hackerさん
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「同志たちよ、私は頭の中に一羽の青い鳥をもっているということを知るべきである」 収録作『青い鳥』の、パリの芸術家志望の若者たちの間でも有名だった詩人の言葉です。でも、彼の青い鳥はどうなったのでしょうか。
2021年に国内編纂で出版された本書「訳者あとがき」の冒頭で、渡邉尚人はこう述べています。
「今から40年以上も前のことです。淡水サメで有名なニカラグアの湖を訪ねた時でした。色とりどりの遊覧ボートのある船着き場に着きますと向うから小さな女の子が微笑みながら寄って来ました。おそらく8歳か9歳くらいで、陽に焼けた金色の髪と褐色の肌、大きな黒い瞳にぼろを着て、その上、裸足でした。私は、当時、信号機の前に群がる子供たちが停車した車の運転手たちにしていたのと同様に小銭をせびられるのだろうと思って、少し身構えたのですが、違いました。驚いたことに彼女は、何かをしゃべり始めたのです。何かリズムのあるしゃべり。そう、それは、詩でした。響きのある甘く、妙に切ない詩の朗読だったのです。
“マルガリータ、海は美しく、
風はレモンのかすかな香りを運ぶよ。
私は心の中で雲雀が鳴くのを感じる。
お前の心のアクセントさ。
マルガリータ、お前にひとつお話をしてあげよう。"
私は、たいそう驚き、あっけにとられて、立ちすくみました。同時に、いたく感動し、その朗読に身震いすら感じたのです。中米の小さな国のこんな片田舎でぼろを着た裸足のこんな小さな娘までが、なぜこんなにも甘美な詩を朗々と詠むのだろうと。詩を懸命に朗読するその姿はもはや小さな妖精のようでありました。それが、ルベン・ダリオの詩だったのです。
これが、ルベン・ダリオの作品との最初の出会いでした」
ルベン・ダリオ(1867-1916)はニカラグア生まれの作家です。訳者の渡邉尚人は、元バルセロナ日本国総領事を務めた方で、いわゆるプロの翻訳家ではありませんが、この作家に惚れこんで、自ら翻訳を手掛け、本書の刊行にいたったようです。「物語全集」と銘うった本書は、約480ページの一段組みの単行本で86篇が収められています。ですから、掌編集と呼んでも良いでしょうが、むしろ、本書に寄せた吉本ばななの『詩人の魂』という文の中で指摘しているように「物語というにはあまりに儚いイメージの連なりは、詩と呼ぶのがいちばんふさわしい」と思います。小説家というよりは詩人と呼ぶべき作家だったようです。
こういう詩でもあり掌編でもある作品というのは、紹介するのが難しくて困るのですが、収録作の中でおそらく最も有名と思われる『青い鳥』の冒頭から、この作者の魅力を感じていただけないかと思います。
「パリは、楽しくも恐ろしい劇場である。カフェ・プロムビエに集まる者たち、善良で毅然とした若者たち―画家や彫刻家、作家や詩人たち―そう、みな、昔の緑の月桂樹の栄光を探していたのだった!
彼らの中で、ほとんどいつも悲しげで、アブサン酒をよく飲み、決して酔わなかった夢想家で、そして非の打ち所のないボヘミアンであり、見事な即興詩人であったあの哀れなガルシンほど好かれたものはいなかった。我々の陽気な会合が行われる乱雑でむさ苦しい部屋には、壁の漆喰に、未来のドラクロアの素描や筆致の間に、我らの青い鳥の傾いた太い文字で書かれた詩や詩節がそのまま残っていた。
青い鳥は、哀れなガルシンであった。どうしてこう呼ばれていたかを、あなた方がご存知ないだろう?我々が、彼にこのあだ名をつけたのだ。
これは単なるきまぐれではなかった。
あの優れた若者は、悲しい酒を飲んでいた。なぜだと我々が聞いた時や、馬鹿みたいに或いは子供のように笑っていた時に、彼は眉をひそめて、晴れ渡る空をじっと見つめ、ある種の苦みをたたえた微笑みで我々にこう返事をするのだった。
―同志たちよ、私は頭の中に一羽の青い鳥を持っているということを知るべきである。それ故に...」
本書の表紙は、この作品をイメージしたものです。さて、ガルシンの青い鳥は最後にはどうなるのでしょう。悲劇的なものであることは、この出だしからも想像できます。
また、この作品もそうですが、他にもとても魅力的な出だしの作品が、いくつかあります。
「友よ、空はくすんで、風は冷たい、さびしい日だ。楽しいお話をしよう...霧のかかった灰色の憂鬱を紛らわしてくれるような、ほら、ここにあるよ」(『ブルジョアの王(楽しいお話)』)
「あそこを行くよ、やせっぽちで背が曲がり、腐肉の男が。あそこを行くよ、杖に支えられて、卑しく哀れな28歳の老人が。フアン・マルティニートが、墓場への旅路で病院への道を」(『どこにでもいる人物の小説』)
掌編ばかりなので、個別作品の細かいストーリーを紹介するのは差し控えますが、これだけ数を揃えると、すべてがすべて素晴らしいというわけにはいきません。正直なところ、書かれた時代を考えると仕方ないのでしょうが、いささか表現が大げさと感じる作品も少なくありません。また、キリスト教の教えの露骨な影響下にある作品が多いのも、仕方ないことでしょう。「私は神と教会を信じる」などと言うキャラクターも登場しますが、ただ、作者が無条件の信者だったとは思えないのは、病死した孫の棺桶代を葬儀屋とかけあう老婆を描いた『病気と影』や、尼僧たちが管理している孤児院が戦争の爆撃にさらされる悲劇の話『良き神様(冒涜的と思われるもののそうではないお話)』のような作品からもうかがえます。
本書全体を総括すると、おそらくどなたが読んでも、好きな作品と、そうでない作品が、かなりはっきり分かれるような気がします。個人的には、ここで名前を出した作品は、みんな好きですが、ベストとなると、やはり『青い鳥』を挙げます。なお、私が調べた範囲では、ニカラグア出身の文学者の単行本で、現在の日本で手に入るのは本書だけのようですから、その意味では貴重です。
「今から40年以上も前のことです。淡水サメで有名なニカラグアの湖を訪ねた時でした。色とりどりの遊覧ボートのある船着き場に着きますと向うから小さな女の子が微笑みながら寄って来ました。おそらく8歳か9歳くらいで、陽に焼けた金色の髪と褐色の肌、大きな黒い瞳にぼろを着て、その上、裸足でした。私は、当時、信号機の前に群がる子供たちが停車した車の運転手たちにしていたのと同様に小銭をせびられるのだろうと思って、少し身構えたのですが、違いました。驚いたことに彼女は、何かをしゃべり始めたのです。何かリズムのあるしゃべり。そう、それは、詩でした。響きのある甘く、妙に切ない詩の朗読だったのです。
“マルガリータ、海は美しく、
風はレモンのかすかな香りを運ぶよ。
私は心の中で雲雀が鳴くのを感じる。
お前の心のアクセントさ。
マルガリータ、お前にひとつお話をしてあげよう。"
私は、たいそう驚き、あっけにとられて、立ちすくみました。同時に、いたく感動し、その朗読に身震いすら感じたのです。中米の小さな国のこんな片田舎でぼろを着た裸足のこんな小さな娘までが、なぜこんなにも甘美な詩を朗々と詠むのだろうと。詩を懸命に朗読するその姿はもはや小さな妖精のようでありました。それが、ルベン・ダリオの詩だったのです。
これが、ルベン・ダリオの作品との最初の出会いでした」
ルベン・ダリオ(1867-1916)はニカラグア生まれの作家です。訳者の渡邉尚人は、元バルセロナ日本国総領事を務めた方で、いわゆるプロの翻訳家ではありませんが、この作家に惚れこんで、自ら翻訳を手掛け、本書の刊行にいたったようです。「物語全集」と銘うった本書は、約480ページの一段組みの単行本で86篇が収められています。ですから、掌編集と呼んでも良いでしょうが、むしろ、本書に寄せた吉本ばななの『詩人の魂』という文の中で指摘しているように「物語というにはあまりに儚いイメージの連なりは、詩と呼ぶのがいちばんふさわしい」と思います。小説家というよりは詩人と呼ぶべき作家だったようです。
こういう詩でもあり掌編でもある作品というのは、紹介するのが難しくて困るのですが、収録作の中でおそらく最も有名と思われる『青い鳥』の冒頭から、この作者の魅力を感じていただけないかと思います。
「パリは、楽しくも恐ろしい劇場である。カフェ・プロムビエに集まる者たち、善良で毅然とした若者たち―画家や彫刻家、作家や詩人たち―そう、みな、昔の緑の月桂樹の栄光を探していたのだった!
彼らの中で、ほとんどいつも悲しげで、アブサン酒をよく飲み、決して酔わなかった夢想家で、そして非の打ち所のないボヘミアンであり、見事な即興詩人であったあの哀れなガルシンほど好かれたものはいなかった。我々の陽気な会合が行われる乱雑でむさ苦しい部屋には、壁の漆喰に、未来のドラクロアの素描や筆致の間に、我らの青い鳥の傾いた太い文字で書かれた詩や詩節がそのまま残っていた。
青い鳥は、哀れなガルシンであった。どうしてこう呼ばれていたかを、あなた方がご存知ないだろう?我々が、彼にこのあだ名をつけたのだ。
これは単なるきまぐれではなかった。
あの優れた若者は、悲しい酒を飲んでいた。なぜだと我々が聞いた時や、馬鹿みたいに或いは子供のように笑っていた時に、彼は眉をひそめて、晴れ渡る空をじっと見つめ、ある種の苦みをたたえた微笑みで我々にこう返事をするのだった。
―同志たちよ、私は頭の中に一羽の青い鳥を持っているということを知るべきである。それ故に...」
本書の表紙は、この作品をイメージしたものです。さて、ガルシンの青い鳥は最後にはどうなるのでしょう。悲劇的なものであることは、この出だしからも想像できます。
また、この作品もそうですが、他にもとても魅力的な出だしの作品が、いくつかあります。
「友よ、空はくすんで、風は冷たい、さびしい日だ。楽しいお話をしよう...霧のかかった灰色の憂鬱を紛らわしてくれるような、ほら、ここにあるよ」(『ブルジョアの王(楽しいお話)』)
「あそこを行くよ、やせっぽちで背が曲がり、腐肉の男が。あそこを行くよ、杖に支えられて、卑しく哀れな28歳の老人が。フアン・マルティニートが、墓場への旅路で病院への道を」(『どこにでもいる人物の小説』)
掌編ばかりなので、個別作品の細かいストーリーを紹介するのは差し控えますが、これだけ数を揃えると、すべてがすべて素晴らしいというわけにはいきません。正直なところ、書かれた時代を考えると仕方ないのでしょうが、いささか表現が大げさと感じる作品も少なくありません。また、キリスト教の教えの露骨な影響下にある作品が多いのも、仕方ないことでしょう。「私は神と教会を信じる」などと言うキャラクターも登場しますが、ただ、作者が無条件の信者だったとは思えないのは、病死した孫の棺桶代を葬儀屋とかけあう老婆を描いた『病気と影』や、尼僧たちが管理している孤児院が戦争の爆撃にさらされる悲劇の話『良き神様(冒涜的と思われるもののそうではないお話)』のような作品からもうかがえます。
本書全体を総括すると、おそらくどなたが読んでも、好きな作品と、そうでない作品が、かなりはっきり分かれるような気がします。個人的には、ここで名前を出した作品は、みんな好きですが、ベストとなると、やはり『青い鳥』を挙げます。なお、私が調べた範囲では、ニカラグア出身の文学者の単行本で、現在の日本で手に入るのは本書だけのようですから、その意味では貴重です。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- 出版社:文芸社
- ページ数:0
- ISBN:9784286224985
- 発売日:2021年04月01日
- 価格:1760円
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