紅い芥子粒さん
レビュアー:
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波乱万丈の筋立てがあるわけではないが、崩壊していく家族の模様が、静かに淡々とつづられていて、恐い小説である。
昭和25年12月から昭和26年三月まで、朝日新聞に連載された小説だという。
波乱万丈の筋立てがあるわけではなく、崩壊してゆく家族の模様が、静かに淡々とつづられる。
波子と竹原が、タクシーに乗っている場面から始まる。
当時のタクシーは、木炭車である。
炭の俵とまきの袋とを、うしろにつけて走る。
交差点では、煙を吐いて止まる。止まると、動き出すのがたいへんである。
波子も竹原も四十代。二人にはそれぞれ家庭があり、いわゆる不倫の関係。
二十年も前から、波子と竹原は恋人どうしなのである。
タクシーは途中で故障してしまう。
波子と竹原は、降りて歩き出す。
車の中で、皇居の堀端で、二人の会話だけで一つの章が成り立っている。
その会話で、波子が抱えている家族の危機のあらましが語られる。
合い間に、当時の世相がたくみにおりこまれている。
波子は、バレリーナだった。
イギリスやフランスで学ぶ夢を娘の品子に託したが、戦争で断たれた。
戦後は、バレー教室を開き、少女たちを教えている。
娘をイギリスやフランスへ……という夢は、まだあきらめてはいない。
娘の品子は、いま二十歳である。
波子の夫の矢木は、国文学史の研究者である。大学で教えているらしいが、非常勤のかけもちのようだ。著書も何冊かあるが、経済的には、ほぼ無力である。
家計は、波子の実家の財産と、バレー教室の収入でまかなわれている。
波子が女学生だったころ、家庭教師だった矢木。
波子と矢木との結婚は、矢木の母親の画策だったという。
矢木は自分の収入はぜんぶ秘密の通帳にため込んでいる。
家の名義も妻から自分へ、こっそり書き替えてしまった。
矢木は、波子と竹原のことを知っている。
二十年間、ずっと知っていて、心の底で氷のような嫉妬の炎を燃やしている。
波子には息子もある。
品子の弟の高雄は、学識ある父親を尊敬している。東大の一年生。
街で母親の波子にばったり会って、まるで恋人を紹介するように美少年の友人を紹介したりする。
昭和25年は、朝鮮半島で戦争が勃発した年。
矢木は、日本もまた戦争になるのではないかとおびえている。
日本が共産化してしまうかもしれないから、高雄をハワイの大学に”逃がそう”と考えている。
自分もアメリカのどこかの大学に職をえられないかと夢想している。
波子は、いま家族で住んでいる家を売ってしまって、そのお金でバレエのレッスン所を建てようかと考えている。
そのことを竹原に相談し、竹原もまた力になろうとする。
矢木は矢木の考えていることを、波子にいわない。
波子は波子の計画を、夫にはいわない。
同じ床で背を向け合って寝る夫婦。
竹原は、波子の経済活動を支援しながら、波子と矢木の夫婦関係が壊れていくのを冷静に観察している。
自分の家族のことは、けっして波子にいわない。
矢木は、「仏界、入りやすく、魔界、入り難し」という一休和尚の軸を、床の間にかけている。
波子が主人公だから、健気なヒロインを好人物の竹原が支えているようにみえるが、じつは波子も竹原も矢木も、みんなおそろしい魔物だ。
とりわけ恐ろしいのは竹原だ。
矢木は、ひとり魔界にいて、妻とその恋人に復讐の氷の刃を研いでいる孤独な魔物のようにもみえる……
波乱万丈の筋立てがあるわけではなく、崩壊してゆく家族の模様が、静かに淡々とつづられる。
波子と竹原が、タクシーに乗っている場面から始まる。
当時のタクシーは、木炭車である。
炭の俵とまきの袋とを、うしろにつけて走る。
交差点では、煙を吐いて止まる。止まると、動き出すのがたいへんである。
波子も竹原も四十代。二人にはそれぞれ家庭があり、いわゆる不倫の関係。
二十年も前から、波子と竹原は恋人どうしなのである。
タクシーは途中で故障してしまう。
波子と竹原は、降りて歩き出す。
車の中で、皇居の堀端で、二人の会話だけで一つの章が成り立っている。
その会話で、波子が抱えている家族の危機のあらましが語られる。
合い間に、当時の世相がたくみにおりこまれている。
波子は、バレリーナだった。
イギリスやフランスで学ぶ夢を娘の品子に託したが、戦争で断たれた。
戦後は、バレー教室を開き、少女たちを教えている。
娘をイギリスやフランスへ……という夢は、まだあきらめてはいない。
娘の品子は、いま二十歳である。
波子の夫の矢木は、国文学史の研究者である。大学で教えているらしいが、非常勤のかけもちのようだ。著書も何冊かあるが、経済的には、ほぼ無力である。
家計は、波子の実家の財産と、バレー教室の収入でまかなわれている。
波子が女学生だったころ、家庭教師だった矢木。
波子と矢木との結婚は、矢木の母親の画策だったという。
矢木は自分の収入はぜんぶ秘密の通帳にため込んでいる。
家の名義も妻から自分へ、こっそり書き替えてしまった。
矢木は、波子と竹原のことを知っている。
二十年間、ずっと知っていて、心の底で氷のような嫉妬の炎を燃やしている。
波子には息子もある。
品子の弟の高雄は、学識ある父親を尊敬している。東大の一年生。
街で母親の波子にばったり会って、まるで恋人を紹介するように美少年の友人を紹介したりする。
昭和25年は、朝鮮半島で戦争が勃発した年。
矢木は、日本もまた戦争になるのではないかとおびえている。
日本が共産化してしまうかもしれないから、高雄をハワイの大学に”逃がそう”と考えている。
自分もアメリカのどこかの大学に職をえられないかと夢想している。
波子は、いま家族で住んでいる家を売ってしまって、そのお金でバレエのレッスン所を建てようかと考えている。
そのことを竹原に相談し、竹原もまた力になろうとする。
矢木は矢木の考えていることを、波子にいわない。
波子は波子の計画を、夫にはいわない。
同じ床で背を向け合って寝る夫婦。
竹原は、波子の経済活動を支援しながら、波子と矢木の夫婦関係が壊れていくのを冷静に観察している。
自分の家族のことは、けっして波子にいわない。
矢木は、「仏界、入りやすく、魔界、入り難し」という一休和尚の軸を、床の間にかけている。
波子が主人公だから、健気なヒロインを好人物の竹原が支えているようにみえるが、じつは波子も竹原も矢木も、みんなおそろしい魔物だ。
とりわけ恐ろしいのは竹原だ。
矢木は、ひとり魔界にいて、妻とその恋人に復讐の氷の刃を研いでいる孤独な魔物のようにもみえる……
掲載日:
書評掲載URL : http://blog.livedoor.jp/aotuka202
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読書は、登山のようなものだと思っています。読み終わるまでが上り、考えて感想や書評を書き終えるまでが下り。頂上からどんな景色が見られるか、ワクワクしながら読書という登山を楽しんでいます。
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