三太郎さん
レビュアー:
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ドイツ文学者の池内さんによるカフカ。
2019年に亡くなったドイツ語文学者・翻訳家の池内さんのカフカに関する小さな本を読んだ。150ページほどの本なのですぐに読める。
最近、保坂和志さんの本を読んでカフカに興味を持ったのですが、まずはどんな人だったのか知りたかった。
カフカは1883年に当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国に属していたチェコのプラハのユダヤ人ゲットーで生まれたとか。父の商売が成功しするに従い家族でプラハの内を何度も引っ越したらしい。
当時のチェコはドイツ人の植民地のような状態でプラハの住民の1/3がチェコ人で、1/10がユダヤ人、残りはドイツ人だったとか。カフカも子供の頃は学校でドイツ語で学び、公務員になった(ユダヤ人がドイツ人に混ざって暮らしていたということかな)。
カフカにはいつも恋人がいて何度か婚約もしたが、結局は一度も結婚しなかった。最後の女性とは結婚するつもりだったようだが、結核が悪化して40歳で亡くなった。ナチスドイツが降伏する少し前だった。
彼の恋人たちは(人妻もいたのだが)彼からもらった手紙を大事にとっておき、手紙だけを海外へ逃がして自身はナチスに殺された女性もいた。それらが戦後になって発見されカフカ全集に収められた。
カフカは手紙魔で一日に5〜6通もの手紙を書いた。手紙を書いた順序が読み手に解るように、手紙には番号が振ってあったとか。
カフカは公務員の給与で生活していた。生活は規則的で寝る時間を削って深夜に小説を書いていたが、幾つかの小説を公表しただけで大部分は出版されず草稿として残っていた。戦後、友人がそれを出版した。
カフカは散歩が好きでプラハの街の細い路地や住宅の中庭を縫うようにして歩き回った。また立ち止まって特定の建物をいろんな方向から観察した。それらが小説の元になったらしい。
カフカの小説に対して読む前から期待が高まってきます。
最近、保坂和志さんの本を読んでカフカに興味を持ったのですが、まずはどんな人だったのか知りたかった。
カフカは1883年に当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国に属していたチェコのプラハのユダヤ人ゲットーで生まれたとか。父の商売が成功しするに従い家族でプラハの内を何度も引っ越したらしい。
当時のチェコはドイツ人の植民地のような状態でプラハの住民の1/3がチェコ人で、1/10がユダヤ人、残りはドイツ人だったとか。カフカも子供の頃は学校でドイツ語で学び、公務員になった(ユダヤ人がドイツ人に混ざって暮らしていたということかな)。
カフカにはいつも恋人がいて何度か婚約もしたが、結局は一度も結婚しなかった。最後の女性とは結婚するつもりだったようだが、結核が悪化して40歳で亡くなった。ナチスドイツが降伏する少し前だった。
彼の恋人たちは(人妻もいたのだが)彼からもらった手紙を大事にとっておき、手紙だけを海外へ逃がして自身はナチスに殺された女性もいた。それらが戦後になって発見されカフカ全集に収められた。
カフカは手紙魔で一日に5〜6通もの手紙を書いた。手紙を書いた順序が読み手に解るように、手紙には番号が振ってあったとか。
カフカは公務員の給与で生活していた。生活は規則的で寝る時間を削って深夜に小説を書いていたが、幾つかの小説を公表しただけで大部分は出版されず草稿として残っていた。戦後、友人がそれを出版した。
カフカは散歩が好きでプラハの街の細い路地や住宅の中庭を縫うようにして歩き回った。また立ち止まって特定の建物をいろんな方向から観察した。それらが小説の元になったらしい。
カフカの小説に対して読む前から期待が高まってきます。
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1957年、仙台に生まれ、結婚後10年間世田谷に住み、その後20余年横浜に住み、現在は仙台在住。本を読んで、思ったことあれこれを書いていきます。
長年、化学メーカーの研究者でした。2019年から滋賀県で大学の教員になりましたが、2023年3月に退職し、10月からは故郷の仙台に戻りました。プロフィールの写真は還暦前に米国ピッツバーグの岡の上で撮ったものです。
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- 出版社:みすず書房
- ページ数:0
- ISBN:9784622045106
- 発売日:2000年01月01日
- 価格:543円
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