ぽんきちさん
レビュアー:
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「アート」としての屠畜
何だかいろいろ考えさせられた。
著者は、現代美術家といえばよいのだろうか、映像、写真、立体、インスタレーション、執筆など幅広く活動しながら、非営利ギャラリーの企画運営にも携わっているという人物である。
ギャラリーは広島の小さな島、百島(ももしま)にある。
卒後、先輩の伝手でここで働くことになった著者だが、自分のしたいことの方向性が見えず、もやもやを抱えていた。あれこれ考えるうち、「そうだ、この離島で豚を飼ってみよう」と思いつく。
家畜として豚を飼い、自らの手で殺して、食べる。その中で、食肉にまつわる社会構造や人間との関係について見つめてみよう。
それが「アート」なのか、というと著者にも自信はなかったようなのだが、ともかくもそうして、豚との関わりが始まる。
彼女はその最初のころからSNSに日々を記録している(著者インスタグラム)。本書の大半はこの日記部分からなる。
豚をもらい受ける予定の養豚場や精肉工場の見学に始まり、受精も自らの手でさせてもらう。名前は「モモ」と決める。百島の「モモ」だが、同時に、ミヒャエル・エンデのモモも連想する。
記録のタイトルは「メメント・モモ」。ラテン語の「メメント・モリ(Memento mori)(死を想え)」から採っている。語呂もいいというところだろう。
生後1ヶ月まで養豚場で育ったモモは、ついに百島にやってくる。
来たての頃は小さくかわいい。どんどん食べ、ぐんぐん育つ。
豚は賢いとは聞くが、そうはいっても育てるのは大変だ。大量に食べ、脱走し、部屋に入れれば構わず排泄する。犬のように散歩をさせようとするが、なかなかぴったりくるハーネスもない。下痢はする。マダニがつく。身体が大きくなるにつれ、モモはいうことを聞かなくなる。
最初から屠畜を目指して豚を飼う。
これはなかなかセンシティブな問題を孕むし、人によってはありえないと思うだろう。非難にさらされる恐れもある。ましてやSNSにアップしているとなれば、不特定多数の目にもさらされる。実際、著者も攻撃的な言葉を受けたという。
著者自身にも逡巡はある。最後の最後まで、屠畜しない未来を考えてもいる。
読み進むにつれて、それも含めて、著者が「アート」と呼ぶ試みなのだという感が強くなってくる。
一本道ではない道を著者とともに辿りながら、「人」と「動物」の関わりのさまざまな面が見えてくるのだ。
勝手な先入観かもしれないが、この手の試みを行う人は、得てして意志が強い、ある種、エキセントリックな人が多いように思う。最初から他人と違う風景を見ている人だ。
だが、著者はそういった「あちら側」の人ではない。体力的にも超人的なわけではない。時にうだうだ悩みながら、なぜこんなことを始めたのか、自分でもはっきりとは言えずに、しかしそれでも進んでいく。猪の解体をさせてもらったり、止め刺しをしたり、動物に苦痛を与えない屠殺法を調べたり(動物福祉の著名学者であるテンプル・グランディンにメールまで送っている!)。
周囲の手も借りながら、着実にその日へと近づいていく。
ひとつ、驚いたのだが、牛、馬、豚、めん羊、山羊を自家用に食用とする目的で屠殺するときは、あらかじめ管轄都道府県に届出が必要(と畜場法第13条第1項第1号(昭和二十八年法律第百十四号))だという(猪や鹿はまた話が別らしいので、これは家畜の防疫の観点から出来てきた法律なのかもしれない)。
この法律に絡み、モモの屠畜に向けて行政とのやりとりがあり、著者は疲弊していく。行政側はなるべくなら屠殺場で屠殺してほしいという。だが、屠畜を自分の手でというのは大事な点で、そこは譲れない。議論は堂々巡りで許可はなかなか出ない。
もう屠畜は無理なのではないか、とも思われるのだが。
養豚場の豚は通常、半年程度、100kg超くらいで出荷されるという。
モモは1歳ほどになり、200kg近い巨体となった。
最期に苦しんではほしくないと願う著者。さてどのような方法を選び、実際の屠畜はどうだったのかは本書に譲ろう。
著者は屠畜後もモモが恋しいという。いないことが信じられないという。
そこに嘘はないだろう。
一方、肉となったモモと生身のモモとが結びつかないともいう。
これもそんなものかもしれないなと思う。
屠畜を決めた著者が一方で夢見た「モモが死ぬまで一緒に暮らす」未来は、食肉用に品種改良されてきただろう巨体の豚には不可能であったようにも思う。けれどもその夢の美しさもまた、嘘ではない。
動物をかわいいと思い、一方で、その肉をおいしいと思う。その乖離は、「人」と「動物」の関係性を考えるうえで、1つの手がかりとなるのではないか。
モモ亡き後、食肉は切り分けられて保存され、皮は鞣され、骨は保管される。
それらは実際、この先も何らかの美術作品に利用されることがあるかもしれない。
けれどもたとえそうでなくても、モモという豚が生まれ、育ち、死んでいったというそのことが、ずしんと重い印象を残す。
著者は、現代美術家といえばよいのだろうか、映像、写真、立体、インスタレーション、執筆など幅広く活動しながら、非営利ギャラリーの企画運営にも携わっているという人物である。
ギャラリーは広島の小さな島、百島(ももしま)にある。
卒後、先輩の伝手でここで働くことになった著者だが、自分のしたいことの方向性が見えず、もやもやを抱えていた。あれこれ考えるうち、「そうだ、この離島で豚を飼ってみよう」と思いつく。
家畜として豚を飼い、自らの手で殺して、食べる。その中で、食肉にまつわる社会構造や人間との関係について見つめてみよう。
それが「アート」なのか、というと著者にも自信はなかったようなのだが、ともかくもそうして、豚との関わりが始まる。
彼女はその最初のころからSNSに日々を記録している(著者インスタグラム)。本書の大半はこの日記部分からなる。
豚をもらい受ける予定の養豚場や精肉工場の見学に始まり、受精も自らの手でさせてもらう。名前は「モモ」と決める。百島の「モモ」だが、同時に、ミヒャエル・エンデのモモも連想する。
記録のタイトルは「メメント・モモ」。ラテン語の「メメント・モリ(Memento mori)(死を想え)」から採っている。語呂もいいというところだろう。
生後1ヶ月まで養豚場で育ったモモは、ついに百島にやってくる。
来たての頃は小さくかわいい。どんどん食べ、ぐんぐん育つ。
豚は賢いとは聞くが、そうはいっても育てるのは大変だ。大量に食べ、脱走し、部屋に入れれば構わず排泄する。犬のように散歩をさせようとするが、なかなかぴったりくるハーネスもない。下痢はする。マダニがつく。身体が大きくなるにつれ、モモはいうことを聞かなくなる。
最初から屠畜を目指して豚を飼う。
これはなかなかセンシティブな問題を孕むし、人によってはありえないと思うだろう。非難にさらされる恐れもある。ましてやSNSにアップしているとなれば、不特定多数の目にもさらされる。実際、著者も攻撃的な言葉を受けたという。
著者自身にも逡巡はある。最後の最後まで、屠畜しない未来を考えてもいる。
読み進むにつれて、それも含めて、著者が「アート」と呼ぶ試みなのだという感が強くなってくる。
一本道ではない道を著者とともに辿りながら、「人」と「動物」の関わりのさまざまな面が見えてくるのだ。
勝手な先入観かもしれないが、この手の試みを行う人は、得てして意志が強い、ある種、エキセントリックな人が多いように思う。最初から他人と違う風景を見ている人だ。
だが、著者はそういった「あちら側」の人ではない。体力的にも超人的なわけではない。時にうだうだ悩みながら、なぜこんなことを始めたのか、自分でもはっきりとは言えずに、しかしそれでも進んでいく。猪の解体をさせてもらったり、止め刺しをしたり、動物に苦痛を与えない屠殺法を調べたり(動物福祉の著名学者であるテンプル・グランディンにメールまで送っている!)。
周囲の手も借りながら、着実にその日へと近づいていく。
ひとつ、驚いたのだが、牛、馬、豚、めん羊、山羊を自家用に食用とする目的で屠殺するときは、あらかじめ管轄都道府県に届出が必要(と畜場法第13条第1項第1号(昭和二十八年法律第百十四号))だという(猪や鹿はまた話が別らしいので、これは家畜の防疫の観点から出来てきた法律なのかもしれない)。
この法律に絡み、モモの屠畜に向けて行政とのやりとりがあり、著者は疲弊していく。行政側はなるべくなら屠殺場で屠殺してほしいという。だが、屠畜を自分の手でというのは大事な点で、そこは譲れない。議論は堂々巡りで許可はなかなか出ない。
もう屠畜は無理なのではないか、とも思われるのだが。
養豚場の豚は通常、半年程度、100kg超くらいで出荷されるという。
モモは1歳ほどになり、200kg近い巨体となった。
最期に苦しんではほしくないと願う著者。さてどのような方法を選び、実際の屠畜はどうだったのかは本書に譲ろう。
著者は屠畜後もモモが恋しいという。いないことが信じられないという。
そこに嘘はないだろう。
一方、肉となったモモと生身のモモとが結びつかないともいう。
これもそんなものかもしれないなと思う。
屠畜を決めた著者が一方で夢見た「モモが死ぬまで一緒に暮らす」未来は、食肉用に品種改良されてきただろう巨体の豚には不可能であったようにも思う。けれどもその夢の美しさもまた、嘘ではない。
動物をかわいいと思い、一方で、その肉をおいしいと思う。その乖離は、「人」と「動物」の関係性を考えるうえで、1つの手がかりとなるのではないか。
モモ亡き後、食肉は切り分けられて保存され、皮は鞣され、骨は保管される。
それらは実際、この先も何らかの美術作品に利用されることがあるかもしれない。
けれどもたとえそうでなくても、モモという豚が生まれ、育ち、死んでいったというそのことが、ずしんと重い印象を残す。
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分子生物学・生化学周辺の実務翻訳をしています。
本の大海を漂流中。
日々是好日。どんな本との出会いも素敵だ。
あちらこちらとつまみ食いの読書ですが、点が線に、線が面になっていくといいなと思っています。
「実感」を求めて読書しているように思います。
赤柴♀(もも)は3代目。
この夏、有精卵からヒヨコ4羽を孵化させました。現在、中雛、多分♂x2、♀x2。ニワトリは割と人に懐くものらしいですが、今のところ、懐く気配はありませんw
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- 出版社:幻戯書房
- ページ数:0
- ISBN:9784864883061
- 発売日:2024年09月10日
- 価格:3520円
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