ときのきさん
レビュアー:
▼
奇跡を細かく砕くならば
石炭と薪の業者であるビル・ファーロングは、年末も忙しく働いていた。自宅では妻と五人の娘がクリスマスの準備を進めている。家庭は穏やかであり、夫婦仲も睦まじく、上の娘は名門の女子校に進学している。そんな堅実な生活を送るファーロングだったが、ある日届け先の女子修道院で、そこに暮らす娘から、「外へ出してほしい」と訴えかけられる。「川で溺れたいから」と。彼女たちが置かれている状況を知ったファーロングは懊悩することになるのだが……
アイルランドの作家による中編小説だ。
作中の女子修道院では洗濯の仕事を請け負っている。預ければ新品同様になって返ってくると町でも大変評判が良い。だが、それは収容されている女性たちが負わされた過酷な労働によって成立していた。
アイルランドに実在し、映画にもなった“マグダレン洗濯所”がモデルだ。私生児を産んだ娘や不品行を理由に収容された女性がこの施設に送り込まれ、非人道的な強制労働に従事させられた、という史実が元になっている。読んでいると、まるで19世紀小説か、せめて20世紀初頭頃の話か、と思ってしまうのだけれど作中時間は1985年の冬であり、日本ではバブル景気に突入した時期と重なる。
主人公のファーロングは自身の父親を知らない。母親も早くに亡くし、母の雇い主であったウィルソン夫人に養育された。だから、成人し、安定した生活を築きながら、いつでも自分たちの生活が悪い方へ傾く可能性があるという不安を常に抱えてもいて、だが善いキリスト教徒であろうという気持ちは強い。彼が最終的に行う“ほんのささやかなこと”へと物語は向かう。
悲惨な境遇があり、そこに手を差し伸べる能力が自分にあったとして、だから実際に行動を起こすかといえば大抵そうはしない。守らなければならない生活があり、所属する閉鎖的な共同体における具体的なデメリットがあまりにはっきりしている場合はなおのこと。
フィクションの登場人物であれば、善きサマリア人であれば、まかり間違えば幸福な家庭生活を放棄することにつながるような選択を容易にするだろうか。小説の魔術は、善良な苦労人である(だが平凡な家庭人でもある)男に、大勢に逆らった決断をさせる。読者がそれに説得されるのは、何も“そういうお話”だからと飲み込む姿勢ができているからだけではない。
ファーロングが、仕事先で出会った若い女性とともにここではない別のどこかで暮らすことを夢想する場面がある。特段この女性に心惹かれているからではなく、妻と娘たちを愛し、仕事にも懸命に励みながら、同時にどこか、現在の安定を息苦しく思っている人物でもある。今あるものを捨て、何か突飛な覚悟に身を任せる決断をしかねない印象。
そのような男が、女子修道院の状況を目撃し、自らの信仰やそれまで施してきたような善行のあり方に疑問を持つようになる。
女子修道院からの帰路、農夫に道を尋ねたファーロングは、「この道であんたが行きたいところ、どこへでも行けるだろうよ」と返される。何やら“深い”言葉風だが、実は作中においてこの台詞自体には、表面的な意味以上の含みは何もない。だがこの他愛のないからかい文句が、彼の選択に影響を与える。
最終章はクリスマスイヴの一日を描く。これまで通りの働き者の一日。町の一員として人々から信頼されている男の姿を丁寧に追い、やがて仕事は終わるが彼は寄り道を重ね、なかなかわが家へ帰りつかない。どうやら何かを迷っているらしい。
農夫のどうでもいい一言に啓示を見出し、過去の記憶を組み合わせて自分の行く先を指す道標として意識するのは、彼がそのように望んだからに他ならない。直前には振る舞い酒も飲んでいる。偶然と恣意が彼を導き、奇跡が起こる。
彼のささやかな行為によって、かつてウィルソン夫人がしてくれたように“ひとつの人生が出来あが”るかはわからない。
小説は平凡な男が飛躍する瞬間を捉える。その先が奈落であったとしても、それは小説の知るところではないが、わたしたちの時折行う善意からの決断もまた、同じではないだろうか。かなうならば正しく飛躍したいと望む少なからぬ人々に、本作は奇跡に備える知恵を授けてくれるかもしれない。
アイルランドの作家による中編小説だ。
作中の女子修道院では洗濯の仕事を請け負っている。預ければ新品同様になって返ってくると町でも大変評判が良い。だが、それは収容されている女性たちが負わされた過酷な労働によって成立していた。
アイルランドに実在し、映画にもなった“マグダレン洗濯所”がモデルだ。私生児を産んだ娘や不品行を理由に収容された女性がこの施設に送り込まれ、非人道的な強制労働に従事させられた、という史実が元になっている。読んでいると、まるで19世紀小説か、せめて20世紀初頭頃の話か、と思ってしまうのだけれど作中時間は1985年の冬であり、日本ではバブル景気に突入した時期と重なる。
主人公のファーロングは自身の父親を知らない。母親も早くに亡くし、母の雇い主であったウィルソン夫人に養育された。だから、成人し、安定した生活を築きながら、いつでも自分たちの生活が悪い方へ傾く可能性があるという不安を常に抱えてもいて、だが善いキリスト教徒であろうという気持ちは強い。彼が最終的に行う“ほんのささやかなこと”へと物語は向かう。
悲惨な境遇があり、そこに手を差し伸べる能力が自分にあったとして、だから実際に行動を起こすかといえば大抵そうはしない。守らなければならない生活があり、所属する閉鎖的な共同体における具体的なデメリットがあまりにはっきりしている場合はなおのこと。
フィクションの登場人物であれば、善きサマリア人であれば、まかり間違えば幸福な家庭生活を放棄することにつながるような選択を容易にするだろうか。小説の魔術は、善良な苦労人である(だが平凡な家庭人でもある)男に、大勢に逆らった決断をさせる。読者がそれに説得されるのは、何も“そういうお話”だからと飲み込む姿勢ができているからだけではない。
ファーロングが、仕事先で出会った若い女性とともにここではない別のどこかで暮らすことを夢想する場面がある。特段この女性に心惹かれているからではなく、妻と娘たちを愛し、仕事にも懸命に励みながら、同時にどこか、現在の安定を息苦しく思っている人物でもある。今あるものを捨て、何か突飛な覚悟に身を任せる決断をしかねない印象。
そのような男が、女子修道院の状況を目撃し、自らの信仰やそれまで施してきたような善行のあり方に疑問を持つようになる。
女子修道院からの帰路、農夫に道を尋ねたファーロングは、「この道であんたが行きたいところ、どこへでも行けるだろうよ」と返される。何やら“深い”言葉風だが、実は作中においてこの台詞自体には、表面的な意味以上の含みは何もない。だがこの他愛のないからかい文句が、彼の選択に影響を与える。
最終章はクリスマスイヴの一日を描く。これまで通りの働き者の一日。町の一員として人々から信頼されている男の姿を丁寧に追い、やがて仕事は終わるが彼は寄り道を重ね、なかなかわが家へ帰りつかない。どうやら何かを迷っているらしい。
農夫のどうでもいい一言に啓示を見出し、過去の記憶を組み合わせて自分の行く先を指す道標として意識するのは、彼がそのように望んだからに他ならない。直前には振る舞い酒も飲んでいる。偶然と恣意が彼を導き、奇跡が起こる。
彼のささやかな行為によって、かつてウィルソン夫人がしてくれたように“ひとつの人生が出来あが”るかはわからない。
小説は平凡な男が飛躍する瞬間を捉える。その先が奈落であったとしても、それは小説の知るところではないが、わたしたちの時折行う善意からの決断もまた、同じではないだろうか。かなうならば正しく飛躍したいと望む少なからぬ人々に、本作は奇跡に備える知恵を授けてくれるかもしれない。
掲載日:
外部ブログURLが設定されていません
投票する
投票するには、ログインしてください。
海外文学・ミステリーなどが好きです。書評は小説が主になるはずです。
書評一覧を取得中。。。
- 出版社:早川書房
- ページ数:0
- ISBN:9784152103666
- 発売日:2024年10月23日
- 価格:2420円
- Amazonで買う
- カーリルで図書館の蔵書を調べる
- あなた
- この書籍の平均
- この書評
※ログインすると、あなたとこの書評の位置関係がわかります。























