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千世さん
千世
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不毛な裁判を背景に、それに巻き込まれていく人々の運命を描いた群像劇。登場人物は上流階級から浮浪児まで多彩。エスタという愛に溢れた女性を軸に、当時のイギリス社会への批判と善良な市井の人々を描く。全4巻。
目下、大法官裁判所では約二十年前に始められた訴訟が審理中であり、これにある時は三十人から四十人の弁護士が出廷したことが知られているし、訴訟費用はもう七万ポンドという金額に達しているが、これは友誼的訴訟で、今なお始まった時と同じく、少しも終結に近づいていない。もう一つ、いまだに決定に至らない有名な大法官府の訴訟があり、これは前世紀の末に始められて、七万ポンドの二倍以上の金が訴訟費用に蕩尽されている。

 解決する見込みすらなく繰り返される裁判のための裁判。無駄に使われる金と、それで稼ぐ弁護士。19世紀当時のこのようなイギリスの世情に釘を刺すように、ディケンズはこの作品の舞台となるジャーンディス対ジャーンディス事件という不毛な裁判を生み出したのかもしれません。

 物語は、この裁判の帰結を目指すものではありません。解決する見込みのない遺産相続をめぐる裁判に巻き込まれて人生を狂わせた人たち、関わる気がないのに巻き込まれざるを得なかった人たち、そして、関わりがありながらもその魔力から逃れ生きた人たち。彼らの人生を描いた群像劇。それが物語の根幹です。

 当のジャーンディス氏こそが訴訟を起こした先祖の過ちを確信し、それから逃げるかのようにすでに裁判からは身を引き、若い身内を裁判から遠ざけてまっとうな人生を歩ませるため尽力しているような人でした。そのために彼はうら若い孤児のエイダとリチャードを後見人として引き取ります。そのエイダの話し相手としてジャーンディス氏が選んだのが、裁判とは関係がない孤児のエスタでした。この「エスタの物語」が物語のもうひとつの軸となっていて、エスタによる一人称で語られます。

 当時のイギリスの世相のすべてを表すかのように、登場人物は上流階級から廃墟に住む浮浪児まで多彩です。最上流階級に属するのが准男爵のデッドロック家で、60代後半のレスタ・デッドロック卿には、20歳は若いと思われる美しい奥方がいます。この奥方が何か秘密を抱えているようで、そのことがエスタを始め浮浪児のジョー(何も知らないかわいそうな少年)まで、多くの人々の運命を変えてしまうことになります。

 とにかく登場人物が多く、彼らがみな思いがけないところで物語と関わってくるため、その複雑な関係を把握するのがまずは大変です。こうした長編小説にありがちな巻頭の「登場人物紹介」がないため、久しぶりに登場した人が急に大活躍をして「この人は誰だったっけ?」となった時は、名前を検索して初めて登場したシーンに戻って思い出す、という作業が必要です。面倒なようですが、それだけ物語が重層的に仕組まれているということでもあり、その労力を厭わずしてこそ味わえる長編小説の重みが感じ取れます。

 エスタは愛の人です。自らの本当の出自を知らず、少女時代を養母によって厳しく育てられましたが、ジャーンディス氏の後見を得て生きることで、常に人に感謝をし、人を助け、人を愛することのできる女性となりました。不幸な人に出会えばすぐに手を差し伸べ、友人となることのできる素晴らしい人です。ジャーンディス氏自身も、自らの感情を抑えて人を愛し、人に尽くす人です。医師のウッドコート氏も同様でしょう。これらの人々の力で救われる人生があるからこそ、時に不幸で悲しい人生を目にしても、そこには必ず愛と救いがあったと思うことができます。

 その他、様々な場面で物語とからんでくる人々が基本的に善良なのは(ごく一部明らかに否定したくなる人もいますが)、ディケンズが描きたかったイギリス人がこういう人々なのだろうと思えます。

 不毛な裁判。金の誘惑に人生を狂わされた人々。抗えない貧富の差。でもひとりひとりの愛の気持ちが、救うことのできる人生がある。それを体感しているかのようなエスタという素晴らしい、でも本当は普通の1人の女性。

 一方で、もうひとつの扇の要となるデッドロック夫人の生き方には何か釈然としないものが残ります。彼女がデッドロック卿と結婚したことは、エスタを始めとして、彼女の身の回りにいる何人もの人生を大きく変えることになりましたが、夫婦のなれそめが描かれていないため、彼女の思いがよく理解できません。不幸な人生でしたが、それ以上に罪深い人生であったと言えます。

 とりあえず今はいったん、それをディケンズの上流階級への皮肉と捉えることにしました。デッドロック夫人を巡って右往左往する上流階級のくだらない評価。そしておそらくは、そんな風分もあっという間に忘れられ、また続いていくであろう古きデッドロック家。それを揶揄する作者の思いがあったのだと。もしかしたらこの考えはいつか変わるかもしれません。繰り返し読むとまた違うことに気づくのかもしれません。でも今は、これで自分の気持ちを落としておくことにします。

 作者が描こうとしたのは、そんな上流社会とは離れたところで懸命に生きる、善良で憐れな市井の人々の姿だったのでしょう。
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千世
千世 さん本が好き!1級(書評数:404 件)

国文科出身の介護支援専門員です。
文学を離れて働く今も、読書はライフワークです。

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