隠し通す手立てを見つけ、真犯人に強請(ゆす)りをかけて成功したとすれば、真犯人は手段を択ばず、弥生の口を封じ、強請られた金と証拠の回収に乗り出すはずだ。
捜査は難航を極めるが、専ら誘拐事件の線から攻める輪島・井口組と、弥生の立ち回り先の解明に固執する神崎・遠藤組、ことあるごとに対立する二組のバディの軌跡がやがてひとつに収斂して行く。
入院患者の病室に付き添うのも家政婦の仕事の内だ。そうした家政婦同士には紹介所を通さず仕事を融通し合う《代行》という慣習がある。弥生は代行で入院中の谷口貞世に接していた。紹介所の記録では分からない新事実だった。ここで初めて、過去の誘拐事件と弥生が、貞世を通して結びついた……。
著者は、貞世の入院先の看護婦で、貞世の実直な人柄を信じる杉村幸子を良雄の交際相手として登場させている。幸子の存在が物語全体をヒューマンな色に染めるのに効果を上げている。
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若いころは雑読系を自認してました。最近は齢のせいか、根気が続かず、哲学、思想、科学の本だとつい敬遠してしまいます。みなさまの書評を読むことは、視野狭窄にならないためのサプリだと気づきました
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- 出版社:講談社
- ページ数:432
- ISBN:9784062770132
- 発売日:2011年08月12日
- 価格:680円
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