紅い芥子粒さん
レビュアー:
▼
1930年4月14日の朝。モスクワ都心に近い共同住宅で、銃声が鳴り響いた。その住宅の一室に倒れていたのは、38歳の偉大な詩人。直前には、21歳の女優がその部屋を訪れていた……
二十世紀初頭のロシア(ソ連)を代表する詩人マヤコフスキー。
38歳で、謎の死を遂げたといわれている。
この本『マヤコフスキー事件』は、その死の真相に迫った本である。
著者の小笠原豊樹さんは、マヤコフスキーの翻訳者。
事件は、1930年4月14日月曜日、朝の十時ごろに起きた。
モスクワの都心ちかくの共同住宅から、一発(あるいは二発)の銃声が鳴り響いた。
その住宅の四階の一室に、一人の男が、胸から血を流して倒れていた。
詩人マヤコフスキー、38歳。
その直前に詩人の部屋を訪問していた若い女性がいた。
女優ポロンスカヤ21歳。
事件直後にポロンスカヤの供述調書がとられている。
ポロンスカヤは語る。
マヤコフスキーさんとは一年前からの付き合いです。親しく交際していますが肉体関係はありません。わたしには夫がいますから。マヤコフスキーさんはわたしにつきまとい、夫と離婚して結婚してくれ、女優もやめてそばにいてくれと迫ります。今日は、それはできないと、きっぱりと告げに行きました……
マヤコフスキーは失恋したのだ。失恋による傷心の自殺……
しかし、モスクワ市民は、それを信じていたわけではなかった。
スターリン独裁時代のソ連。
思想信条、言論表現の自由はなく、作家も芸術家も権力に厳しく監視されていた。
マヤコフスキーの身辺にもOGPU(国家政治保安部)の工作員が、はりついていた。
密告、逮捕、銃殺、拷問……粛清される文化人は珍しくない時代だったのだ。
詩人の死から八年後。ポロンスカヤは、二度目の告白をする。
ノート二冊にわたる長い回想記。
二冊のノートは、マヤコフスキー文学館に保管され、公表されることはなかった。
ほとんど完全な形で雑誌に掲載されたのは、50年後の1987年だったという。
ソ連は、スターリンからフルシチョフを経てゴルバチョフの時代になっていた。
二度目の回想記には、詩人と女優の愛の軌跡が綴られている。
肉体関係はもちろんあったし、女優は詩人の子を中絶もしている。
女優は、夫と別れて詩人と結婚したいと思っていた。
別れ話なんてとんでもない。ふたりは相思相愛だったのだ。
さらに1964年、女優ポロンスカヤは、三度目の告白文を書く。
そこにはマヤコフスキー自殺説をひっくり返す、重大な証言が含まれていた。
戯曲も書き俳優でもあったマヤコフスキー。
著者は、マヤコフスキーが生きて死んだ時代の作家や演劇人の資料を集め、分析していく。そして、ひとつの結論を導き出す。
マヤコフスキーは自殺ではなかった。国家の機密機関に暗殺されたのだ。
巻末には、マヤコフスキーの「年譜ふうの略伝」が添えられ、非業の死を遂げた詩人の波乱の一生が、彼の詩を交えて紹介されている。
彼は自作の詩を聴衆を集めて朗読する。人を魅了する声だったという。
詩人マヤコフスキーは、詩の朗読や演劇の公演で国内外を巡業する。
驚くのは、行く先々で恋人をつくっていることだ。
略伝に記されているだけでも、10人や15人はいるだろう。
詩人の子を生んだ女性も、おろした女性もいる。
不自由な国で、なんとやりたいほうだいに恋愛した人だろう。
本文の最後のページは、マヤコフスキーの葬儀の写真だった。
偉大な詩人に別れを告げようと集まった人、人、人、人の群れ。
スターリンが警戒したのは、マヤコフスキーのこの人気なのかもしれないと思った。
彼が発する言葉と叫びが、民衆の心に火をつけるのが怖かったのかもしれない。
38歳で、謎の死を遂げたといわれている。
この本『マヤコフスキー事件』は、その死の真相に迫った本である。
著者の小笠原豊樹さんは、マヤコフスキーの翻訳者。
事件は、1930年4月14日月曜日、朝の十時ごろに起きた。
モスクワの都心ちかくの共同住宅から、一発(あるいは二発)の銃声が鳴り響いた。
その住宅の四階の一室に、一人の男が、胸から血を流して倒れていた。
詩人マヤコフスキー、38歳。
その直前に詩人の部屋を訪問していた若い女性がいた。
女優ポロンスカヤ21歳。
事件直後にポロンスカヤの供述調書がとられている。
ポロンスカヤは語る。
マヤコフスキーさんとは一年前からの付き合いです。親しく交際していますが肉体関係はありません。わたしには夫がいますから。マヤコフスキーさんはわたしにつきまとい、夫と離婚して結婚してくれ、女優もやめてそばにいてくれと迫ります。今日は、それはできないと、きっぱりと告げに行きました……
マヤコフスキーは失恋したのだ。失恋による傷心の自殺……
しかし、モスクワ市民は、それを信じていたわけではなかった。
スターリン独裁時代のソ連。
思想信条、言論表現の自由はなく、作家も芸術家も権力に厳しく監視されていた。
マヤコフスキーの身辺にもOGPU(国家政治保安部)の工作員が、はりついていた。
密告、逮捕、銃殺、拷問……粛清される文化人は珍しくない時代だったのだ。
詩人の死から八年後。ポロンスカヤは、二度目の告白をする。
ノート二冊にわたる長い回想記。
二冊のノートは、マヤコフスキー文学館に保管され、公表されることはなかった。
ほとんど完全な形で雑誌に掲載されたのは、50年後の1987年だったという。
ソ連は、スターリンからフルシチョフを経てゴルバチョフの時代になっていた。
二度目の回想記には、詩人と女優の愛の軌跡が綴られている。
肉体関係はもちろんあったし、女優は詩人の子を中絶もしている。
女優は、夫と別れて詩人と結婚したいと思っていた。
別れ話なんてとんでもない。ふたりは相思相愛だったのだ。
さらに1964年、女優ポロンスカヤは、三度目の告白文を書く。
そこにはマヤコフスキー自殺説をひっくり返す、重大な証言が含まれていた。
戯曲も書き俳優でもあったマヤコフスキー。
著者は、マヤコフスキーが生きて死んだ時代の作家や演劇人の資料を集め、分析していく。そして、ひとつの結論を導き出す。
マヤコフスキーは自殺ではなかった。国家の機密機関に暗殺されたのだ。
巻末には、マヤコフスキーの「年譜ふうの略伝」が添えられ、非業の死を遂げた詩人の波乱の一生が、彼の詩を交えて紹介されている。
彼は自作の詩を聴衆を集めて朗読する。人を魅了する声だったという。
詩人マヤコフスキーは、詩の朗読や演劇の公演で国内外を巡業する。
驚くのは、行く先々で恋人をつくっていることだ。
略伝に記されているだけでも、10人や15人はいるだろう。
詩人の子を生んだ女性も、おろした女性もいる。
不自由な国で、なんとやりたいほうだいに恋愛した人だろう。
本文の最後のページは、マヤコフスキーの葬儀の写真だった。
偉大な詩人に別れを告げようと集まった人、人、人、人の群れ。
スターリンが警戒したのは、マヤコフスキーのこの人気なのかもしれないと思った。
彼が発する言葉と叫びが、民衆の心に火をつけるのが怖かったのかもしれない。
掲載日:
書評掲載URL : http://blog.livedoor.jp/aotuka202
投票する
投票するには、ログインしてください。
読書は、登山のようなものだと思っています。読み終わるまでが上り、考えて感想や書評を書き終えるまでが下り。頂上からどんな景色が見られるか、ワクワクしながら読書という登山を楽しんでいます。
この書評へのコメント
 - コメントするには、ログインしてください。 
書評一覧を取得中。。。
- 出版社:河出書房新社
- ページ数:328
- ISBN:9784309022352
- 発売日:2013年11月19日
- 価格:3024円
- Amazonで買う
- カーリルで図書館の蔵書を調べる
- あなた
- この書籍の平均
- この書評
※ログインすると、あなたとこの書評の位置関係がわかります。








 
 













