かもめ通信さん
レビュアー:
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三十五年間、男は地下にある作業場で、水圧プレスを稼働させ、故紙の塊を作り続けてきた。そしてその仕事によって彼には「心ならず」教養が身についてしまったのだ。
三十五年間、僕は故紙に埋もれて働いている─これは、そんな僕のラブ・ストーリーだ。三十五年間、僕は本や故紙を潰していて、三十五年間、文字にまみれ、そのために僕は、この年月の間に三トン分は潰したにちがいない、百科事典に似てきている。
タイトルや表紙絵にひかれて、この本を手にした読者はまず、この冒頭の数行で読み進むか本を閉じるかの選択を迫られることだろう。
初めから終わりまで、ただひたすら僕ことハニチャの一人語りで貫かれるこの物語には、独特の雰囲気があり、好みが分かれるところに違いない。
意を決して読み進めると、わずか130ページほどの作品の中に、ハニチャが故紙を潰すために動かす水圧プレスの音や、地下の作業場に巣くうネズミたちの鳴き声、ハニチャの作業効率を責める上司の怒鳴り声や、ハニチャの喉にビールが流し込まれる音などがぎっしりと詰まっている。
そしてもちろん、ハニチャの心と頭の中のあれこれも。
地下室での終わりなき作業。
水圧プレスの緑と赤のボタン。
花屋からきたしおれた茎、問屋から出た紙、期限の過ぎたプログラムや乗車券、アイスクリームの包み紙……そして、二度と読者の手に渡ることのない沢山の本……そうしたすべてが一緒くたに圧縮された紙塊になる。
ハニチャはそうした故紙の山の中から、美しい本を救い出す。
カントを、ゲーテを、ニーチェを……そしてその本に書かれた、美しいテキストを読む。そうしてその結果「心ならず教養が身についてしまっている」彼は、故紙の山から持ち帰った本に囲まれて暮らしているのだ。
時にはプレスのボタンを押しながら、また時にはビールを流し込みながら、彼は回想する。
美しい貴重な本を潰すことに大きな痛みを感じていた日々のこと。
若き日の恋心。
ナチスに連れ去られて殺されたジプシーの女のこと。
巻末に18ページにもわたる翻訳者による詳しい解説が掲載されているので、この物語の背景に横たわるチェコの歴史を知らなくても読み進めることができるが、著者であるボフミル・フラバルは、プラハの春以降、クンデラをはじめ多くの作家や文化人が亡命した時代にあって、国内にとどまり小説を書き続けた本国で根強い人気を持つ作家だという。
当然のことながら、かつて彼の作品もまた、出版禁止になったり、一度も読者の手に渡ることなく廃棄処分にされたりしてきたのだ。
ハニチャの救い出した本の中に、フラバルの本はあったのだろうか。
ふとそんなことを考える。
ページをめくりながら、
水圧プレスが圧縮しつぶし続ける故紙の中に、人々の姿を見、
ハニチャの拾い上げる本の中に、人々の希望を見いだし、
喧噪の中にありながら、一人孤独にさいなまれるハニチャの姿に心を締め付けられ、
それでも本を、知識を求めてやまない彼を愛おしむ。
もっとも小銭を取り出そうと手を入れたポケットから、ゴミの山に巣くう子ネズミが数匹でてきてしまうような男を目の前にしたとき、本人を好もしく思えるかどうかは……自信がないけれど……。
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本も食べ物も後味の悪くないものが好きです。気に入ると何度でも同じ本を読みますが、読まず嫌いも多いかも。2020.10.1からサイト献本書評以外は原則★なし(超絶お気に入り本のみ5つ★を表示)で投稿しています。
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- 出版社:松籟社
- ページ数:156
- ISBN:9784879842572
- 発売日:2007年12月14日
- 価格:1680円
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