菅原万亀さん
レビュアー:
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現実の世界と人間に対して、ガツンと撃ち込まれた鶴嘴の一撃──そんなパンチの効いた(効き過ぎた)小説

村田沙耶香氏の最新刊『世界99』を書店で見たとき、
この上下巻に分かれた分厚い物語は、その奇妙な標題と
ジャケットのイラストから受けるイメージによって
すでに読者の心を掴んでいるように見えた。
外部的に提示されたこの世界観だけでも、
この物語が通常のセオリーでは語られない、
語ることができない何かを語ろうとしていることが伺える。
私たちの多くが見落としている、あるいは見えないものとして
やりすごしている、おそらく、見過ごすことのできない肝腎なことを。
日常に在りながら、ベタな言葉で語り合うことが難しい
(あるいは語られることそれ自体がタブーである)事柄を、
架空の物語、あるいはメタファーを駆使して語り尽くそうとしている
──そういった機能をもったシステムこそが小説だというならば、
この作品は小説中の小説、といえるのではないだろうか。
平凡でありながら、私たちの日常にしっかりと存在する、
あまりに普通の困難と、個人的で利己的な、ある煽情的な事柄について、
極端にデフォルメされた架空の設定を使い、読者を飽きさせない
ストーリーというエンターティメント性をしっかりと有した、
楽しくも驚くべき作品だ。
ただ、エンタメ性を強く具えているとはいえ、この作品を感情的に、
楽しく気持ちよく読み終えることができる人は、
あまりいないかもしれない、とも思う。
多くの小説は、読者の属性──年代であったり、性別であったり、
あるいは人種、文化的背景、社会的立場、価値観、嗜好、性格などなど──
によって、その物語を肯定的に読むのか、否定的に読むのか、
あるいはもっと単純に、好き嫌いで読むのか、
読者の立ち位置というものが個別に生じるものだと思う
(その強弱の区別はあるとしても)。
しかしこの作品は、おそらくすべての人にとって(というのは
言い過ぎかもしれないが)、少なくとも対立する立場や価値観の
人間双方にとって、痛い作品なのではないか、
というのが読後の最初の感想だった。
誰もの急所を分け隔てなく突いてくる、そんなフェアさも、
この作品の凄いところだと個人的には強く思う。
さて、この物語は<私>こと如月空子の視点から語られる。
空子は、自分が相対して関係する他者が抱いている価値観や欲望、
さらには彼らが空子自身に対して望んでいる人間像に
瞬時に「呼応」し、それをなぞる──「トレース」することで
相手や状況との齟齬を無くし、自身の安全を確保しようとする。
それが自分にとって危険を回避できる「一番楽な道」であり、
面倒でない生き方だからだった。
そして何よりそれは彼女にとって、無理せず、意図するまでもなく
行うことのできる自然なふるまいなのだ。
これは誰もが、とりわけ新しい場に入ったときに、多かれ少なかれ
無意識に行う心の動きだと思われる。
その場で自分が安全に安心してすごすためには、誰と関わればよいのか、
自分の立ち位置をどこに求めたらよいのか、何を言って(言わなくて)、
どんな振舞いをすれば、その場から弾き出されることなく、
その場に居る他者との関係を形成し、居場所を確保することができる
──生き延びることができるのか。
そのためには、空子がそうしたように、まわりの人間の心の動きと行動を
しっかりと観察し、その関係性を見極める能力が必要とされる。
いわゆる空気を読むこと──空気という場の質とその流れを読めない人間が、
その場とその人間関係から弾き出されることは
多くの人が経験的に知っていることだろう。
空子はその能力を生得的に強く「クリーンに」保持している
存在として描かれる。
ある意味これは、人間の中にあるナチュラルな生存本能であり、
空子はそれを究極にまで体現した存在といえるのかもしれない。
そして空子の場合、それが徹底されていること、
多くの人が無意識にやっていることを明確に意識化しているという点が、
他と異なっているところなのかもしれない。
(「どうして? みんな、気がついてないだけでしているのに」と
空子は言っている)
空子は自分には感情が無い、「危険」と「安全」の判断、
「面倒」と「楽ちん」の感覚があるくらい、と言うが、
それらもより本能に近い感情──人の行為の元となる情動、
と言えるとすると、それは厳密には感情ではないのかもしれないが、
人の言動を左右する内面の性質、と言えなくもないと思う。
空子が体現している物語を読むと、それは現実社会において、
誰にでも多少は覚えのある経験と感覚であり、
それが空子のように極限にまで徹底されると、
その本質にある歪さ、空虚さ、あるいはその非人間的な痛ましさが、
明確化されてくる──と、つい、まとめたくなるのだが、
このような他者に対する「物語」の付与でさえ、空子は、
理解不能な人間に対する自身の優位性と安心感を担保するための
システム──それこそ、薄気味悪い、と切り捨てる。
そう、作者は、空子という典型的人間──誰もが普通に行っている行為を
意図的に突き詰めた存在を呈示することで、読者に対しても
これが現実でしょ? と、強い揺さぶりをかけているように思われる。
読者は「白藤さん」になって空子を分析し、こちらに都合のよい解釈をして、
批判することさえ許されないのだ。
あなたに何ができるの? まあ、たとえ私のことを分かったところで
何も変わらない、何もできないくせに──。
空子のそんな声を、ずっと耳の奥で感じながら、読者はこの物語を
読み進めていくことになる。
空子という人間の生きるシステムに対抗する立場としては、
空子の小学生時代からの友人・白藤さんに体現されているのだろうが、
彼女の価値観やメンタリティは、空子や空子的な世界の展開に対して、
あまりに無力で痛々しく描かれている。
それは物語の最後まで変わらない。
変わらないどころか、白藤さんは自分の「正しさ」という価値観さえ、
最後には捨てざるを得ないほど、世界のシステムから振り落とされ、
時代と乖離していく。
物語の中で、旧来の感覚と生き方は、すでに敗北しているのだ。
それでは、その対極にある空子は、物語の中で描かれているような
カタストロフィーや世界観の大転換にアジャストして、
自身の思い通りに、生を全うした勝者、あるいは強者なのだろうか。
空子は自分にとっての危険を回避し、楽に生きることが全てであり、
そのために「世界に媚びる」──相手に合わせて、自分の役割を演じる──
生を貫いたのだろうか。
最終的に空子の選んだ結末が、一見、彼女があれほど回避してきた、
性欲処理や子孫搬出まで含めた「便利」という名の食物連鎖の
最終奴隷──彼女の母親と同じか、それ以下の存在になったことは
矛盾した結果のようにも見える。
しかしこの結末さえもまた、空子にとっては、
親しい友人に依頼されたから普通に受けた、
という「呼応」ー「トレース」システムの一環なのだとすると、
それはさらに、痛ましく、悍ましいと思える──これもまた
空子的人間から見れば、センチメンタルすぎる「薄気味悪い」感情なのだろうが。
きっと空子の結末は、彼女の行動原理である「呼応ートレース」システムが
最も強固に発動された結果、と見るべきなのだろう。
「世界99」とは、「呼応」と「トレース」を繰り返しながら
現実世界を無難に生き抜いていく、そんな自分の姿を見ている外側の空子だ。
それこそが人間の本質と言い切る空子は力強く、自信に満ちてさえいるようだ。
もちろん空子的には、それは「絶望」というような
自己否定的な激しい感情として意識されるのではなく、
「諦観」に近い、内面的にはむしろ自分の運命を受け入れた後の清々しさ、
といったものなのかもしれないが…。
読む側としては、ああ、ここまで徹底して自己のシステムに従って生きて、
そしてどこまでも変容し続けていくことができるなんて、
凄い世界観・人間観だな…と嘆息する他ないのだが、
個人的にはやはり、空子の人生、そして彼女が生きている世界を
手放しで是とする気持ちにはなれないというのが正直な個人的感想だ。
かといって、それに相対する人間や世界の在り方を示せ、
と言われると、俯く他ないのだけれど…。
ただ少し言えることは、物語の中の個々のエピソードのなかで、
ところどころに表れた、空子に見られる矛盾と<揺らぎ>──
空子風に言えば<システムエラー>あるいは<バグ>ということに
なるのだろうが──に、人間の別の可能性を感じられたことだ。
空子は、家族の奴隷として生きてきた母親のようにはならない、
と心に決めていた。
そして自らに向けられた男たちの性的欲望は、そのとき飼っていた
ピョコルンと呼ばれるペットを身替りに差し出すことで回避した。
感情もなく、自分も無い、空っぽの人間、と自認し、
自ら見つけたシステムで「楽に」生きているはずの空子も、
自分の「楽」が他人の「苦」となっている事実を「罪」として認識している。
そして「他」からの暴力的な侵入に対して、
傷つき、損なわれる「自分」がたしかに、空子という個人としてそこに居る。
空子に言わせれば、これは感情ではないのかもしれないが、
これは、そんな個人の感情などおかまいなしに、
もっと深く人の心身に浸食していく異物との闘いに他ならないのではないか。
この「損傷」の事実、闘いの記憶が、空子の中に留まり続け、
彼女を無意識にしろ、動かす意志となったとは言えないだろうか。
物語の後半で、すっかり中年になった空子が、
自身の子ども世代の女の子たちに、性的な搾取が及ぼうとする場面で、
空子は彼女たちを守ろうとする。
この行為を生み出したものが、
空子自身の安楽、安全のための「システム」でも、
白藤さん的な自身の優位性を証明するための「正しさ」からでも
ないとすれば、一体、何が空子をそうさせたのだろうか。
空子にとって自分とは、意味の無い、空っぽ同然そのものの何か
だったのかもしれないが、その空っぽの空間に投げ込まれた
石のように存在し続ける、彼女自身を確実に損なった痛みの記憶、
その微かな記憶が<揺らぎ>となって、
自分の後の世代が同じ痛みにさらされる状況に
呼応ートレースしたのかもしれない。
ただ、その<揺らぎ>と痛みの同期によって生まれた空子の行為が、
次世代の誰かの人生を変えたとしても、誰もそれに気づくことは
ないのだろうし、空子もきっと、それについて語る言葉を持たないのだろう。
空子の物語を最後まで読むと、彼女の人生のグロテスクさは、
彼女自身のグロテスクさではなく、空子が呼応してトレースした
相手の作り出した物語──世界のグロテスクさの鏡像なのだと思える。
その世界は、誰もが不都合な行為を都合よく他者に役割を押しつけ、
不都合な事態に自らを直面させないように奴隷や生贄を必要とする世界だ。
そんな世界では、空子のように感情を無くし、自分の意志を捨てて、
より隷属性の低い立場や役割を効率よく手に入れようとする生き方が、
もっとも痛みを少なくする生き方として選ばれるに違いない。
「物語(ストーリー)が世界を滅ぼす」という言葉が語られる今、
この『世界99』で描かれた世界も、世界を支配する少数の人間の
利己的な動機で創られた物語が、他の多数の人間を隷属的に支配
する世界を描いているように思えた。
そしてその世界は決して架空の世界ではなく、
私たちの現実の日常の中で、誰もが日々、他の誰かの物語を脅かし合い、
やがて人間の数だけ存在する無数の物語同士の闘いが
果てしもなく繰り広げられているのではないだろうか。
冒頭で述べたように、この作品は小説中の小説、これぞ小説、
といえる凄い作品に違いないのだが、それは決して、
楽しんで読む架空の物語という枠の中での誉め言葉ではない。
この『世界99』という作品は、
現実の世界と人間に対して、ガツンと撃ち込まれた鶴嘴の一撃
──そんなパンチの効いた(効き過ぎた)作品なのだと思う。
この上下巻に分かれた分厚い物語は、その奇妙な標題と
ジャケットのイラストから受けるイメージによって
すでに読者の心を掴んでいるように見えた。
外部的に提示されたこの世界観だけでも、
この物語が通常のセオリーでは語られない、
語ることができない何かを語ろうとしていることが伺える。
私たちの多くが見落としている、あるいは見えないものとして
やりすごしている、おそらく、見過ごすことのできない肝腎なことを。
日常に在りながら、ベタな言葉で語り合うことが難しい
(あるいは語られることそれ自体がタブーである)事柄を、
架空の物語、あるいはメタファーを駆使して語り尽くそうとしている
──そういった機能をもったシステムこそが小説だというならば、
この作品は小説中の小説、といえるのではないだろうか。
平凡でありながら、私たちの日常にしっかりと存在する、
あまりに普通の困難と、個人的で利己的な、ある煽情的な事柄について、
極端にデフォルメされた架空の設定を使い、読者を飽きさせない
ストーリーというエンターティメント性をしっかりと有した、
楽しくも驚くべき作品だ。
ただ、エンタメ性を強く具えているとはいえ、この作品を感情的に、
楽しく気持ちよく読み終えることができる人は、
あまりいないかもしれない、とも思う。
多くの小説は、読者の属性──年代であったり、性別であったり、
あるいは人種、文化的背景、社会的立場、価値観、嗜好、性格などなど──
によって、その物語を肯定的に読むのか、否定的に読むのか、
あるいはもっと単純に、好き嫌いで読むのか、
読者の立ち位置というものが個別に生じるものだと思う
(その強弱の区別はあるとしても)。
しかしこの作品は、おそらくすべての人にとって(というのは
言い過ぎかもしれないが)、少なくとも対立する立場や価値観の
人間双方にとって、痛い作品なのではないか、
というのが読後の最初の感想だった。
誰もの急所を分け隔てなく突いてくる、そんなフェアさも、
この作品の凄いところだと個人的には強く思う。
さて、この物語は<私>こと如月空子の視点から語られる。
空子は、自分が相対して関係する他者が抱いている価値観や欲望、
さらには彼らが空子自身に対して望んでいる人間像に
瞬時に「呼応」し、それをなぞる──「トレース」することで
相手や状況との齟齬を無くし、自身の安全を確保しようとする。
それが自分にとって危険を回避できる「一番楽な道」であり、
面倒でない生き方だからだった。
そして何よりそれは彼女にとって、無理せず、意図するまでもなく
行うことのできる自然なふるまいなのだ。
私は彼女の生真面目さを「トレース」し、深刻そうに悩んでみせる。
「呼応」のあと、いつも自然と「トレース」が始まる。
そのコミュニティにいる人物の目の動き、ちょっとした行動、
仕草、喋り方や使用する言葉などが、新しい私へと伝染し、移動する。
あえて意識していないときでも、その人たちの欠片が自然と私の中へ入ってくる。
これは誰もが、とりわけ新しい場に入ったときに、多かれ少なかれ
無意識に行う心の動きだと思われる。
その場で自分が安全に安心してすごすためには、誰と関わればよいのか、
自分の立ち位置をどこに求めたらよいのか、何を言って(言わなくて)、
どんな振舞いをすれば、その場から弾き出されることなく、
その場に居る他者との関係を形成し、居場所を確保することができる
──生き延びることができるのか。
そのためには、空子がそうしたように、まわりの人間の心の動きと行動を
しっかりと観察し、その関係性を見極める能力が必要とされる。
いわゆる空気を読むこと──空気という場の質とその流れを読めない人間が、
その場とその人間関係から弾き出されることは
多くの人が経験的に知っていることだろう。
空子はその能力を生得的に強く「クリーンに」保持している
存在として描かれる。
ある意味これは、人間の中にあるナチュラルな生存本能であり、
空子はそれを究極にまで体現した存在といえるのかもしれない。
そして空子の場合、それが徹底されていること、
多くの人が無意識にやっていることを明確に意識化しているという点が、
他と異なっているところなのかもしれない。
(「どうして? みんな、気がついてないだけでしているのに」と
空子は言っている)
空子は自分には感情が無い、「危険」と「安全」の判断、
「面倒」と「楽ちん」の感覚があるくらい、と言うが、
それらもより本能に近い感情──人の行為の元となる情動、
と言えるとすると、それは厳密には感情ではないのかもしれないが、
人の言動を左右する内面の性質、と言えなくもないと思う。
空子が体現している物語を読むと、それは現実社会において、
誰にでも多少は覚えのある経験と感覚であり、
それが空子のように極限にまで徹底されると、
その本質にある歪さ、空虚さ、あるいはその非人間的な痛ましさが、
明確化されてくる──と、つい、まとめたくなるのだが、
このような他者に対する「物語」の付与でさえ、空子は、
理解不能な人間に対する自身の優位性と安心感を担保するための
システム──それこそ、薄気味悪い、と切り捨てる。
白藤さんの中で、私の物語が形成されたのだ。
多面性があって、ひどい差別的言動をして、良心の呵責もなさそうに
平然としている人間、というのは、白藤さんから見て、
理解不能すぎたのだろう。
幼少期になにかあったとか、家族に問題があるだとか、
孤独で救いを求めているだとか、なんとか理由を想像して、
自分が理解できる存在を創り上げたほうが、人は安心するものだと、
よくわかっていた。(中略)
白藤さんがあまりにも正しさにとらわれていることが、
私のほうも少し薄気味悪かったのだ。
意味不明なものを理解できた気持ちになると、自分がとても
視野が広い、優位に立った存在である感じがして心地よい。
そう、作者は、空子という典型的人間──誰もが普通に行っている行為を
意図的に突き詰めた存在を呈示することで、読者に対しても
これが現実でしょ? と、強い揺さぶりをかけているように思われる。
読者は「白藤さん」になって空子を分析し、こちらに都合のよい解釈をして、
批判することさえ許されないのだ。
あなたに何ができるの? まあ、たとえ私のことを分かったところで
何も変わらない、何もできないくせに──。
空子のそんな声を、ずっと耳の奥で感じながら、読者はこの物語を
読み進めていくことになる。
空子という人間の生きるシステムに対抗する立場としては、
空子の小学生時代からの友人・白藤さんに体現されているのだろうが、
彼女の価値観やメンタリティは、空子や空子的な世界の展開に対して、
あまりに無力で痛々しく描かれている。
それは物語の最後まで変わらない。
変わらないどころか、白藤さんは自分の「正しさ」という価値観さえ、
最後には捨てざるを得ないほど、世界のシステムから振り落とされ、
時代と乖離していく。
物語の中で、旧来の感覚と生き方は、すでに敗北しているのだ。
それでは、その対極にある空子は、物語の中で描かれているような
カタストロフィーや世界観の大転換にアジャストして、
自身の思い通りに、生を全うした勝者、あるいは強者なのだろうか。
あのね、だから、私に意志なんてないのよ。
危険を回避して、安全に生きていくこと。
誰とも摩擦を起こさず、ただただ、楽に生き延びること。
私、それだけなの。
ただそれだけの生き物なの。
でも、本当はみんな、そうなんでしょう?
空子は自分にとっての危険を回避し、楽に生きることが全てであり、
そのために「世界に媚びる」──相手に合わせて、自分の役割を演じる──
生を貫いたのだろうか。
最終的に空子の選んだ結末が、一見、彼女があれほど回避してきた、
性欲処理や子孫搬出まで含めた「便利」という名の食物連鎖の
最終奴隷──彼女の母親と同じか、それ以下の存在になったことは
矛盾した結果のようにも見える。
しかしこの結末さえもまた、空子にとっては、
親しい友人に依頼されたから普通に受けた、
という「呼応」ー「トレース」システムの一環なのだとすると、
それはさらに、痛ましく、悍ましいと思える──これもまた
空子的人間から見れば、センチメンタルすぎる「薄気味悪い」感情なのだろうが。
きっと空子の結末は、彼女の行動原理である「呼応ートレース」システムが
最も強固に発動された結果、と見るべきなのだろう。
私が人間ロボットではなく人間であるとしたら、
自分の本質を証明するものが、自分の内側に結晶のように存在するのだろうと、
どこかで考えていた。
けれど、空虚こそ本質なのだった。
私の中の空洞にこそ、私が人間であることの証明が、核心が、
はっきりと宿っているのだった。(中略)
このとき、私は完全に世界99へ「帰ってきた」のだった。
そして自分が一生ここを出ることができず、
世界99で生きていくことを、確信していたのだった。
「世界99」とは、「呼応」と「トレース」を繰り返しながら
現実世界を無難に生き抜いていく、そんな自分の姿を見ている外側の空子だ。
それこそが人間の本質と言い切る空子は力強く、自信に満ちてさえいるようだ。
もちろん空子的には、それは「絶望」というような
自己否定的な激しい感情として意識されるのではなく、
「諦観」に近い、内面的にはむしろ自分の運命を受け入れた後の清々しさ、
といったものなのかもしれないが…。
読む側としては、ああ、ここまで徹底して自己のシステムに従って生きて、
そしてどこまでも変容し続けていくことができるなんて、
凄い世界観・人間観だな…と嘆息する他ないのだが、
個人的にはやはり、空子の人生、そして彼女が生きている世界を
手放しで是とする気持ちにはなれないというのが正直な個人的感想だ。
かといって、それに相対する人間や世界の在り方を示せ、
と言われると、俯く他ないのだけれど…。
ただ少し言えることは、物語の中の個々のエピソードのなかで、
ところどころに表れた、空子に見られる矛盾と<揺らぎ>──
空子風に言えば<システムエラー>あるいは<バグ>ということに
なるのだろうが──に、人間の別の可能性を感じられたことだ。
空子は、家族の奴隷として生きてきた母親のようにはならない、
と心に決めていた。
そして自らに向けられた男たちの性的欲望は、そのとき飼っていた
ピョコルンと呼ばれるペットを身替りに差し出すことで回避した。
私はなぜか、母のことを思い出していた。
私は自分が労働をするかわりに、父と祖父母に母を差し出し続けた。
今、徳岡さんにピョコルンを差し出したように、
自分のおぞましさがいつか罪に問われると思っているのに、
罪は償う前に重なっていく。
私が人生を安全に送るための犠牲者がどんどん増えていく。
感情もなく、自分も無い、空っぽの人間、と自認し、
自ら見つけたシステムで「楽に」生きているはずの空子も、
自分の「楽」が他人の「苦」となっている事実を「罪」として認識している。
そして「他」からの暴力的な侵入に対して、
傷つき、損なわれる「自分」がたしかに、空子という個人としてそこに居る。
痴漢なんて当たり前で、日常の中にとてもよくあることなのに、
何度起きても、その時間は少しだけ自分が殺されているような感じがする。
世界の音が聞こえなくなり、とにかく生き延びなくては、という
警報だけが頭をがんがんと鳴らす。そこに言語はない。
気持ち悪かったとか、できごとが言葉になるのは、いつも何時間も経ったあとだ。
痴漢を頻繁にされていると脳がダメージを受けるんじゃないか、
と考えることもある。
逃げ切って安全な場所に辿り着いてからも、
脳が少し損傷したような感覚が数日間続く。
空子に言わせれば、これは感情ではないのかもしれないが、
これは、そんな個人の感情などおかまいなしに、
もっと深く人の心身に浸食していく異物との闘いに他ならないのではないか。
この「損傷」の事実、闘いの記憶が、空子の中に留まり続け、
彼女を無意識にしろ、動かす意志となったとは言えないだろうか。
物語の後半で、すっかり中年になった空子が、
自身の子ども世代の女の子たちに、性的な搾取が及ぼうとする場面で、
空子は彼女たちを守ろうとする。
この行為を生み出したものが、
空子自身の安楽、安全のための「システム」でも、
白藤さん的な自身の優位性を証明するための「正しさ」からでも
ないとすれば、一体、何が空子をそうさせたのだろうか。
空子にとって自分とは、意味の無い、空っぽ同然そのものの何か
だったのかもしれないが、その空っぽの空間に投げ込まれた
石のように存在し続ける、彼女自身を確実に損なった痛みの記憶、
その微かな記憶が<揺らぎ>となって、
自分の後の世代が同じ痛みにさらされる状況に
呼応ートレースしたのかもしれない。
ただ、その<揺らぎ>と痛みの同期によって生まれた空子の行為が、
次世代の誰かの人生を変えたとしても、誰もそれに気づくことは
ないのだろうし、空子もきっと、それについて語る言葉を持たないのだろう。
空子の物語を最後まで読むと、彼女の人生のグロテスクさは、
彼女自身のグロテスクさではなく、空子が呼応してトレースした
相手の作り出した物語──世界のグロテスクさの鏡像なのだと思える。
その世界は、誰もが不都合な行為を都合よく他者に役割を押しつけ、
不都合な事態に自らを直面させないように奴隷や生贄を必要とする世界だ。
そんな世界では、空子のように感情を無くし、自分の意志を捨てて、
より隷属性の低い立場や役割を効率よく手に入れようとする生き方が、
もっとも痛みを少なくする生き方として選ばれるに違いない。
「物語(ストーリー)が世界を滅ぼす」という言葉が語られる今、
この『世界99』で描かれた世界も、世界を支配する少数の人間の
利己的な動機で創られた物語が、他の多数の人間を隷属的に支配
する世界を描いているように思えた。
そしてその世界は決して架空の世界ではなく、
私たちの現実の日常の中で、誰もが日々、他の誰かの物語を脅かし合い、
やがて人間の数だけ存在する無数の物語同士の闘いが
果てしもなく繰り広げられているのではないだろうか。
冒頭で述べたように、この作品は小説中の小説、これぞ小説、
といえる凄い作品に違いないのだが、それは決して、
楽しんで読む架空の物語という枠の中での誉め言葉ではない。
この『世界99』という作品は、
現実の世界と人間に対して、ガツンと撃ち込まれた鶴嘴の一撃
──そんなパンチの効いた(効き過ぎた)作品なのだと思う。
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読むことも書くことも孤独な作業ですが、言葉はいつも語られ受け取られるためにあるものだと思っています。誰かに喜んでもらえる言葉を語ることができれば嬉しいです。できることならば…。
近・現代日本文学を中心に、外国文学、児童文学、医療・健康関係の本、必要に応じて読んだ実用書などについて書いていきたいと思っています。
不定期でアロマテラピーインストラクター、セラピストの仕事をしています。
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- 出版社:集英社
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- ISBN:9784087718799
- 発売日:2025年03月05日
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