hackerさん
レビュアー:
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「あの動物に酒を飲ませちゃいけません!」「動物だと!おまえだって動物じゃないか。あいつはキリスト教徒のように酒をたしなむんだ。そこをどけ」(本書中の会話より)
H.G.ウェルズ(1866-1946)が1896年に発表したSFの古典です。映画化されたものも二本観ていますが、原作をまともに読んだのは、これが初めてでした。よく知られたストーリーですから、細かくは語りませんが、冒頭の緒言で、その背景が説明されていますので、まずそこを簡単に紹介します。
本書はエドワード・プレンディックというイギリス人の手記という体裁をとっています。彼が乗っていた船は1887年に南太平洋で難破したのですが、それから11ヵ月経って小型ボートに乗ってほぼ同じ海域を漂流中のところを救われました。生前から、この11ヵ月をどう生きのびたかについては話していたのですが、あまりにも常軌を逸した内容だったので、信じる者はおらず、発言を控えるようになります。彼が遭難した海域にある島は、ノーブル島という小さな火山島だけで、1891年に英国海軍の船員が上陸しましたが、「島で見かけた生きものは、珍種の白い蛾、豚、兎、どことなく風変わりな鼠だけ」でした。彼はその後亡くなったのですが、甥である編者が、叔父が遺した書類の中からこの手記を見つけたので、それを公開することにしたというものです。
さて、プレンディックは、漂流から救われた後、モロー博士とその助手のモンゴモリーが住んでいる島(ノーブル島であることが示唆されています)で暮らすことになるのですが、彼らがそこで動物を人間に改造する手術を実験的に行なっていることを知ります。そして、彼らに言葉を教え、四つ足でなく二本足で歩く、生肉や生魚を食べない、木に爪を立てない、地面を鼻でかがない等の掟を作り、それを厳守することを誓わせ、守らなかった場合は厳罰を処することを理解させています。そして、モロー博士のことは「主」と呼ばせていました。
実は、本書を読み始めた時、動物を人間に改造しようとして失敗する話と理解していたのですが、どうもそうではないようです。原書は読んでいないのですが、私が観た映画では「主」は'Lord'、「掟」は'Law'となっていて、前者は「神」、後者は「戒律」の意味もあります。要するに、宗教特にキリスト教を意識した単語を選んでいるのです。つまり、本書は、人間とはそもそも動物=獣であり、宗教若しくはキリスト教による戒律によってかろうじて人間たりえている生き物にすぎない、という物語のように思えます。動物を人間らしくする話ではないのです。
本書の冒頭でも、プレンディックが最初に漂流した時、食料も水も尽きて、ボートに同乗している三人の中の一人を犠牲にするためにくじ引きをする場面があります。また、『宇宙戦争』(1898年)にも極限状況下で少女に対する性的脅威を暗示する場面があります。こう考えてくると、ウェルズは人間の本性というものを信用していなかったことが分かります。実際に、いつまで経っても、戦争や争いごとが絶えない人間というのは、どういう生き物なのでしょうか。こんな愚かな生き物が地球上で一番偉そうにしていていいのでしょうか。本書が訴えているのは、そこではないかと思います。読みながら、岡林信康の『毛のないエテ公』という歌の「エテ公のくせに エテ公でないような ふりをしたがる 毛のないエテ公」という詞を思い出してしまいました。
なお、本書は3回映画化されていますが、私が観ているのは、『獣人島』(1932年)と『ドクター・モローの島』(1977年)の二本です。モロー博士を演じたのは、前者がチャールズ・ロートンで後者がバート・ランカスターですが、私が印象に残っているのは前者の方です。両作に共通しているのは、モロー博士が獣人の女性と人間の男性との子供を作ろうと画策する点ですが、これは原作にはありません。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818年)からのアイデアだと思います。
本書はエドワード・プレンディックというイギリス人の手記という体裁をとっています。彼が乗っていた船は1887年に南太平洋で難破したのですが、それから11ヵ月経って小型ボートに乗ってほぼ同じ海域を漂流中のところを救われました。生前から、この11ヵ月をどう生きのびたかについては話していたのですが、あまりにも常軌を逸した内容だったので、信じる者はおらず、発言を控えるようになります。彼が遭難した海域にある島は、ノーブル島という小さな火山島だけで、1891年に英国海軍の船員が上陸しましたが、「島で見かけた生きものは、珍種の白い蛾、豚、兎、どことなく風変わりな鼠だけ」でした。彼はその後亡くなったのですが、甥である編者が、叔父が遺した書類の中からこの手記を見つけたので、それを公開することにしたというものです。
さて、プレンディックは、漂流から救われた後、モロー博士とその助手のモンゴモリーが住んでいる島(ノーブル島であることが示唆されています)で暮らすことになるのですが、彼らがそこで動物を人間に改造する手術を実験的に行なっていることを知ります。そして、彼らに言葉を教え、四つ足でなく二本足で歩く、生肉や生魚を食べない、木に爪を立てない、地面を鼻でかがない等の掟を作り、それを厳守することを誓わせ、守らなかった場合は厳罰を処することを理解させています。そして、モロー博士のことは「主」と呼ばせていました。
実は、本書を読み始めた時、動物を人間に改造しようとして失敗する話と理解していたのですが、どうもそうではないようです。原書は読んでいないのですが、私が観た映画では「主」は'Lord'、「掟」は'Law'となっていて、前者は「神」、後者は「戒律」の意味もあります。要するに、宗教特にキリスト教を意識した単語を選んでいるのです。つまり、本書は、人間とはそもそも動物=獣であり、宗教若しくはキリスト教による戒律によってかろうじて人間たりえている生き物にすぎない、という物語のように思えます。動物を人間らしくする話ではないのです。
本書の冒頭でも、プレンディックが最初に漂流した時、食料も水も尽きて、ボートに同乗している三人の中の一人を犠牲にするためにくじ引きをする場面があります。また、『宇宙戦争』(1898年)にも極限状況下で少女に対する性的脅威を暗示する場面があります。こう考えてくると、ウェルズは人間の本性というものを信用していなかったことが分かります。実際に、いつまで経っても、戦争や争いごとが絶えない人間というのは、どういう生き物なのでしょうか。こんな愚かな生き物が地球上で一番偉そうにしていていいのでしょうか。本書が訴えているのは、そこではないかと思います。読みながら、岡林信康の『毛のないエテ公』という歌の「エテ公のくせに エテ公でないような ふりをしたがる 毛のないエテ公」という詞を思い出してしまいました。
なお、本書は3回映画化されていますが、私が観ているのは、『獣人島』(1932年)と『ドクター・モローの島』(1977年)の二本です。モロー博士を演じたのは、前者がチャールズ・ロートンで後者がバート・ランカスターですが、私が印象に残っているのは前者の方です。両作に共通しているのは、モロー博士が獣人の女性と人間の男性との子供を作ろうと画策する点ですが、これは原作にはありません。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818年)からのアイデアだと思います。
- 映画『ドクター・モローの島』(1977年)より、モロー博士(バート・ランカスター)
- 同映画より、獣人の一人(バーバラ・カレラ)
- 映画『獣人島』(1933年)のポスター、モロー博士(チャールズ・ロートン)
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- 出版社:東京創元社
- ページ数:238
- ISBN:9784488607074
- 発売日:1996年09月01日
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