ウロボロスさん
レビュアー:
▼
著者は、山田風太郎のこの心情にシンパシーを超越した普遍的なまことの「義しさ」と「美しさ」を読みとった。
この本は、著者が過去に発表したエッセイや、批評文を山田風太郎の小説を切り口に、明治というひとつの時代の断面に結集させ、これに内村鑑三が生涯を賭して問いかけた難問に著者なりの解答をあたえて結びとする内容で、その織りなす各章の構成が鮮やかで、最終章の「鑑三に試問されて」に深く感動した。
長谷川伸、坂口安吾、そして山田風太郎の三人の作家は、彰義隊崩れの敗者を描くことで歴史のダイナミズムを勝者だけに焦点を当てては掴み取ることができない局面と側面に、敗者の歴史で相対化することで歴史のはざまに生きる無名の人々の生を救済する方途を表現したのではないか?
個人の生活の中に国家という概念が欧米から輸入され、観念としてそれを民衆の脳内に侵入させたのが明治維新後の新政府によってであった。それまでにはなかった「国家的大事にかかわる」必要性を民衆に強いた。
それは、日清・日露戦争へと若者を戦場に駆りたてそのゴールが昭和20年の8月15日であった。
以下に、1945年の敗戦を踏まえた山田風太郎の心情を本文より引用する。
《戦争の大義なるものへの信念は時が経るにつれ変わらざるをえない。しかし、国難に殉じようとする青年たちの悲しい美しさ、しかも晴々とした明るさは、彼がこの眼で見たことである。彼らの死を無駄で無意味なものとみなすことだけは彼にはできなかった。(中略)彼らが死ぬことによってもたらされた平和と繁栄が絶対だとするなら、この世に擁護すべきものはない。》
著者は、山田風太郎のこの心情にシンパシーを超越した普遍的なまことの「義しさ」と「美しさ」を読みとった。
そして『坂の上の雲』の底流にある司馬史観の進歩礼賛には評価が低い。「要するに司馬の言い草は一から十まで事実に反する与太話なのである」と言い切る。国民国家に回収されない、庶民の共同体や帰属意識の影にフォーカスし小さな灯りを灯す。
そして最終章の『鑑三に試問されて』のなかで林語堂の言葉を引用している。林語堂(りん ごどう)は、20世紀の中国を代表する文学者、翻訳家、言語学者で、「ユーモア(幽默)」という言葉を中国に広めた「ユーモア大師」として知られる思想家である。《人生には、朝起きて喫する一杯の粥の与える満足といったもの以外、実のあることは何もないのだよ》と、説いたそうだ。
内村鑑三の思念は徹頭徹尾キリストへの信仰にある。神によっては義しく作られてはいないこの人間の「世界」において、義しく生きる以外に如何ほどの価値があろうか?と問う。そしてそれは個々人の内側から顕れるのではなく、外部から、自分の外側から立ちのぼるという。つまり究極の他力本願である。ここで親鸞とシンクロするのである。その外部から立ちのぼる信仰の実在への契機を渡辺京二は自身の言葉で以下のように言う。
《ただ神も仏も遠い現代人たる私にも、実在が大いなるものの形をとって、ふっと訪れてくることがあるといいたいだけだ。それは吹いてくる風でも、さしこむ光でも、空をゆく鳥でも、そこいらを跳びはねる蛙でも、野に立つ農人の姿でもよいのだ。》
そして最後に渡辺京二は、手垢のついた平易な誰にも伝わる言葉で締めた。私なりに要約する。
「俗に生きる人間は、私も含め99%お金がすべての行動規範を信条としている。しかし残滓の1%に、義に正しく生きようとその微かに残された1%に縋る生き方を潔しとしたい」と。私もこの信条を生き方の核心としたい。
長谷川伸、坂口安吾、そして山田風太郎の三人の作家は、彰義隊崩れの敗者を描くことで歴史のダイナミズムを勝者だけに焦点を当てては掴み取ることができない局面と側面に、敗者の歴史で相対化することで歴史のはざまに生きる無名の人々の生を救済する方途を表現したのではないか?
個人の生活の中に国家という概念が欧米から輸入され、観念としてそれを民衆の脳内に侵入させたのが明治維新後の新政府によってであった。それまでにはなかった「国家的大事にかかわる」必要性を民衆に強いた。
それは、日清・日露戦争へと若者を戦場に駆りたてそのゴールが昭和20年の8月15日であった。
以下に、1945年の敗戦を踏まえた山田風太郎の心情を本文より引用する。
《戦争の大義なるものへの信念は時が経るにつれ変わらざるをえない。しかし、国難に殉じようとする青年たちの悲しい美しさ、しかも晴々とした明るさは、彼がこの眼で見たことである。彼らの死を無駄で無意味なものとみなすことだけは彼にはできなかった。(中略)彼らが死ぬことによってもたらされた平和と繁栄が絶対だとするなら、この世に擁護すべきものはない。》
著者は、山田風太郎のこの心情にシンパシーを超越した普遍的なまことの「義しさ」と「美しさ」を読みとった。
そして『坂の上の雲』の底流にある司馬史観の進歩礼賛には評価が低い。「要するに司馬の言い草は一から十まで事実に反する与太話なのである」と言い切る。国民国家に回収されない、庶民の共同体や帰属意識の影にフォーカスし小さな灯りを灯す。
そして最終章の『鑑三に試問されて』のなかで林語堂の言葉を引用している。林語堂(りん ごどう)は、20世紀の中国を代表する文学者、翻訳家、言語学者で、「ユーモア(幽默)」という言葉を中国に広めた「ユーモア大師」として知られる思想家である。《人生には、朝起きて喫する一杯の粥の与える満足といったもの以外、実のあることは何もないのだよ》と、説いたそうだ。
内村鑑三の思念は徹頭徹尾キリストへの信仰にある。神によっては義しく作られてはいないこの人間の「世界」において、義しく生きる以外に如何ほどの価値があろうか?と問う。そしてそれは個々人の内側から顕れるのではなく、外部から、自分の外側から立ちのぼるという。つまり究極の他力本願である。ここで親鸞とシンクロするのである。その外部から立ちのぼる信仰の実在への契機を渡辺京二は自身の言葉で以下のように言う。
《ただ神も仏も遠い現代人たる私にも、実在が大いなるものの形をとって、ふっと訪れてくることがあるといいたいだけだ。それは吹いてくる風でも、さしこむ光でも、空をゆく鳥でも、そこいらを跳びはねる蛙でも、野に立つ農人の姿でもよいのだ。》
そして最後に渡辺京二は、手垢のついた平易な誰にも伝わる言葉で締めた。私なりに要約する。
「俗に生きる人間は、私も含め99%お金がすべての行動規範を信条としている。しかし残滓の1%に、義に正しく生きようとその微かに残された1%に縋る生き方を潔しとしたい」と。私もこの信条を生き方の核心としたい。
掲載日:
外部ブログURLが設定されていません
投票する
投票するには、ログインしてください。
これまで読んできた作家。村上春樹、丸山健二、中上健次、笠井潔、桐山襲、五木寛之、大江健三郎、松本清張、伊坂幸太郎
堀江敏幸、多和田葉子、中原清一郎、等々...です。
音楽は、洋楽、邦楽問わず70年代、80年代を中心に聴いてます。初めて行ったLive Concertが1979年のエリック・クラプトンです。好きなアーティストはボブ・ディランです。
格闘技(UFC)とソフトバンク・ホークス(野球)の大ファンです。
この書評へのコメント

コメントするには、ログインしてください。
書評一覧を取得中。。。
- 出版社:平凡社
- ページ数:211
- ISBN:9784582836547
- 発売日:2014年03月14日
- Amazonで買う
- カーリルで図書館の蔵書を調べる
- あなた
- この書籍の平均
- この書評
※ログインすると、あなたとこの書評の位置関係がわかります。


















