そうきゅうどうさん
レビュアー:
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自死した中学生が残した、自分が受けた凄惨ないじめについて書かれた遺書。だが、1人のルポライターがそれに違和感を感じ、事件の取材を始める。彼が30年に及ぶ取材の果てに見たものとは?
ルポライター、小林篤によって書かれた本書『see you again』については、カバー袖にある紹介文に端的に述べられているので、その全文をここに引用させていただく。
なので、以上で本書のレビューは終わり、としてもいいのだが、上の紹介文には書かれていないことで、私が読みながらずっと引っかかりを感じていたことがあるので、それを私自身のレビューとして述べさせてもらう。
上の紹介文にもあるように、本書は実際の事件を題材にフィクションとして再構成したものである。こうした作品には、私が知っているものとしては例えば佐木隆三の『復讐するは我にあり』などがあるが、それらと本書が決定的に異なっているのは、本書はこうしたルポルタージュでは通常、あまり表立って述べられることのない取材の過程が全編を通じて詳細に描かれているところにある。そのため、本書はルポライターである小林目線の三人称表現で、プロローグはこんな風に始まる。
文中に登場する「小林篤」なる人物は
けれども、そもそも本書を執筆するに当たっては、取材過程など一切表に出さず、事件の詳細を物語として書く選択肢もあったはずだ(そうすれば本文中に「小林」が登場することもない)。なのになぜ小林はこうした書き方を選んだのか?
まず考えられるのが、それが小林のスタイルだから、というものだ。実際、小林はこんな風に書いている。
それとは別に考えられるのは、自らを
あるいは、何らかの形で事件に関わることになった関係者一人ひとりの証言を、取材過程を含めて克明に記すことで、この清人事件を本文中の「小林」を介して、「他人事」ではなく「自分事」として感じてほしい、と考えたのだろうか。本文に先立つ注意書きに小林は「似てる」ことは「同じ」であることとは違うと断った上で
だが、それ以上に小林は清人事件に取材という形で関わった自分の全てをさらけ出すことで、本書を読んだ人に自分を裁いてもらいたかったのではないだろうか。本書には自らを“罪人”と語る登場人物がいる(誤解されないように書いておくが、清人の死はあくまで自殺であり、「この“罪人”が実は真犯人だった」といったことはない)。この“罪人”に対して、小林は自らを「共犯者」と書く。
そんな風に本書を深読みすると、小林が清人事件を取材する切っ掛けとなった、自殺した清人が残した
なお、これから本書を読むかもしれない人の気づきを奪ってはならないと思うので、最小限に留めるが、本書でいじめ自殺事件の取材を通じて小林が述べているキーワードの1つに「透明化」がある。もしあなたが、いじめについて本書から何かヒントを得たいなら、「第2部 透明な存在」と「第3部 いじめの教室」の中の「20 透明化」を読んでみることをオススメする。
1994年11月27日、愛知県西尾市立東部中学校2年生の上之郷清人が、自宅の柿の木にロープをかけて命を絶った。100万円を超える恐喝、死の恐怖にさらされた暴行。遺書には凄惨ないじめが克明に綴られていた──。多分、講談社編集部の誰かが書いたであろうこの紹介文は、さすがはプロの手によるものだけに、短い中に本書の内容だけでなく、著者である小林篤という人の本質までが描き出されていて、レビューはもうこれだけでいいんじゃないか、と思うほどである。
日本中が涙した遺書に、ルポライター小林は強い違和感を覚え、新幹線に飛び乗る。それが30年に及ぶ謎解きの旅の始まりだった。隠蔽する学校。口を閉ざす教師たち。いじめにかかわった生徒は加害者と被害者が複雑に入り組み、数十人にのぼる。全面協力してくれた清人の家族も、心の奥底までは明かさない。小林の取材は暴走と挫折を繰り返し、とりあえずのゴールにたどりついたのは10年後のことだった。結論は、執筆断念。すべてを書くにはあまりにも関係者の不都合な事実に踏み込みすぎていた。
それでも遺族や関係者との親交、断続的な取材と思索の旅はつづく。ついに執筆を決断したとき、小林はノンフィクションを放棄し、すべてを架空の物語として書く道を選択する。新幹線に飛び乗った不惑のルポライターは、古希を迎えていた。
なので、以上で本書のレビューは終わり、としてもいいのだが、上の紹介文には書かれていないことで、私が読みながらずっと引っかかりを感じていたことがあるので、それを私自身のレビューとして述べさせてもらう。
上の紹介文にもあるように、本書は実際の事件を題材にフィクションとして再構成したものである。こうした作品には、私が知っているものとしては例えば佐木隆三の『復讐するは我にあり』などがあるが、それらと本書が決定的に異なっているのは、本書はこうしたルポルタージュでは通常、あまり表立って述べられることのない取材の過程が全編を通じて詳細に描かれているところにある。そのため、本書はルポライターである小林目線の三人称表現で、プロローグはこんな風に始まる。
あれは、どう言ったらいいんだろう。ルポライターの小林は40歳にもなって、自分がまさかウサギの穴に落ちるとは夢想だにしていなかった。(中略)本書は実際の事件を題材にしているが、フィクションとして書かれているので、確かに「私は…」という書き方はそぐわないかもしれない(「私は…」とすると、フィクションとして書いているはずが、実在する小林篤を通じて現実と地続きになってしまう感じがするからだ)。けれども、この「小林は…」という言い回しが、ずっと私の中で引っかかっていた。
「see you again」という言葉を残して旅立った中学2年生の男の子を追いかけて、小林は、彼と彼を取り巻く人々の日常生活の地下層で展開するパラレル・ワールドをさまようことになる。
文中に登場する「小林篤」なる人物は
身長175センチ、中年太りでぱっとしない風貌のおっさんで、ジャージ姿という取材に来ているとは思えない格好でレンタカーのスターレットをかっ飛ばす
三流ルポライターとして描かれる。これが小林篤の偽らざる自画像なのか謙遜なのかは分からないが、繰り返し現れるこうした記述は、仮に謙遜だったとしても過剰なほど自虐的だ。しかも、彼はそう思われることを見越しているかのように、プロローグに先立ち、
たとえ登場人物に「似てる」実在の人がいたとしても、けっして「同じ」ではない。書かれている出来事に「似てる」実在の事件があっても、それらは物語を紡ぐ編み糸として使っただけで、編み上がったものは筆書の想像の産物である。と注意書きを入れている。つまり本文に出てくる「小林」像に異論、反論があったとしても、これを盾に煙に巻くことができるわけだ。
けれども、そもそも本書を執筆するに当たっては、取材過程など一切表に出さず、事件の詳細を物語として書く選択肢もあったはずだ(そうすれば本文中に「小林」が登場することもない)。なのになぜ小林はこうした書き方を選んだのか?
まず考えられるのが、それが小林のスタイルだから、というものだ。実際、小林はこんな風に書いている。
小林の場合、記事を書くときは、取材した事実をほぼありのままに書いている。「ほぼ」というのは、字数の制限でカットせざるをえないことがあるからだ。(中略)それゆえ、本書でも取材過程を可能な限り明らかにすることで、本書が世に出たら来るであろうさまざまな批判、反論に応えられるようにした、ということである。
証言者の記憶違いもある。これは本人がそう思い込んでいるのでやむをえない面はあるが、自分の都合のよい記憶にすり替わっていることが少なくない。(中略)
加えて、意図的な偽証というのもよくある話だ。自分の都合のよいように事実を歪めて証言する場合だ。(中略)
だから、本来なら記者は、集めた証言をすべて吟味・検証し、間違いのない事実だと確信できることだけを記すべきなのだが、それはなかなかに困難な作業である。すべてのことは、神様でもなければわからないからだ。(p.91)
それとは別に考えられるのは、自らを
三流ルポライターなどと卑下しながらも、小林は自分がやってきた取材を多くの人に知ってもらいたかったのではないか、ということだ。今、SNSではマスコミをマスゴミなどと揶揄したり、「影の力に阻まれて(?)真実が報道されすに闇に葬られている」などという陰謀論まがいの言説が垂れ流されている。それに対して
人生の喜怒哀楽や、ときに誰にも話せない思いまでも語ってくれるのは、自分がよそ者、つまり部外者だからだろう。当事者ではない者が、人の話を聞いて文章に綴り、飯の種にするというのは、記者という仕事の本質じゃないかと思ったという小林は、自分が取材し記事を書くに当たっての迷い悩む姿を赤裸々に描くことで、報道に携わることの矜持と難しさを示したかったのかもしれない。
あるいは、何らかの形で事件に関わることになった関係者一人ひとりの証言を、取材過程を含めて克明に記すことで、この清人事件を本文中の「小林」を介して、「他人事」ではなく「自分事」として感じてほしい、と考えたのだろうか。本文に先立つ注意書きに小林は「似てる」ことは「同じ」であることとは違うと断った上で
読者には、その違いに目を凝らしながら読み進むことで、登場人物の誰かと「似てる」自分に出逢ってくれることを願っています。と書いている。そして「第3部 いじめの教室」では、清人を始めとする生徒たちを家庭環境を含めて保育園時代から書き起こし、清人が自殺した後まで、まるで動画を1コマずつコマ送りするようにして、そこに詳細な分析と考察を加えながら事件の過程を再現することで、読者を事件の渦中に立ち会わせるのだ。
だが、それ以上に小林は清人事件に取材という形で関わった自分の全てをさらけ出すことで、本書を読んだ人に自分を裁いてもらいたかったのではないだろうか。本書には自らを“罪人”と語る登場人物がいる(誤解されないように書いておくが、清人の死はあくまで自殺であり、「この“罪人”が実は真犯人だった」といったことはない)。この“罪人”に対して、小林は自らを「共犯者」と書く。
やっと腑に落ちた。彼は事件解明にことさら熱心なルポライターに、頸(くび)を差し出したのだろう。書きたいだけ書けばいい、そう腹をくくって“罪人”は「共犯者」に下駄を預けた。(p.849)この「共犯者」という言い方は“罪人”という呼び名を受けた単なる言葉の綾ではあるが、小林はその自虐的な語りを含めて、本書の全編を通じてまるで何かに懺悔しているかのような感じを受ける(そして、その理由と覚しきものはエピローグの中に出てくる)。清人事件に関わった人たちは(かの“罪人”氏も含めて)フィクションの中ではあるが、小林の筆によって断罪されることになった。けれどもその小林を裁く/裁いてくれる人は、その中にはいない。だから彼はせめて読者に自分を裁いてほしかった──というのはあまりにも穿(うが)った見方だろうか。
そんな風に本書を深読みすると、小林が清人事件を取材する切っ掛けとなった、自殺した清人が残した
どこかフィクショナルに思える本当の意図を隠した謎めいた遺書と、その事件に基づきながらもフィクションとしてまとめられたこのルポルタージュが、不思議な相同性でつながって見えてくる。これは単なる偶然だろうか。
なお、これから本書を読むかもしれない人の気づきを奪ってはならないと思うので、最小限に留めるが、本書でいじめ自殺事件の取材を通じて小林が述べているキーワードの1つに「透明化」がある。もしあなたが、いじめについて本書から何かヒントを得たいなら、「第2部 透明な存在」と「第3部 いじめの教室」の中の「20 透明化」を読んでみることをオススメする。
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「ブクレコ」からの漂流者。「ブクレコ」ではMasahiroTakazawaという名でレビューを書いていた。今後は新しい本を次々に読む、というより、過去に読んだ本の再読、精読にシフトしていきたいと思っている。
職業はキネシオロジー、クラニオ、鍼灸などを行う治療家で、そちらのHPは→https://sokyudo.sakura.ne.jp
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- 出版社:講談社
- ページ数:0
- ISBN:9784065377284
- 発売日:2025年06月04日
- 価格:4950円
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