hackerさん
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映画『メリー・ポピンズ』(1965年)は、『冒険者たち』(1967年)『第三の男』(1949年)と並んで、私の映画好きを決定づけた作品の一つです。
1935年、イギリス生まれのジュリー・アンドリュースは、古い映画ファンにとっては『メリー・ポピンズ』(1964年)若しくは『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)で、生涯記憶に残る女優です。演技力がずば抜けていたとは思いませんが、歌唱力の点ではおそらく歴代ベストの一人であったことでしょう。Wikipedia で紹介されている彼女の有名な言葉が、それを証明しています。
「私は混ざり気のない、きれいで、とても細く、4オクターブの声を持っていて、犬が数マイル離れていても呼べたほどでした。 'I had a very pure, white, thin voice, a four-octave range – dogs would come for miles around.'」
元々はロンドンのウエスト・エンドの舞台ミュージカルで名をはせた女優で、当たり役は、映画化に際してオードリー・ヘプバーンが演じた『マイ・フェア・レディ』のイライザ役でした。映画『マイ・フェア・レディ』のヘプバーンの口パク(歌は吹き替え)にがっかりした私は、幼い時は「ロンドンのスラム街に住んでいた」というアンドリュースのイライザ役をぜひ観てみたいと思ったものでした。
『メリー・ポピンズ』は、彼女の最初の映画出演でしたが、ウォルト・ディズニーが彼女のもう一つの当たり役『キャメロット』の王妃役(これも映画化の際は、ヴァネッサ・レッドグレーヴが演じました)を舞台で観て、主役を彼女に決めたのですが、その時彼女は妊娠中で、彼女が主役を演じられるようになるまで待ったというのも、有名なエピソードです。彼女は、『メリー・ポピンズ』でアカデミー主演女優賞を取りましたが、ディズニー映画がこの賞を取ったのは彼女が最初で、その後も、他の女優は取っていないはずです。
さて、冒頭で「『メリー・ポピンズ』若しくは『サウンド・オブ・ミュージック』」と書きましたが、これには理由があって、ジュリー・アンドリュースのベストの映画を選ぶとなると、映画ファンの間では、この二作に分かれるからです。宮崎駿の「ナウシカ派」と「ラピュタ派」のようなものです。『サウンド・オブ・ミュージック』の方が多数派でしょうが、私は、断然『メリー・ポピンズ』派です。実際、この映画は、『冒険者たち』(1967年)『第三の男』(1949年)と並んで、私の映画好きを決定づけた作品の一つでもあります。映画でも小説でもそうですが、観るべき年齢の時に観た、あるいは読むべき年齢の時に読んだ、というのは非常に大きい要素なのですが、この三本は、私にとっては、まさにそういう作品でした。仮に、この三本を、この歳になって初めて観たとしたら、10代後半で初めて観た時のような感激は味わえなかっただろうと思います。『メリー・ポピンズ』の原作の存在はもちろん知っていましたが、映画のイメージが壊れるのが嫌で、今まで手に取ったことはありませんでした。さすがに、この歳になれば大丈夫だろうということと、かもめ通信さん主催の「#やりなおし世界文学 読書会」の対象本でもあったので、期待に胸を膨らまして、ハラハラドキドキの初読となりました。そして、結論から言うと、とってもとっても面白かったです。
まず、あちこちで述べていますが、映画と原作はそもそも表現方法が根本的に異なる別物なので、優劣を論じるのは意味がないというのが、私の基本スタンスです。ただ、違いがあるのは当然です。映画(邦題にちなんで「メリー」とします)は、ディズニーらしく家族の物語であるのに対し、原作(本書の邦題にちなんで「メアリー」とします)の方は、何やら得体のしれない怖い女性(何歳ぐらいの外見なのかもよく分かりません)メアリー・ポピンズとバンクス家の子供たちの話となっています。メアリーはバンクス家の長女ジェイン、長男マイケル、そして幼い双子の世話をするために、東風に乗ってやってくるのですが、「親切のために時間つぶしなんかしない」彼女が怒りんぼで、口調もきついのは、作中でもたびたび描写されています。
「一日じゅう、メアリー・ポピンズは、せかせかといそいでいました。そして、いそいでいるときは、いつもふきげんでした。
ジェインのすることは、なんでもわるくて、マイケルのはなおでした。ふたごまでも、がみがみしかられました。
ジェインとマイケルは、できるだけ、メアリー・ポピンズから遠ざかっていました。メアリー・ポピンズに見られたりきかれたりしないほうがいいことは、ちょいちょいあることなので、ふたちろも、よくこころえていましたから」
メアリーの周囲では、いろいろと不思議なことが起こりますが、子供たちに対しては、メアリーは「そんなことはありません」風に、しょっちょうしらばっくれます。これに対し、メリーは、実際にスクリーンに映し出されているのが「現実」なわけですから、しらばっくれたりせず、ジェインとマイケルそして時に、原作ではチョイ役ですが映画では重要な役割を果たす自由人バート(ディック・ヴァン・ダイク)と「現実」を共有します。なお、映画には幼い双子は登場しません。映画では、仕事一筋で古風で頑固な父親と、女性参政権運動に夢中な母親がいる、バンクス家にやって来たメリーが、皆に家族の絆を取り戻したところで自分の役割は終えたと判断して去るのですが、メアリーの方は、そもそもなんでバンクス家にやって来たのかも、なぜこのタイミングで去るのかも、はっきり語られていません。つまり、原作の方がずっと訳の分からない話なのです。メリーの方は映画の冒頭で雲の上の住人であることが示されますが、メアリーの方は作中で登場するキングコブラのいとこの娘ということになっていたり、かなり得体の知れない存在です。お話も、映画の方はディズニーなので、不気味な展開にならないのですが、小説の方は、満月の動物園で人間が檻に入り動物が人間を見学するエピソードなどは、相当不気味です。
というわけで、メリーとメアリーはかなり異なるキャラクタなのです。ジュリー・アンドリュースはメリーにぴったりですが、メアリーはティルダ・スウィントンあたりが似合いそうです。これは作品全体として志向するものが違うので、当然の帰結です。映画の方は、良くも悪くも説教調が残るのですが、原作の方にはほとんどないのも、それをよく現しています。繰り返しですが、それで優劣を語っても仕方がなく、文字の世界と映像の世界と、それぞれでとても優れた作品だと思います。ただ、自分の好みを言うと、ジュリー・アンドリュースの素晴らしい歌声と、シャーマン兄弟の数々の名曲、そしてパソコンのない時代に成しとげた驚異的な実写とアニメの合成シーン、メリー・ポピンズがやって来る時と去る時の自然な空中遊泳など、映画という手段でなければありえない数々のシーンが楽しめる『メリー・ポピンズ』の方が好きなのです。ことに、実写とアニメの合成シーンは、可能ならば(無理かな?)、是非大きなスクリーンで観てください。その細部へのこだわりは、大きなスクリーンでなければ、分かりませんから。
さて、最後ですが、ポピンズは東風に乗って来るのですが、東風とは何なのでしょう。ロンドンの東側というとイースト・エンドと呼ばれる下町で、そこの住民をイースト・エンダーと呼んだりするので、シティーの金融街で働くお父さんがいる中流階級のバンクス家と別世界の住人ということを意識したのかもしれません。あるいは、作者P.L.トラヴァース(1899-1996)はオーストラリア生まれで、25歳の時にイギリスに移住したことが反映されているのかもしれません。いずれにしろ、ロンドンの中流階級とは異世界の住人ということを意識した設定だと思われます。
というわけで、『メリー・ポピンズ』よ永遠なれ!、そしてもちろん、『メアリー・ポピンズ』も永遠なれ!
「私は混ざり気のない、きれいで、とても細く、4オクターブの声を持っていて、犬が数マイル離れていても呼べたほどでした。 'I had a very pure, white, thin voice, a four-octave range – dogs would come for miles around.'」
元々はロンドンのウエスト・エンドの舞台ミュージカルで名をはせた女優で、当たり役は、映画化に際してオードリー・ヘプバーンが演じた『マイ・フェア・レディ』のイライザ役でした。映画『マイ・フェア・レディ』のヘプバーンの口パク(歌は吹き替え)にがっかりした私は、幼い時は「ロンドンのスラム街に住んでいた」というアンドリュースのイライザ役をぜひ観てみたいと思ったものでした。
『メリー・ポピンズ』は、彼女の最初の映画出演でしたが、ウォルト・ディズニーが彼女のもう一つの当たり役『キャメロット』の王妃役(これも映画化の際は、ヴァネッサ・レッドグレーヴが演じました)を舞台で観て、主役を彼女に決めたのですが、その時彼女は妊娠中で、彼女が主役を演じられるようになるまで待ったというのも、有名なエピソードです。彼女は、『メリー・ポピンズ』でアカデミー主演女優賞を取りましたが、ディズニー映画がこの賞を取ったのは彼女が最初で、その後も、他の女優は取っていないはずです。
さて、冒頭で「『メリー・ポピンズ』若しくは『サウンド・オブ・ミュージック』」と書きましたが、これには理由があって、ジュリー・アンドリュースのベストの映画を選ぶとなると、映画ファンの間では、この二作に分かれるからです。宮崎駿の「ナウシカ派」と「ラピュタ派」のようなものです。『サウンド・オブ・ミュージック』の方が多数派でしょうが、私は、断然『メリー・ポピンズ』派です。実際、この映画は、『冒険者たち』(1967年)『第三の男』(1949年)と並んで、私の映画好きを決定づけた作品の一つでもあります。映画でも小説でもそうですが、観るべき年齢の時に観た、あるいは読むべき年齢の時に読んだ、というのは非常に大きい要素なのですが、この三本は、私にとっては、まさにそういう作品でした。仮に、この三本を、この歳になって初めて観たとしたら、10代後半で初めて観た時のような感激は味わえなかっただろうと思います。『メリー・ポピンズ』の原作の存在はもちろん知っていましたが、映画のイメージが壊れるのが嫌で、今まで手に取ったことはありませんでした。さすがに、この歳になれば大丈夫だろうということと、かもめ通信さん主催の「#やりなおし世界文学 読書会」の対象本でもあったので、期待に胸を膨らまして、ハラハラドキドキの初読となりました。そして、結論から言うと、とってもとっても面白かったです。
まず、あちこちで述べていますが、映画と原作はそもそも表現方法が根本的に異なる別物なので、優劣を論じるのは意味がないというのが、私の基本スタンスです。ただ、違いがあるのは当然です。映画(邦題にちなんで「メリー」とします)は、ディズニーらしく家族の物語であるのに対し、原作(本書の邦題にちなんで「メアリー」とします)の方は、何やら得体のしれない怖い女性(何歳ぐらいの外見なのかもよく分かりません)メアリー・ポピンズとバンクス家の子供たちの話となっています。メアリーはバンクス家の長女ジェイン、長男マイケル、そして幼い双子の世話をするために、東風に乗ってやってくるのですが、「親切のために時間つぶしなんかしない」彼女が怒りんぼで、口調もきついのは、作中でもたびたび描写されています。
「一日じゅう、メアリー・ポピンズは、せかせかといそいでいました。そして、いそいでいるときは、いつもふきげんでした。
ジェインのすることは、なんでもわるくて、マイケルのはなおでした。ふたごまでも、がみがみしかられました。
ジェインとマイケルは、できるだけ、メアリー・ポピンズから遠ざかっていました。メアリー・ポピンズに見られたりきかれたりしないほうがいいことは、ちょいちょいあることなので、ふたちろも、よくこころえていましたから」
メアリーの周囲では、いろいろと不思議なことが起こりますが、子供たちに対しては、メアリーは「そんなことはありません」風に、しょっちょうしらばっくれます。これに対し、メリーは、実際にスクリーンに映し出されているのが「現実」なわけですから、しらばっくれたりせず、ジェインとマイケルそして時に、原作ではチョイ役ですが映画では重要な役割を果たす自由人バート(ディック・ヴァン・ダイク)と「現実」を共有します。なお、映画には幼い双子は登場しません。映画では、仕事一筋で古風で頑固な父親と、女性参政権運動に夢中な母親がいる、バンクス家にやって来たメリーが、皆に家族の絆を取り戻したところで自分の役割は終えたと判断して去るのですが、メアリーの方は、そもそもなんでバンクス家にやって来たのかも、なぜこのタイミングで去るのかも、はっきり語られていません。つまり、原作の方がずっと訳の分からない話なのです。メリーの方は映画の冒頭で雲の上の住人であることが示されますが、メアリーの方は作中で登場するキングコブラのいとこの娘ということになっていたり、かなり得体の知れない存在です。お話も、映画の方はディズニーなので、不気味な展開にならないのですが、小説の方は、満月の動物園で人間が檻に入り動物が人間を見学するエピソードなどは、相当不気味です。
というわけで、メリーとメアリーはかなり異なるキャラクタなのです。ジュリー・アンドリュースはメリーにぴったりですが、メアリーはティルダ・スウィントンあたりが似合いそうです。これは作品全体として志向するものが違うので、当然の帰結です。映画の方は、良くも悪くも説教調が残るのですが、原作の方にはほとんどないのも、それをよく現しています。繰り返しですが、それで優劣を語っても仕方がなく、文字の世界と映像の世界と、それぞれでとても優れた作品だと思います。ただ、自分の好みを言うと、ジュリー・アンドリュースの素晴らしい歌声と、シャーマン兄弟の数々の名曲、そしてパソコンのない時代に成しとげた驚異的な実写とアニメの合成シーン、メリー・ポピンズがやって来る時と去る時の自然な空中遊泳など、映画という手段でなければありえない数々のシーンが楽しめる『メリー・ポピンズ』の方が好きなのです。ことに、実写とアニメの合成シーンは、可能ならば(無理かな?)、是非大きなスクリーンで観てください。その細部へのこだわりは、大きなスクリーンでなければ、分かりませんから。
さて、最後ですが、ポピンズは東風に乗って来るのですが、東風とは何なのでしょう。ロンドンの東側というとイースト・エンドと呼ばれる下町で、そこの住民をイースト・エンダーと呼んだりするので、シティーの金融街で働くお父さんがいる中流階級のバンクス家と別世界の住人ということを意識したのかもしれません。あるいは、作者P.L.トラヴァース(1899-1996)はオーストラリア生まれで、25歳の時にイギリスに移住したことが反映されているのかもしれません。いずれにしろ、ロンドンの中流階級とは異世界の住人ということを意識した設定だと思われます。
というわけで、『メリー・ポピンズ』よ永遠なれ!、そしてもちろん、『メアリー・ポピンズ』も永遠なれ!
- 映画『メリー・ポピンズ』で風に乗って最初にやってくる場面、CGではありません。
- PCがない時代の実写とアニメーションの実に見事で自然な合成
- 左から自由人バート、バンクス家長女ジェイン、長男マイケル、メリー・ポピンズ
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
この書評へのコメント
- ゆうちゃん2023-08-16 22:37
色々あってコメントするのがやっとになってしまいましたが、「映画と原作はそもそも表現方法が根本的に異なる別物なので、優劣を論じるのは意味がない」は同感です。
ところで、hackerさんの年齢と共にある映画歴は羨ましいです。年齢相応で見るべき映画はあると思います。残念ながら僕はティーンエージャーの悪しき慣習に流され、ミュージカル映画の系統は全く観ずに大人になってしまいました。英語の先生がミュージカルを授業で取り上げても反感を持つ同級生に付和雷同してしまった口です。
後に音楽をやるようになってミュージカルの良さを改めて認識しましたが、子供の頃に観た印象や記憶・思い出がないのがとても残念に思いました。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 - hacker2023-08-17 00:03
ゆうちゃんさん、コメントありがとうございます。
映画というのはサイレントを除けば、その大半には音楽がついて来るものですから、ミュージカルというジャンルに、映画好きは概して構えたりしないものですし、私の知人でも舞台ミュージカル大好きの映画好きがいます。『シェルブールの雨傘』のように、登場人物が台詞の言う替わりに歌っている映画もありますしね。
でも、言われるように、十代から二十代前半にかけて、映画三昧の日々を送ることができ、やみくもでしたけど、いろいろなジャンルに接することができた自分は幸運だったと思います。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 
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