hackerさん
レビュアー:
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もちろん面白い作品ではありますが、一方で、こういう内容の小説でも、神、それもキリスト教的神の概念から離れることは、キリスト教文化に浸った人間にはやはり難しいのだな、と思ってしまいます。
本書も、かもめ通信さん主催の「#やりなおし世界文学 読書会」で挙げられていた一冊です。私自身が熱心なSFファンでないということもありますが、実は、本書のみならず、アーサー・C・クラークも初読みでした。本書は1953年に出版されましたが、その後、時代設定を21世紀に変更した点を中心に、1990年に改訂版が出版され、この光文社古典新訳文庫は改訂版を訳したものです。
ストーリーについては、他の方々の書評に詳しいので、省略させてもらいますが、興味深かったのは、スタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』(1970年)との類似性でした。もちろん、この映画はクラークの原作があり、そちらも読んでいないで、類似と言ってはいけないのかもしれませんが、宇宙には全能の絶対者がいて、時折人類の重要な発展の手助けをする形で干渉してきたこと、そして人類が宇宙に進出する時代となった時代に、それまでの地球人の殻を捨てた新人類の誕生の手助けをする、という点は共通しています。
映画の方は、現在に至るまで、キューブリックの代表作として評価されていますが、実は、私はあまり好きではありません。ブラック・ユーモアの傑作『博士の異常な愛情』(1964年)の方がずっと好きです。もちろん、PCのない時代に、あの映像を作り上げたのは凄いと思いますし、この点はいくら称賛しても足らないぐらいです。ラストの宇宙空間に胎児が浮かんでいる強烈なイメージも忘れがたいものがありますが、木星へ向かう途中の宇宙船の大型コンピュータの反乱や、主人公がラスト近くで遭遇する光の波(これも、この時代によくぞ撮った場面ではありますが)などは、はっきり言うと、余計だと思います。
それ以上に、「全能の絶対者」という設定自体が気に入らないのです。そして、同じ不満を本書にも感じます。この概念は、どうしても「神」を連想してしまうからで、オーヴァーロードと呼ばれるエイリアンが、キリスト教の悪魔の姿をしているというのは、一応理屈付けはあるものの、地球規模の話なのに想像力が乏しいと思ってしまいます。世界中に様々な宗教があって、様々な悪を表わす姿があるのに、キリスト教の悪魔の姿というのは、あまりにも陳腐です。
それと、ラストも気に入っていません。映画『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』(1999年)で、ヒロイン(中山忍)が言う「生き物は、最後の瞬間まで、みっともなく生きようとしますよ」という台詞が私は好きなので、結末に対して人類はあまりにも無抵抗ではないか、と思ってしまうからでしょう。本書の影響を受けていると思われる、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』(1967年)に登場する阿修羅王や、山田正紀の『神狩り』(1975年)の主人公のように、絶対者と戦おうとする方に、共感を覚えるのです。言い換えると、「すべては御心のままに」というような、本書の展開は、どうも好きになれません。人間が「全能の絶対者」と思い込んでいる相手に従順なままでいると、ロクなことにならないというのは、歴史が証明しています。
などと、いろいろと批判しましたが、お話として面白いことは確かです。なかなか先の読めない展開が続く、ページターナーでもあります。SF史上における意義も、その後に与えた影響も認めます。ただ、その根底にあるものが、どうも引っかかる、ということなのです。
ストーリーについては、他の方々の書評に詳しいので、省略させてもらいますが、興味深かったのは、スタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』(1970年)との類似性でした。もちろん、この映画はクラークの原作があり、そちらも読んでいないで、類似と言ってはいけないのかもしれませんが、宇宙には全能の絶対者がいて、時折人類の重要な発展の手助けをする形で干渉してきたこと、そして人類が宇宙に進出する時代となった時代に、それまでの地球人の殻を捨てた新人類の誕生の手助けをする、という点は共通しています。
映画の方は、現在に至るまで、キューブリックの代表作として評価されていますが、実は、私はあまり好きではありません。ブラック・ユーモアの傑作『博士の異常な愛情』(1964年)の方がずっと好きです。もちろん、PCのない時代に、あの映像を作り上げたのは凄いと思いますし、この点はいくら称賛しても足らないぐらいです。ラストの宇宙空間に胎児が浮かんでいる強烈なイメージも忘れがたいものがありますが、木星へ向かう途中の宇宙船の大型コンピュータの反乱や、主人公がラスト近くで遭遇する光の波(これも、この時代によくぞ撮った場面ではありますが)などは、はっきり言うと、余計だと思います。
それ以上に、「全能の絶対者」という設定自体が気に入らないのです。そして、同じ不満を本書にも感じます。この概念は、どうしても「神」を連想してしまうからで、オーヴァーロードと呼ばれるエイリアンが、キリスト教の悪魔の姿をしているというのは、一応理屈付けはあるものの、地球規模の話なのに想像力が乏しいと思ってしまいます。世界中に様々な宗教があって、様々な悪を表わす姿があるのに、キリスト教の悪魔の姿というのは、あまりにも陳腐です。
それと、ラストも気に入っていません。映画『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』(1999年)で、ヒロイン(中山忍)が言う「生き物は、最後の瞬間まで、みっともなく生きようとしますよ」という台詞が私は好きなので、結末に対して人類はあまりにも無抵抗ではないか、と思ってしまうからでしょう。本書の影響を受けていると思われる、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』(1967年)に登場する阿修羅王や、山田正紀の『神狩り』(1975年)の主人公のように、絶対者と戦おうとする方に、共感を覚えるのです。言い換えると、「すべては御心のままに」というような、本書の展開は、どうも好きになれません。人間が「全能の絶対者」と思い込んでいる相手に従順なままでいると、ロクなことにならないというのは、歴史が証明しています。
などと、いろいろと批判しましたが、お話として面白いことは確かです。なかなか先の読めない展開が続く、ページターナーでもあります。SF史上における意義も、その後に与えた影響も認めます。ただ、その根底にあるものが、どうも引っかかる、ということなのです。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
この書評へのコメント
- hacker2024-08-24 11:27ネタバレになると思い、書かなかったのですが、ラストもキリスト教の最後の審判の日を連想してしまいました。だとすると、地球人の無抵抗ぶりも理解できるのです。「世界観としてはキリスト教的に狭められていますね」というご指摘は、その通りだと思います。 
 
 最近、北南米大陸先住民とパプアニューギニアの昔話集を読んだのですが、倫理観から世界観から、当たり前ですが、欧米とは全く違うのに感銘を受けたことも、今回の読書に影響しているのでしょう。いずれにしろ、地球世界は広いですし、宇宙ならもっと広いはずだと思います。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。
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- 出版社:光文社
- ページ数:452
- ISBN:9784334751449
- 発売日:2007年11月08日
- 価格:780円
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