ぽんきちさん
レビュアー:
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蜘蛛好きの日本中世史研究家が紐解く、蜘蛛のイメージあれこれ
「蜘蛛」といわれたら何を思うだろうか。
現代において、苦手とする人の方が多そうである。家の中で蜘蛛の巣を見かけたら払う人が大半だろう。
一方で、蜘蛛はゴキブリやハエなどの害虫を食べる益虫だから、殺してはいけないというのもよく聞く話である。
また、「朝の蜘蛛は親の仇に似ていても殺すな、夜の蜘蛛は親に似ていても殺せ」というような俗信もある(逆の場合もあるらしい)。
実は、日本では古代から中世にかけて、蜘蛛が巣を作ることは恋しい人が訪れる前触れとされていた。
嫌われたり、尊重されたり、密かな予兆とされたり、何だかいろいろである。
そんな蜘蛛を巡るイメージの変遷を追ってみようというのが本書である。
著者は、中世日本史の研究者なのだが、一方で子供のころから虫好きで、特に蜘蛛が好きだという。プロ・アマ問わず蜘蛛の愛好家で作る団体にも所属しているというから筋金入りである。
日本だけでなく、世界にも視野を広げながら、蜘蛛が人々にどのように捉えられてきたのかを探る。
蜘蛛は世界各地の神話に現れている。創造者であり、知恵と賢さを持つものとされることもある。糸を操る生態が神聖視されたと考えられる。多くは女神であり、これは糸を紡いで織る作業が、多くの場合、女性の労働であったことと関係している可能性がある。
中世では、先にも触れたように、蜘蛛の巣が恋しい人が来る予兆ともされていた。衣通姫の
衣通姫に限らず、蜘蛛が出てくる恋の和歌も結構あるそうである。また、蜘蛛は糸を織ることから七夕にもよく詠まれたそうで、平安時代には今のように蜘蛛が忌み嫌われていなかったのではないか、とのこと。若干、贔屓目があるようには思うが、現代とは違う感覚であったようではある。
若干、脱線気味だが、「蜻蛉日記」の「かげろふ」とは何か、という話題も興味深いところ。
古来、この「かげろふ」については議論があり、少なくとも現在一般的に使われる漢字の「蜻蛉」が表すトンボではないと見るのが現時点では有力のようである。カゲロウやウスバカゲロウのような虫か、あるいは陽炎(地面が陽光に熱せられたときに歪んで見える自然現象)を指すとする。
実は「かげろふ」というのは平安期、大気と光の戯れのような、何かゆらゆらと揺れるものを広く指していたようだ。一部の蜘蛛は糸を風に流し、気流に乗って空を飛ぶことが知られている。これを「遊糸(ゆうし)」「糸遊(いとゆふ)」と呼ぶ。これも古くは「かげろふ」に含まれていた可能性があるという。
著者は「かげろふ日記」の「かげろふ」はトンボではない昆虫のカゲロウとみているが、ともかく「かげろふ」と出てきたときには注意が必要、というところである。
その後の変遷としては、13世紀になると蜘蛛の糸を「厭う(いとう)」にかける歌が現れてくる。通い婚が廃れ、嫁入りが一般的になる時代だというが、それが関係あったものかどうか。
14世紀には妖怪化した蜘蛛が現れる。『土蜘蛛草紙』、『土蜘蛛』などである。中央政権に反する、異形のものとして描かれる。著者はその姿に、畏怖の念も交じっているのではないかとする。
著者が見る通りとすれば、平安時代にどちらかというと愛すべき生物と見られていた蜘蛛が、ここにきて突然妖怪と化すわけである。その変遷の理由についてはあまり納得できる説明はない。そうなると、平安時代、身近に感じる人がいる一方で、気味悪く思っていた人もいるのではないかという気もしてくるのだが、さて真相やいかに。
その他、各地で見られる蜘蛛合戦(cf:闘蟋みたいなもの?)や蜘蛛の昔話、蜘蛛にまつわる俗信といった話題もおもしろい。
研究者ならではのディープな視線と蜘蛛愛が絡みあって、ちょっと変わった読み心地の1冊となっている。
現代において、苦手とする人の方が多そうである。家の中で蜘蛛の巣を見かけたら払う人が大半だろう。
一方で、蜘蛛はゴキブリやハエなどの害虫を食べる益虫だから、殺してはいけないというのもよく聞く話である。
また、「朝の蜘蛛は親の仇に似ていても殺すな、夜の蜘蛛は親に似ていても殺せ」というような俗信もある(逆の場合もあるらしい)。
実は、日本では古代から中世にかけて、蜘蛛が巣を作ることは恋しい人が訪れる前触れとされていた。
嫌われたり、尊重されたり、密かな予兆とされたり、何だかいろいろである。
そんな蜘蛛を巡るイメージの変遷を追ってみようというのが本書である。
著者は、中世日本史の研究者なのだが、一方で子供のころから虫好きで、特に蜘蛛が好きだという。プロ・アマ問わず蜘蛛の愛好家で作る団体にも所属しているというから筋金入りである。
日本だけでなく、世界にも視野を広げながら、蜘蛛が人々にどのように捉えられてきたのかを探る。
蜘蛛は世界各地の神話に現れている。創造者であり、知恵と賢さを持つものとされることもある。糸を操る生態が神聖視されたと考えられる。多くは女神であり、これは糸を紡いで織る作業が、多くの場合、女性の労働であったことと関係している可能性がある。
中世では、先にも触れたように、蜘蛛の巣が恋しい人が来る予兆ともされていた。衣通姫の
我が夫子(せこ)が来べき夕(よい)なり ささがねのくもの行ひ 是夕(こよひ)著(しる)しもは『古今和歌集』にも採られている。通い婚という形ならではのエピソードであるが、生き物の営みの中でも特に蜘蛛の営巣が恋人の来訪と結びつけられたのはなかなか興味深いところである。「運命の赤い糸」などともいうが、「糸」に不思議な力を感じたのだろうか。
衣通姫に限らず、蜘蛛が出てくる恋の和歌も結構あるそうである。また、蜘蛛は糸を織ることから七夕にもよく詠まれたそうで、平安時代には今のように蜘蛛が忌み嫌われていなかったのではないか、とのこと。若干、贔屓目があるようには思うが、現代とは違う感覚であったようではある。
若干、脱線気味だが、「蜻蛉日記」の「かげろふ」とは何か、という話題も興味深いところ。
古来、この「かげろふ」については議論があり、少なくとも現在一般的に使われる漢字の「蜻蛉」が表すトンボではないと見るのが現時点では有力のようである。カゲロウやウスバカゲロウのような虫か、あるいは陽炎(地面が陽光に熱せられたときに歪んで見える自然現象)を指すとする。
実は「かげろふ」というのは平安期、大気と光の戯れのような、何かゆらゆらと揺れるものを広く指していたようだ。一部の蜘蛛は糸を風に流し、気流に乗って空を飛ぶことが知られている。これを「遊糸(ゆうし)」「糸遊(いとゆふ)」と呼ぶ。これも古くは「かげろふ」に含まれていた可能性があるという。
著者は「かげろふ日記」の「かげろふ」はトンボではない昆虫のカゲロウとみているが、ともかく「かげろふ」と出てきたときには注意が必要、というところである。
その後の変遷としては、13世紀になると蜘蛛の糸を「厭う(いとう)」にかける歌が現れてくる。通い婚が廃れ、嫁入りが一般的になる時代だというが、それが関係あったものかどうか。
14世紀には妖怪化した蜘蛛が現れる。『土蜘蛛草紙』、『土蜘蛛』などである。中央政権に反する、異形のものとして描かれる。著者はその姿に、畏怖の念も交じっているのではないかとする。
著者が見る通りとすれば、平安時代にどちらかというと愛すべき生物と見られていた蜘蛛が、ここにきて突然妖怪と化すわけである。その変遷の理由についてはあまり納得できる説明はない。そうなると、平安時代、身近に感じる人がいる一方で、気味悪く思っていた人もいるのではないかという気もしてくるのだが、さて真相やいかに。
その他、各地で見られる蜘蛛合戦(cf:闘蟋みたいなもの?)や蜘蛛の昔話、蜘蛛にまつわる俗信といった話題もおもしろい。
研究者ならではのディープな視線と蜘蛛愛が絡みあって、ちょっと変わった読み心地の1冊となっている。
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分子生物学・生化学周辺の実務翻訳をしています。
本の大海を漂流中。
日々是好日。どんな本との出会いも素敵だ。
あちらこちらとつまみ食いの読書ですが、点が線に、線が面になっていくといいなと思っています。
「実感」を求めて読書しているように思います。
赤柴♀(もも)は3代目。
この夏、有精卵からヒヨコ4羽を孵化させました。現在、中雛、多分♂x2、♀x2。ニワトリは割と人に懐くものらしいですが、今のところ、懐く気配はありませんw
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- 出版社:講談社
- ページ数:0
- ISBN:9784065395509
- 発売日:2025年06月12日
- 価格:2970円
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