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菅原万亀
レビュアー:
言葉のもつ概念と輪郭の曖昧さは、豊かさなのかそれとも危うさなのか。

※ネタバレ注意! 以下の文には結末や犯人など重要な内容が含まれている場合があります。

2024年に「小説トリッパー秋号」で発表され、
その年の下半期(第172回)の芥川賞を受賞した作品。
2001年生まれの著者は、21世紀生まれで初の芥川賞作家となった。

この作品は、一言でいでば「教養小説」ということになるのだろうか。

といっても、「主人公がさまざまな体験を通して
内面的に成長していく過程を描く小説」という
広く一般的な意味での「教養小説」ではなく、
この作品は、文学や言葉に関する知識と洞察の在り様と、
それに実際にプロフェッショナルとして関わる人々について書かれた小説、
という意味での「教養小説」のように私には思われた。

ちなみに、前述の広く一般的な意味での「教養小説」の概念は、
ドイツの哲学者・ヴィルヘルム・ディルタイが、
ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を中心に、
それに類似した作品群を指す言葉として使用したことが始まりか、
いわれている(ウィキペディアはかく語りき)。

これが事実だとすると、この作品『ゲーテはすべてを言った』を、
「教養小説」と呼ぶのも、あながち的外れとは言えないのかもしれない。
ゲーテ繋がりで…;;

ちなみに日本においては、夏目漱石の『三四郎』、
森鷗外の『青年』などが「教養小説」の例として挙げられているが、
鷗外の『青年』はともかく、『三四郎』が「教養小説」…? 
と思わず別のところにひっかかってしまった。

(『三四郎』は、「主人公がさまざまな体験を通して
内面的に成長していく過程を描く小説」という本来の意味での
「教養小説」とは言えないような…。
というのも…三四郎くん…あの人、どこか成長してましたっけ? 
これはまた別に検証の必要あり。※個人のつぶやきです)

まあ三四郎はともかく、この『ゲーテはすべてを言った』という作品は、
その標題にも示されている通り、キーポイントがゲーテの言葉にあることが推測され、
それが敷衍されて、おそらくは「言葉」というものの本質性が探究される物語、
少なくとも、作者の問題意識はその辺にあるのではないか、
と思いながらページを捲った。


この物語は、ゲーテ(ドイツ文学)の研究者として大学に勤める
博把統一(ひろばとういち)が、ある夜妻と娘と一緒にディナーに出かけ、
そこで出された紅茶のタグに、彼の専門であるゲーテの言葉として、
ある英語のフレーズが刻印されているのを目にすることから始まる。

それは、「Love does not confuse everything, but mixes
(愛はすべてを混淆せず、渾然ととなす)」という
ゲーテの(ものとされる)言葉だった。
ところが統一は、自身の専門であるゲーテのものといわれる、
その言葉の出典に心当たりがなかった。

そこから彼は、大学の同僚や多くの関係者、妻の父親(統一の恩師)
にも尋ね、娘(大学院生)やその彼氏まで巻き込んで
その言葉の出典を探し求める。
(ゲーテの専門家の名にかけて、というところか)

しかし結局、その言葉は偶然とも思われる展開によって、
彼らは唐突にその出所(のようなもの)へと導かれる。
統一の妻の趣味の師匠が、その言葉の鍵となる何かを知っていることが判り、
家族みんなで妻の師匠の住むドイツ(フランクフルト)へと
飛んだのだった──。


以上が、この作品の物語的な概略だが、典拠不明の、
このゲーテの(ものとされる)一つの言葉が
この作品のテーマを象徴しているのかと思って読み進めたが、
実際にこの物語が行き着いた処は、その言葉それ自体の意味が
あまり問題とはならない結末だった。

あるいは、その言葉の意味そのものが、統一自身の生き方や人間性と
深く関わるというほどのものではなく、強いて言えば、言葉一般の位置づけ
──人間にとって言葉とは何か? 
という言葉一般の機能や枠組みに関する問いかけに限られているように思えた。

物語の始まりで、統一は、自問する。

 統一のあらゆる思い、力、行為の所産であるはずの言葉、
 言葉、言葉……しかし、彼は今、それらの内に新たな思いや力や
 行為の胎動を認められなかった。
 もしかしたら一度言葉にされた思いや力や行為は、
 ピンを刺され標本箱に整然と収まった蝶のように、
 二度と羽ばたくことはできないのではないか、とさえ彼は思いかけた。

物語の最初で、彼はたしかに学者としての自身の言葉への向き合いに限界、
とまではいかないまでも、ある行き詰まりを感じているように思われる。

そして、この問いに対する答え──言葉の内に
「新たな思いや力や行為の胎動」を見出す旅こそが、
この物語が包むテーマの主旋律なのではないかと思ったのだが、
物語の最後に見出された答えは──

 統一は、自分の言葉を決して信じ切れていない
 男の語る言葉を聞きながら、その言葉を信じてやることができた。
 何故なら、その言葉は本当だったからだ。
 よしんば、善い言葉とはすべて演技だとしても、だからといって、
 そこに意味がないということではない。
 それは何度も訓練し、口に慣らしていく中で自然さを獲得し、
 やがてその意味が開示されるだろう。
 そう信じるとすれば、言葉はどれも未来へ投げかけられた祈りである。
 これが今のところ、自分が先生から与えられた公案になしうる
 解釈の限界だ、と統一は思った。

彼の言う「自分の言葉を決して信じ切れていない男の語る言葉」とは、
彼の同僚で、自著の捏造と盗用によって
大学を追われることになった然紀典の言葉を指すと同時に、
統一自身がTV番組内で語っている次の言葉をも含んでいるように思われる。

 すべての人があるがままに話している世界を
 『ファウスト』という作品に圧縮して、
 これはどうにも救い難い馬鹿げた代物だけど、そこに愛という帯を巻いた。
 彼は実際、こうも言ってるんですね。
 『愛はすべてを混淆せず、渾然となす』

統一は、TV番組の中で、結局、出典のはっきりしない例の言葉、
『愛はすべてを混淆せず、渾然となす』をゲーテの言葉として
断定して示したのだった。
この行為において、統一は捏造と盗用で大学を追われた同僚と
同じ地平に立ったといえる。

結局、捏造や盗用を、自身の「祈り」や「信じる」ことで許容することを、
言葉というものが本来具えている性質──それ自体のもつ意味内容の
不確かさや曖昧さを根拠に据えて、正当化しているように聞こえる。

たしかに、警句や格言のように、長い時間受け継がれ、
使う時代の変化や使う人間が付与した意味性の差異によって、
オリジナルなものから変質していくという流動性を、
言葉は常に有しているのかもしれないが、
この物語の中の文脈においては、その曖昧さや流動性を
そのまま肯定してしまって良いのだろうか、と疑問に思った。

少なくとも、「祈り」や「信じる」気持ちを理由に、
自ら立てた問いの答えとした主人公に、すんなりと共感することができなかった。

さらには、キーワードそれ自体の主語である「愛」については、
統一が、あるいは作者が、この言葉にどのような意味を持たせ、
あるいは想いを込めているのかは、物語の中で十分に
語られているようには思えなかった。

統一がTV番組の最後で口にした言葉を借りれば、
「愛」とは、「馬鹿げた代物」に巻いた帯、ということになるが、
これではまるで「愛」が、価値のないプレゼントにかけられた
飾り物のリボンのようなもの、と言っているようにも聞こえる。

まあ、言葉の意味そのものを問題にしているのではないのかもしれないが、
「愛」の意味を問いかけるには、浅すぎるメタファーでもあるし、
ゲーテを引き合いに出すのなら、ゲーテにおける「愛」の概念くらいは、
統一先生に披瀝してほしかった、とゲーテに詳しくない読者(私です)は
思うかもしれない。

もし「愛」が物語の中で、実体のあるものとして語られるとすれば、
それは登場人物同士の何らかの関係性の中に生まれた何かなのだと思うのだが、
そこにも特に「新たな思いや力や行為の胎動」のようなものが生まれたとは
語られてはいない気がする。

物語に登場する人々──統一の家族は、妻、娘、娘の彼氏(後に夫)、
義父家族、さらにはドイツ留学時代の友人や妻の師匠の家族など、
どの人間関係においても、その関係性には大きな破綻も葛藤も見られない。

そこには、豊かな教養と知性に満ちた、
精神的に(そしておそらく物理的にも)余裕のある穏やかな学者家族
──アカデミックな領域を生きるそれぞれの立場の人々の典型が
描かれているように思われる。

たしかに前述の通り、統一の同僚の然先生の論文捏造事件が起こったりするが、
それも結局、統一や彼ら一族にとっては、彼らの底にある本質に抵触し、
それを根本から揺るがすほどの大問題とは捉えられていない。
彼らはどこまでも知的で冷静で、知性と教養に満ちた善き人々であり続ける。

そこにドラマ性や、劇的要素を求めるのは、一読者のわがままなのかもしれないが、
結局、彼らにとっての<言葉>と<愛>の本質は、
「新たな思いや力や行為の胎動」を内包するものというより、
外箱とそれを飾るリボンのまま、開けられることのないプレゼントのように、
物語としても曖昧なまま収束してしまっているように思う。

言葉の定義が命ともいえる学問において、その曖昧さと限界を
自ら許容することを述べるために、作者がこの作品を書いたとは思えないが、
もしかしたら著者は、あえてこのような曖昧な結末で物語を閉じることで、
アカデミズムの世界、そして小説という表現方法における言葉の危うい在り様を、
批判と自戒を込めて描こうとしたのだろうか。

たしかに、この小説はこの作者にしか書けない作品なのだと思う。
統一の学者としてのバックボーンの紹介や、文学や文学史の記述、
特に、シンポジウムやTV収録で、人々が議論をしている場面などは、
(個人的にその事実的内容をほとんど知らないので、
どれくらい凄いことなのかは正確には分からないが)
文学を深く学んでいる作者ならではの内容なのだろうと思う。

その意味で、文学についての知識・教養が多ければそれだけ、
この作品の真意を十分に理解できるのかもしれない。
しかし、たとえここに書いてあることが理解できなくても、
文学の世界の豊かさ、まだ知らない作品に対する興味関心を
刺激する作品ではあると思う。

あくまでも個人的な理解度と、それに応じた感想故に、
少し否定的な物言いになってしまったが、
この作品自体の問い立てには、凄く共感できるものがあった。
作者のさらなる<言葉>への愛と挑戦の物語を、
また手に取れることを心から願っている。

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菅原万亀
菅原万亀 さん本が好き!1級(書評数:261 件)

読むことも書くことも孤独な作業ですが、言葉はいつも語られ受け取られるためにあるものだと思っています。誰かに喜んでもらえる言葉を語ることができれば嬉しいです。できることならば…。

近・現代日本文学を中心に、外国文学、児童文学、医療・健康関係の本、必要に応じて読んだ実用書などについて書いていきたいと思っています。

不定期でアロマテラピーインストラクター、セラピストの仕事をしています。

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