ゆうちゃんさん
レビュアー:
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自閉症を患う著者が長年研究してきた動物の感覚・思考について書いた本。著者は動物の感覚と自閉症の感覚に近いものがあると言う。だがそれは自閉症や動物を一段低くみている訳ではない。
朝日新聞の書評で知った本。朝日新聞の書評で知る本は、たいていは新刊・近著なのだが本書は2006年出版となっている(原著は2005年出版)。
共著となっているが、主たる著者はテンプル・グランディンの方で彼女は自閉症の動物学者である。訳者あとがきを読むとオリヴァー・サックスの「火星の人類学者」に登場しているとあるので、自分の読書記録を見ると確かにそうだった。本書に登場する著者の経験はサックス博士に語る彼女の経験と重なっている部分もあれば、サックスの本にしか登場しない部分もあった。
第1章の「私の動物歴」で自分と動物の関係を語った後、第2章以降は、動物の感覚世界と情動・能力の話となる。世界の知覚方法、動物の気持ち、攻撃性、痛みと苦しみ、動物の思考過程、動物の天才・驚異的才能へと話が続く。
なぜ著者が動物の気持ちを代弁できるのか。彼女は第1章でこんな風に書いている。
彼女は、入学した全寮制の高校で馬の世話に夢中になり、辛い高校生活も動物のおかげで乗り切れたと言う。これだけではただの動物好きになった経験談に終わるのだが、ここからが違う。
これは彼女の確信であって科学的な事実ではないことは、本書を読めばわかる。一方で、本書は人間と動物の関係について、著者が知り得た、新たな観点からの事例、研究結果などが集大成されている。そこから、従来の見解である、動物は愚かだとか、心がないただの機械だとか、言葉を使わないと言った見方を覆すものがあぶりだされ、それは著者の論の間接的な証拠に見える。動物と人間の最も大きな違いは前頭葉の発達具合である。人間は前頭葉の発達で、ものごとを統合して捉え、一般化することが可能になった。だが、人間は前頭葉の発達で犠牲にしたものも多々ある。細かい点を見落とすなどがその一例であるし、言葉は視覚的な記憶の邪魔することもよく知られている。自閉症の人は統合して捉え一般化することがやはり苦手で、動物もその行動からそのように見えるし、脳波などの研究からそれを示唆する結果も得られている。著者は動物と普通の人の間に自閉症の人が位置づけられ、そこから動物の能力を推測できると主張している。こう考えると、自閉症でありながら、著者は自閉症の人を一段低く見ているように見えてしまうが、そんなことはない。
こういう弁明のような文章も登場はするのだが、著者はそもそも動物を一段低く見ている訳ではなく、動物と人間の中間に自閉症を位置づけたからと言って、低く見ていると思うのは、一般人の偏見だと言える。
なお、本書の中で第4章「動物の攻撃性」を論じた箇所だけは自閉症と言う言葉は登場しなかった。
これまで、動物の驚異の能力を色々な本で読んできたが、本書もそのひとつのラインナップになった。ペッパーバーグ博士に育てられた賢いオウムのアレックスは、種々の本にも登場しているが、本書にも登場した。だが本書の著者の観点は、アレックスに更に一歩近づいた感じである。
自閉症ではないが、動物の能力が人間に劣らず賢いと言うことを主張した動物学者フランシス・ドゥ・ヴァールも本書に登場する。
本書に「モーツァルトのムクドリ」は引用されていないが、モーツアルトとムクドリの関係は本書でも触れている。
人間が犬を飼いならしたように、人間も犬の社会構造を取り入れて生き残ったと言う文脈では次のような文章が登場した。
これは、シップマンの「ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた」の主張に重なる。
僕は実家で長年、犬を飼っていたためか、動物を一段下に見る見方は嫌いである。よって動物に関して読む本は、非常に客観的な本になるか、本書のように動物の立場を尊重した本になるかいずれかとなる。後者の立場で書かれた本の著者たちも動物が好きで対等な他者として接しようとしている点が共通する。
一点、気になったのは、動物も自閉症の人も言語的思考が苦手だと書いている一方で、動物も言葉を使っていると言う記述があるところだ。動物が言葉を操っているように見えると言う記述は、本書のあちこちに登場するのだが、特に第6章「動物はこんなふうに考える」の中の「動物は人間のようにおしゃべりをするのか」の節から「音楽言語」の節までは、本書で書かれた(言葉をあまり解さない)自閉症、動物特有の思考とどう両立するのか読んでいて疑問に思った。もしかしたら、言葉を喋ることと言語的思考が異なると言うことかもしれない。
共著となっているが、主たる著者はテンプル・グランディンの方で彼女は自閉症の動物学者である。訳者あとがきを読むとオリヴァー・サックスの「火星の人類学者」に登場しているとあるので、自分の読書記録を見ると確かにそうだった。本書に登場する著者の経験はサックス博士に語る彼女の経験と重なっている部分もあれば、サックスの本にしか登場しない部分もあった。
第1章の「私の動物歴」で自分と動物の関係を語った後、第2章以降は、動物の感覚世界と情動・能力の話となる。世界の知覚方法、動物の気持ち、攻撃性、痛みと苦しみ、動物の思考過程、動物の天才・驚異的才能へと話が続く。
なぜ著者が動物の気持ちを代弁できるのか。彼女は第1章でこんな風に書いている。
私が子供の頃は自分が動物と特別な結びつきがあるとは思っていなかった(9頁)。
彼女は、入学した全寮制の高校で馬の世話に夢中になり、辛い高校生活も動物のおかげで乗り切れたと言う。これだけではただの動物好きになった経験談に終わるのだが、ここからが違う。
本書は、私が動物と過ごした40年の歳月から生まれた。これまで私が読んだどんな動物の本とも違う。それは私が動物を研究しているほかのどの専門家とも違うからだ。自閉症を持つ人は動物が考えるように考えることが出来る(16頁)。
これは彼女の確信であって科学的な事実ではないことは、本書を読めばわかる。一方で、本書は人間と動物の関係について、著者が知り得た、新たな観点からの事例、研究結果などが集大成されている。そこから、従来の見解である、動物は愚かだとか、心がないただの機械だとか、言葉を使わないと言った見方を覆すものがあぶりだされ、それは著者の論の間接的な証拠に見える。動物と人間の最も大きな違いは前頭葉の発達具合である。人間は前頭葉の発達で、ものごとを統合して捉え、一般化することが可能になった。だが、人間は前頭葉の発達で犠牲にしたものも多々ある。細かい点を見落とすなどがその一例であるし、言葉は視覚的な記憶の邪魔することもよく知られている。自閉症の人は統合して捉え一般化することがやはり苦手で、動物もその行動からそのように見えるし、脳波などの研究からそれを示唆する結果も得られている。著者は動物と普通の人の間に自閉症の人が位置づけられ、そこから動物の能力を推測できると主張している。こう考えると、自閉症でありながら、著者は自閉症の人を一段低く見ているように見えてしまうが、そんなことはない。
これらの文章は自閉症の人が感受性が鈍いと言っている訳ではない(249頁)。
こういう弁明のような文章も登場はするのだが、著者はそもそも動物を一段低く見ている訳ではなく、動物と人間の中間に自閉症を位置づけたからと言って、低く見ていると思うのは、一般人の偏見だと言える。
動物は人間と同じくらい賢いか
この質問に私は答えられないし、他の誰も答えられない。私たちがわかっていることが常に変化しているだけではなく、動物の考え方を見極める方法も時には変化する(328頁)。
なお、本書の中で第4章「動物の攻撃性」を論じた箇所だけは自閉症と言う言葉は登場しなかった。
これまで、動物の驚異の能力を色々な本で読んできたが、本書もそのひとつのラインナップになった。ペッパーバーグ博士に育てられた賢いオウムのアレックスは、種々の本にも登場しているが、本書にも登場した。だが本書の著者の観点は、アレックスに更に一歩近づいた感じである。
自閉症ではないが、動物の能力が人間に劣らず賢いと言うことを主張した動物学者フランシス・ドゥ・ヴァールも本書に登場する。
これは観察学習と呼ばれる。動物や人間は、自分自身ではなく、他の動物や人間がするところを見て学ぶ。進化は動物でも人間でも強力な観察学習を選択した。驚くべき例がフランシス・ドゥ・ヴァールの著書「サルとすし職人」にある。日本ではすし職人の見習いは3年間、親方が握るところをひたすら見ている。いよいよ初めてすしを握るときには素晴らしい仕事をする(279頁)。
本書に「モーツァルトのムクドリ」は引用されていないが、モーツアルトとムクドリの関係は本書でも触れている。
モーツァルトが鳥のさえずりから影響を受けたのは確かだ。ムクドリの囀りによる修正を見事だと書き、ムクドリが死ぬと傍らで賛美歌を歌い、死を悼む自作の詩を書いた。作曲した「冗談の音楽」はムクドリの作風で書かれている(367頁)。
人間が犬を飼いならしたように、人間も犬の社会構造を取り入れて生き残ったと言う文脈では次のような文章が登場した。
オオカミが原始人にしたことを考えると、原始人が生き残りネアンデルタール人が滅んだ大きな原因は、おそらく犬だろう(400頁)。
これは、シップマンの「ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた」の主張に重なる。
僕は実家で長年、犬を飼っていたためか、動物を一段下に見る見方は嫌いである。よって動物に関して読む本は、非常に客観的な本になるか、本書のように動物の立場を尊重した本になるかいずれかとなる。後者の立場で書かれた本の著者たちも動物が好きで対等な他者として接しようとしている点が共通する。
一点、気になったのは、動物も自閉症の人も言語的思考が苦手だと書いている一方で、動物も言葉を使っていると言う記述があるところだ。動物が言葉を操っているように見えると言う記述は、本書のあちこちに登場するのだが、特に第6章「動物はこんなふうに考える」の中の「動物は人間のようにおしゃべりをするのか」の節から「音楽言語」の節までは、本書で書かれた(言葉をあまり解さない)自閉症、動物特有の思考とどう両立するのか読んでいて疑問に思った。もしかしたら、言葉を喋ることと言語的思考が異なると言うことかもしれない。
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神奈川県に住むサラリーマン(技術者)でしたが24年2月に会社を退職して今は無職です。
読書歴は大学の頃に遡ります。粗筋や感想をメモするようになりましたのはここ10年程ですので、若い頃に読んだ作品を再読した投稿が多いです。元々海外純文学と推理小説、そして海外の歴史小説が自分の好きな分野でした。しかし、最近は、文明論、科学ノンフィクション、音楽などにも興味が広がってきました。投稿するからには評価出来ない作品もきっちりと読もうと心掛けています。どうかよろしくお願い致します。
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- 出版社:日本放送出版協会
- ページ数:443
- ISBN:9784140811153
- 発売日:2006年05月01日
- 価格:3360円
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