ゆうちゃんさん
レビュアー:
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フランス革命の恐怖政治の後には総裁政府が成立し、政府機関である国立学士院が動物虐待に関する論文を募集した。現存する27本の論文を切り口に人間の倫理観、平等性の議論に踏み込んでゆく。
こちらも朝日新聞の書評で知った本である。
とても変わった題名だが、これは以下の事情による。1802年(フランス革命の恐怖政治後の総裁政府期)に政府が設立した国立学士院が「動物虐待は、どの程度一般の道徳的関心を惹くか。この問題に関して法を制定すべきか」というテーマで論文コンクールを開催し、そこに28本の論文が提出された(現存は27本)。この1802年はナポレオンが終身統領になり、帝政への道を切り開いた時期で、開明的なテーマで開催されたコンクールは、その後の抑圧的な体制の成立で最優秀賞なし、特別賞4本を発表して終わった。論文は歴史に埋もれたが1980年に発見された。著者セルナの先駆者として社会学者ヴァランタン・プロスがその論文から、当時、動物に配慮すべきというコンセンサスが形成されつつある事実を特定したが、著者は共和国では市民以下の存在を体現していた動物を通じて、共和国の未来に対する静かな抗議を読み取ったので、それをまとめた。こうして変わった題名の本が書かれた。本書は動物をテーマにしてはいるが、動物と人間の同等性を議論すれば、必然的に人間の中での平等性(貴族と平民、下層階級、奴隷や当時抑圧されていた女性など)が問題になる。本書はこのふたつの平等性についても深く掘り下げている。
第一部は、動物観の説明で、(現代では自明である)動物に感覚があるのかという議論、デカルトが遺した動物機械論の影響、動物虐待や肉食から暴力が常態化し、植民地での蛮行などに発展したという推論、狩猟の起源などの考察がされている。
第二部は、恐怖政治の影響を考察する。コンクールのあった時期、恐怖政治の影響は色濃く残り、第一部で述べられた、動物殺しと肉食から暴力の常態化が進み、幾つかの論文ではそれが極まったのが恐怖政治だとしている。ここでは、時には小動物や昆虫に残酷な面を見せる子供、屠殺という行為が伴う肉屋、そして革命家が遡上に乗せられる。この第二部でカトリックの動物観も採り上げられている。カトリックに否定的な革命後の論文募集であるにも関わらず、カトリックの観点から動物保護を論じる論文が多かったからだ。憐憫の情、動物虐待を回避するための教育は司祭が行うべきだという論などが取り上げられている。この章で最も注目すべきは20世紀後半から大きな問題となっている生態系に関することを書いた論文が三つもあったことだ。
第三部は、動物保護のための市民的な道徳について論じている。結局、コンクールの応募者の多くは動物保護を立法で対処するのは適切ではなく、教育や習俗の改善で対処すべきだと言っている。第二部に書かれていたことだが、過度な法依存はロベスピエールらがしたような恐怖政治を起こすという体験があった。また動物の権利をどう認めて行くのかという観点での議論もされている。人間と平等として自然権を認めるのか、保護の対象なのか?そして論考は、何の資格があって人間は動物を食べるのかという道徳的な考察や1802年当時の菜食主義の芽生え、サラヴィル(フランス革命で有名なミラボ伯の秘書だった人物)の人間と動物の平等よりはまず人間の中での平等を目指すべきだという論などの紹介をしている。ここでも今日的な問題について触れたNo.2のランベールの論文が紹介されている。
「おわりに」では以下の言葉が印象的だった。
そして末尾の言葉は以下の通りである。
次の革命はエコロジー革命になるだろう。
繰り返し書かれるのは、動物虐待に端を発して人間が暴力に手を染め、それが殺人、そして戦争に発展してゆく様である。これでは片手落ちなので、肉食をすることで栄養が保たれ世情が安定化する効果も述べている。またその時代に定められた法はその時代の社会をよく反映しているとも言っている。
そして、動物の扱いが文明を測るバロメーターだという。これに関しては自分の個人的な経験を書かせてもらいたい。実家にいた頃に犬を飼いっていたことが縁で動物実験の残酷さを周知するある団体の会員だったことがある。当時(1990年代後半)、日本での動物に関する法律は環境庁管轄の「動物の保護及び管理に関する法律」だけで、この団体を始め幾つかの動物愛護団体は、無機能な法律と非難していた。1999年頃にその団体の会長と話す機会があったのだが、前年にこの法律を漸く改正する機運が生じて来たと教わった。きっかけは神戸の児童殺害事件である。被害児童の首を斬って晒した事件で世間は騒然となったが、加害者はその事件の前に猫を何匹か殺していた。会長さん曰く、その事件がきっかけで自民党から「動物の保護及び管理に関する法律」を改正したいので意見を聞きたいという話があったそうだ。因みに、この法律はその後、数度の改正を経て、未だ不十分ながらも多少は機能するようになった。文明のバロメーターとまでは言えないが人心の荒廃を測るうえで動物への扱いがひとつの指標となった事例といえる。殺される動物にとってバロメーターとはとんでもないことではあるが、このような経験から動物が意味もなく殺されることは許されざることだし社会の反映と言う言葉にも個人的にも納得している。
なお、著者について「訳者あとがき」を参照するとフランス革命史の権威で、著者は総裁政府期を高く評価し、その後のナポレオン体制には否定的である。自分もフランス革命史は幾つか読んでいるが、恐怖政治の次はナポレオン体制でその間の総裁政府期、統領政府期はフーシェの評伝でちょっと読んだくらい、普通は軽視される期間だろう。著者の次の主要テーマがここ20年近く取り組んでいるフランス革命期の動物を巡る政治史、そして彼が大きな関心を寄せるのがグローバルな観点でフランス革命を見直す作業である。フランス革命期の論文をテーマにしているが、著者の関心から切り口が変わった本であることは確かである。訳者あとがきから読んで著者の背景を知ったうえで本論に入る方がすっきりすると思う。わかりにくい日本語の箇所もあるが、著者の作品は原文でも難渋を極めるとのこと。読んでいてくどいと思うことも多々あったが、訳も相当に苦労されたことだろう。
とても変わった題名だが、これは以下の事情による。1802年(フランス革命の恐怖政治後の総裁政府期)に政府が設立した国立学士院が「動物虐待は、どの程度一般の道徳的関心を惹くか。この問題に関して法を制定すべきか」というテーマで論文コンクールを開催し、そこに28本の論文が提出された(現存は27本)。この1802年はナポレオンが終身統領になり、帝政への道を切り開いた時期で、開明的なテーマで開催されたコンクールは、その後の抑圧的な体制の成立で最優秀賞なし、特別賞4本を発表して終わった。論文は歴史に埋もれたが1980年に発見された。著者セルナの先駆者として社会学者ヴァランタン・プロスがその論文から、当時、動物に配慮すべきというコンセンサスが形成されつつある事実を特定したが、著者は共和国では市民以下の存在を体現していた動物を通じて、共和国の未来に対する静かな抗議を読み取ったので、それをまとめた。こうして変わった題名の本が書かれた。本書は動物をテーマにしてはいるが、動物と人間の同等性を議論すれば、必然的に人間の中での平等性(貴族と平民、下層階級、奴隷や当時抑圧されていた女性など)が問題になる。本書はこのふたつの平等性についても深く掘り下げている。
第一部は、動物観の説明で、(現代では自明である)動物に感覚があるのかという議論、デカルトが遺した動物機械論の影響、動物虐待や肉食から暴力が常態化し、植民地での蛮行などに発展したという推論、狩猟の起源などの考察がされている。
第二部は、恐怖政治の影響を考察する。コンクールのあった時期、恐怖政治の影響は色濃く残り、第一部で述べられた、動物殺しと肉食から暴力の常態化が進み、幾つかの論文ではそれが極まったのが恐怖政治だとしている。ここでは、時には小動物や昆虫に残酷な面を見せる子供、屠殺という行為が伴う肉屋、そして革命家が遡上に乗せられる。この第二部でカトリックの動物観も採り上げられている。カトリックに否定的な革命後の論文募集であるにも関わらず、カトリックの観点から動物保護を論じる論文が多かったからだ。憐憫の情、動物虐待を回避するための教育は司祭が行うべきだという論などが取り上げられている。この章で最も注目すべきは20世紀後半から大きな問題となっている生態系に関することを書いた論文が三つもあったことだ。
No.12、23、25の論文は動物に対する暴力が自然界全体に広がることで、林、森、河川、海が見境なく破壊され、最初にフランスが、次に植民地世界が、そして地球全体が貧しくなるとして、はっきりリスクと結びつけている(136頁)。
人間の意に任せては自然遺産を破壊に導くものだと見なし、激しく糾弾している。彼(No.20の論文の著者)の考察はアメリカ大陸の征服が世界で略奪を繰り広げるヨーロッパ近代の実験場としての役割を果たしたのではないか、と問う(137頁)。
第三部は、動物保護のための市民的な道徳について論じている。結局、コンクールの応募者の多くは動物保護を立法で対処するのは適切ではなく、教育や習俗の改善で対処すべきだと言っている。第二部に書かれていたことだが、過度な法依存はロベスピエールらがしたような恐怖政治を起こすという体験があった。また動物の権利をどう認めて行くのかという観点での議論もされている。人間と平等として自然権を認めるのか、保護の対象なのか?そして論考は、何の資格があって人間は動物を食べるのかという道徳的な考察や1802年当時の菜食主義の芽生え、サラヴィル(フランス革命で有名なミラボ伯の秘書だった人物)の人間と動物の平等よりはまず人間の中での平等を目指すべきだという論などの紹介をしている。ここでも今日的な問題について触れたNo.2のランベールの論文が紹介されている。
19世紀初頭には既に生態系の不均衡が生じ、自然の観察者、農業従事者、賢明な森林管理人たちはこの点を認め、狩人たちの娯楽のために鳥が撃ち落とされるような無分別な破壊行為に憤慨した(166頁)。
「おわりに」では以下の言葉が印象的だった。
動物保護の戦いと人間の尊厳を求める戦いという二つの戦いは、表裏一体なのだ。両者を切り離すことはできない(216頁)。
そして末尾の言葉は以下の通りである。
次の革命はエコロジー革命になるだろう。
繰り返し書かれるのは、動物虐待に端を発して人間が暴力に手を染め、それが殺人、そして戦争に発展してゆく様である。これでは片手落ちなので、肉食をすることで栄養が保たれ世情が安定化する効果も述べている。またその時代に定められた法はその時代の社会をよく反映しているとも言っている。
そして、動物の扱いが文明を測るバロメーターだという。これに関しては自分の個人的な経験を書かせてもらいたい。実家にいた頃に犬を飼いっていたことが縁で動物実験の残酷さを周知するある団体の会員だったことがある。当時(1990年代後半)、日本での動物に関する法律は環境庁管轄の「動物の保護及び管理に関する法律」だけで、この団体を始め幾つかの動物愛護団体は、無機能な法律と非難していた。1999年頃にその団体の会長と話す機会があったのだが、前年にこの法律を漸く改正する機運が生じて来たと教わった。きっかけは神戸の児童殺害事件である。被害児童の首を斬って晒した事件で世間は騒然となったが、加害者はその事件の前に猫を何匹か殺していた。会長さん曰く、その事件がきっかけで自民党から「動物の保護及び管理に関する法律」を改正したいので意見を聞きたいという話があったそうだ。因みに、この法律はその後、数度の改正を経て、未だ不十分ながらも多少は機能するようになった。文明のバロメーターとまでは言えないが人心の荒廃を測るうえで動物への扱いがひとつの指標となった事例といえる。殺される動物にとってバロメーターとはとんでもないことではあるが、このような経験から動物が意味もなく殺されることは許されざることだし社会の反映と言う言葉にも個人的にも納得している。
なお、著者について「訳者あとがき」を参照するとフランス革命史の権威で、著者は総裁政府期を高く評価し、その後のナポレオン体制には否定的である。自分もフランス革命史は幾つか読んでいるが、恐怖政治の次はナポレオン体制でその間の総裁政府期、統領政府期はフーシェの評伝でちょっと読んだくらい、普通は軽視される期間だろう。著者の次の主要テーマがここ20年近く取り組んでいるフランス革命期の動物を巡る政治史、そして彼が大きな関心を寄せるのがグローバルな観点でフランス革命を見直す作業である。フランス革命期の論文をテーマにしているが、著者の関心から切り口が変わった本であることは確かである。訳者あとがきから読んで著者の背景を知ったうえで本論に入る方がすっきりすると思う。わかりにくい日本語の箇所もあるが、著者の作品は原文でも難渋を極めるとのこと。読んでいてくどいと思うことも多々あったが、訳も相当に苦労されたことだろう。
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神奈川県に住むサラリーマン(技術者)でしたが24年2月に会社を退職して今は無職です。
読書歴は大学の頃に遡ります。粗筋や感想をメモするようになりましたのはここ10年程ですので、若い頃に読んだ作品を再読した投稿が多いです。元々海外純文学と推理小説、そして海外の歴史小説が自分の好きな分野でした。しかし、最近は、文明論、科学ノンフィクション、音楽などにも興味が広がってきました。投稿するからには評価出来ない作品もきっちりと読もうと心掛けています。どうかよろしくお願い致します。
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- 出版社:法政大学出版局
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- ISBN:9784588011832
- 発売日:2025年05月29日
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