ことなみさん
レビュアー:
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高山寺に行こうと思って、「夢記」を残した明恵上人についてもう少し知りたいと、白洲正子さんのエッセイを読んでみました。
栂尾や嵯峨あたりを歩くのが好きでも、高山寺は風景を見て通過するだけで開祖の明恵上人のことを深く考えてみたことがありませんでした。
神護寺のまわりを歩いていた折、神護寺が西行に縁があって、隣の高山寺の明恵上人とはもっと深い交わりがあったことを知りました。晩年の西行と若い明恵がお互い深く理解しあったことに意外な気もして、この本を読んでみたのです。歌と共に生きた西行と釈迦に近づきたい明恵の心はごく近かったのかもしれません。今まで何度も読み返す本になりました。
それでも文字にするのが難しく、怠けていてそのままになっていたところ、できれば人の少ない冬の間に周山街道を走って訪ねてみたいと思い読み返してみました。
明恵上人と言えば19歳から亡くなる1年前まで見た夢を記録し続けた「夢記」が残っています。
それも読んでみたいと思っています。生涯孤独な自然に学び夢に癒されその中から自分自身の心の反映と捉え、深く考えて一層厳しい修行に耐えて歩むことをやめませんでした。
一宗一派をたてることもなく、ただ釈迦に憧れ敬い、釈迦が説かれた教えに近づこうとだけ一心に念じて修行を重ねた、稀有な僧侶であり、その一生は素朴で潔い日常から生まれたのだそうです。夢はいつか現実と離れ難く結びついて、夢からも道を開いていったことが明恵上人の求道のあり方でした。そこから悟り得たことは慈悲深く、弟子に説き聞かせたところが広まって人々に慕われたようです。
早く両親を失い、寺に預けられる逆境から始まった人生は人として生まれてきたことよりも、自然の中の木や草や石のように生きたかった人ではないかと思えます。
能の演目「春日天神」は、三蔵法師の跡を辿って入唐渡天の準備をしてきた明恵上人を引き留めるために現れた春日天神がシテなのですが、能楽にたけた白洲さんの面目躍如、目に見えるような素晴らしい書き出しでした。
白洲さんは、明恵の一生を辿った後、ベルグソンの講演をひいています。孫引きですが
白洲さんはこの説を夢が出来上がっていく過程にたとえて記しています。
私はなんとなくですが理解できるような気がします。
まさに明恵上人が「遺教経」に出会った時がその時であったのではないか(白洲)ということもなんとなくですが。
その後の一生はその時始まった夢の世界を記して、望むところに一途に従い、人からは奇矯と言われても自然石の上で修業をし、裏山の松の枝の上で座禅を組み辛い修行を積んで、ついに回りの日常の暮らしや人の命まで正しく客観できる境地に至ったと思えます。
そうして栄西などにも遭い次第に理解者もでき、あとを慕って教えを求める人が集まり始めました。、望まなくても弟子のようにともにくらし世話をし始める人も増えてきます。体は弱かったのですがそれでも度々生まれた紀州に戻っては懐かしい山の上に庵を結び、京都に帰っても常に父母の面影のある紀州を偲ぶ日々でした。次第に多くの人が集まるようになり、悩みの多い人々にたずねられたことには優しく答えています。
常に釈迦に近づく修行一筋に多くを望まず「あるべきようわ」という言葉を残しました。
ひとのあるべき姿をそのままに生きている日常生活が周りの人も育てる潔さを知りました。
美しい稚児と言われ修行のとがになると片耳をそぎ、ただ仏法を求める人になった明恵ですが鎌倉幕府が興きる時代の過渡期に、西行に会い、北條泰時と親交を結びました。彼は明恵の教えが反映されて明快で正しい見識もったと書かれています。鎌倉武士の台頭と栄枯盛衰にも興味がありましたので明恵のちょっといい話(とてもいい話)として心に残りました。
有名な「樹上座禅象」から始まる一面奇矯にも見える生き方は慈悲に満ちたものであったと今でも高僧のひとりに数えられているそうです。
白洲さんの女性らしいこのエッセイは「能」の「春日天神」から始まっています、知らない演目でしたが、老齢の名人が演じている様子など、何度読み返しても博識に裏打ちされた柔らかい文章が心にしみます。いつか上演されるときはぜひ見てみたいと思っています。
雑念に紛れ実行が難しい「あるべきようわ」という言葉がのこります。
神護寺のまわりを歩いていた折、神護寺が西行に縁があって、隣の高山寺の明恵上人とはもっと深い交わりがあったことを知りました。晩年の西行と若い明恵がお互い深く理解しあったことに意外な気もして、この本を読んでみたのです。歌と共に生きた西行と釈迦に近づきたい明恵の心はごく近かったのかもしれません。今まで何度も読み返す本になりました。
それでも文字にするのが難しく、怠けていてそのままになっていたところ、できれば人の少ない冬の間に周山街道を走って訪ねてみたいと思い読み返してみました。
明恵上人と言えば19歳から亡くなる1年前まで見た夢を記録し続けた「夢記」が残っています。
それも読んでみたいと思っています。生涯孤独な自然に学び夢に癒されその中から自分自身の心の反映と捉え、深く考えて一層厳しい修行に耐えて歩むことをやめませんでした。
一宗一派をたてることもなく、ただ釈迦に憧れ敬い、釈迦が説かれた教えに近づこうとだけ一心に念じて修行を重ねた、稀有な僧侶であり、その一生は素朴で潔い日常から生まれたのだそうです。夢はいつか現実と離れ難く結びついて、夢からも道を開いていったことが明恵上人の求道のあり方でした。そこから悟り得たことは慈悲深く、弟子に説き聞かせたところが広まって人々に慕われたようです。
早く両親を失い、寺に預けられる逆境から始まった人生は人として生まれてきたことよりも、自然の中の木や草や石のように生きたかった人ではないかと思えます。
能の演目「春日天神」は、三蔵法師の跡を辿って入唐渡天の準備をしてきた明恵上人を引き留めるために現れた春日天神がシテなのですが、能楽にたけた白洲さんの面目躍如、目に見えるような素晴らしい書き出しでした。
白洲さんは、明恵の一生を辿った後、ベルグソンの講演をひいています。孫引きですが
自然は生きた体の下書きはするが、仕上げはしない。かたわら魂の方は、イデアの世界に住んでいる。それらの魂は、(体がないため)行動することが出来ず、時間と空間の外をさまよっている。が、ある体は、ある魂の望みに、よく答える格好をしており、自分に似ていることを認めた体は、完全な生命を与えてくれるものとして、魂に向かって立ち上がる。一方、魂の方は、自分の反映がみとめられたことを知って、体を見ると、鏡を見るような心地がして、引きこまれ、傾き、倒れる。魂の転落は「生命のはじまり」であるというのです。
白洲さんはこの説を夢が出来上がっていく過程にたとえて記しています。
私はなんとなくですが理解できるような気がします。
まさに明恵上人が「遺教経」に出会った時がその時であったのではないか(白洲)ということもなんとなくですが。
その後の一生はその時始まった夢の世界を記して、望むところに一途に従い、人からは奇矯と言われても自然石の上で修業をし、裏山の松の枝の上で座禅を組み辛い修行を積んで、ついに回りの日常の暮らしや人の命まで正しく客観できる境地に至ったと思えます。
そうして栄西などにも遭い次第に理解者もでき、あとを慕って教えを求める人が集まり始めました。、望まなくても弟子のようにともにくらし世話をし始める人も増えてきます。体は弱かったのですがそれでも度々生まれた紀州に戻っては懐かしい山の上に庵を結び、京都に帰っても常に父母の面影のある紀州を偲ぶ日々でした。次第に多くの人が集まるようになり、悩みの多い人々にたずねられたことには優しく答えています。
常に釈迦に近づく修行一筋に多くを望まず「あるべきようわ」という言葉を残しました。
ひとのあるべき姿をそのままに生きている日常生活が周りの人も育てる潔さを知りました。
美しい稚児と言われ修行のとがになると片耳をそぎ、ただ仏法を求める人になった明恵ですが鎌倉幕府が興きる時代の過渡期に、西行に会い、北條泰時と親交を結びました。彼は明恵の教えが反映されて明快で正しい見識もったと書かれています。鎌倉武士の台頭と栄枯盛衰にも興味がありましたので明恵のちょっといい話(とてもいい話)として心に残りました。
有名な「樹上座禅象」から始まる一面奇矯にも見える生き方は慈悲に満ちたものであったと今でも高僧のひとりに数えられているそうです。
白洲さんの女性らしいこのエッセイは「能」の「春日天神」から始まっています、知らない演目でしたが、老齢の名人が演じている様子など、何度読み返しても博識に裏打ちされた柔らかい文章が心にしみます。いつか上演されるときはぜひ見てみたいと思っています。
雑念に紛れ実行が難しい「あるべきようわ」という言葉がのこります。
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徹夜してでも読みたいという本に出会えるように、網を広げています。
たくさんのいい本に出合えますよう。
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- 出版社:講談社
- ページ数:218
- ISBN:9784061961661
- 発売日:1992年03月04日
- 価格:987円
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