そうきゅうどうさん
レビュアー:
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〈十月の国〉は「丘を越えてすぐのところ、森の彼方にある。月明かりのもとでしか行けず、暗闇のなかでは見過ごしてしまう。その国に季節はひとつしかなく、つねに秋なのである」。(「訳者あとがき」より)
どこかで誰かが書いていた。「人間には2種類ある。ブラッドベリを読んだ人と読んでいない人。そしてブラッドベリを読んだ人には2種類ある。20代(まで)にブラッドベリを読んだ人とそうでない人」。私は20代(まで)にブラッドベリを読んだ人だ。
そんな私がブラッドベリを最後に読んだのがいつだったのか、今となってはもう分からない。もしかしたら30代になる頃だったかもしれない。その後も、いつも手の届くところにブラッドベリはあったが、なぜかずっと手にすることはなかった。それが、いつも行く本屋で『10月はたそがれの国』の新訳版を見かけて急に読んでみたくなった(ちなみに旧訳版でも『10月~』は未読だった)。しばらく待てば図書館で読めるようになるだろうし、もうこれ以上、本を増やさないためにもそうすべきだということは分かっていたが、迷った末に結局、買ってしまった。
別の本屋に『10月~』の旧訳版があったので比べてみると、新訳版はブラッドベリによる「序文 どうせ死ぬなら、わが声が絶えたあと」が増補されている以外は基本的に旧訳版と同じ。ただ新訳版には訳者、中村融(とおる)による『10月~』が刊行されることになるまでの詳細な経緯と作品解説が書かれた「訳者あとがき 闇のカーニヴァルから10月の国へ」が付されている。中村はその冒頭で以下のように述べている。
さて、『10月~』にはブラッドベリの第1短篇集『闇のカーニヴァル(Dark Carnival)』からの15篇と新たに書き下ろされた4篇の計19篇が収められている(なお解説でも述べられているように、ハヤカワから出ている『黒いカーニバル』は伊藤典夫によって編まれた短篇集で、オリジナルの『闇のカーニヴァル』の邦訳ではない)。
今回増補された「序文」では、ブラッドベリが自身の創作の過程を明かしていて、これを念頭に収録作を読むと、何も知らないで読むのとはまた違った景色が見えてくる。
メキシコを舞台にした「つぎの番」からは、アメリカ人にとってメキシコは本能的な恐れの対象であることが分かる。マーガレット・ミラーにもメキシコが舞台(の一部)になっている作品があり、彼女はメキシコを「足を踏み入れたら二度と戻れない場所」というイメージで描いている。多くのアメリカ人にとって、世界とはアメリカのことだと言われている(だから国内試合であるのに恥ずかしげもなくワールド・シリーズなどと名付けるのだ、と)。そのアメリカ人にとって、文化も異なり言葉も通じないメキシコという存在は「世界=アメリカ」幻想を破壊するものに他ならない(カナダとも国境を接しているが、カナダは英語の通じるアメリカ文化圏の1つでしかない)。今、アメリカではメキシコ国境を越えて押し寄せる不法移民が問題になっているが、それは単なる政治的、経済的な問題とは別の文脈でも見なければならないのかもしれない。
「みずうみ」はブラッドベリの代表作の1つで、私も以前、別の本で読んだ記憶がある。それだけ多くの訳があって、ネットで調べると訳文の比較を述べている記事もあった。私はこれまでブラッドベリを主に小笠原豊樹、伊藤典夫の訳で読んできたこともあって、彼らの訳文がブラッドベリ節(ぶし)だとずっと思っていたが、どうもそうではないようだ。『何かが道をやって来る』新訳版の中村融による「訳者あとがき」によると、ブラッドベリの原文はアメリカ人にも分かりにくいもので、それをこれまでの邦訳では訳者がこなれた日本語に置き換えていたのだ、という。それに対して中村は直訳に近い訳文を心がけた、と。なので「みずうみ」に限らず、この『10月~』新訳版の作品は、読んでいて何か異質な感じがした。
この『10月~』は死の影をまとったほの暗い色合いの作品群からなるが、その掉尾に「ダドリー・ストーンのふしぎな死」が置かれているのは見事。この1篇によって全体のトーンが一変する。
そんな私がブラッドベリを最後に読んだのがいつだったのか、今となってはもう分からない。もしかしたら30代になる頃だったかもしれない。その後も、いつも手の届くところにブラッドベリはあったが、なぜかずっと手にすることはなかった。それが、いつも行く本屋で『10月はたそがれの国』の新訳版を見かけて急に読んでみたくなった(ちなみに旧訳版でも『10月~』は未読だった)。しばらく待てば図書館で読めるようになるだろうし、もうこれ以上、本を増やさないためにもそうすべきだということは分かっていたが、迷った末に結局、買ってしまった。
別の本屋に『10月~』の旧訳版があったので比べてみると、新訳版はブラッドベリによる「序文 どうせ死ぬなら、わが声が絶えたあと」が増補されている以外は基本的に旧訳版と同じ。ただ新訳版には訳者、中村融(とおる)による『10月~』が刊行されることになるまでの詳細な経緯と作品解説が書かれた「訳者あとがき 闇のカーニヴァルから10月の国へ」が付されている。中村はその冒頭で以下のように述べている。
『10月はたそがれの国』という邦題はまことに印象的だが、原題のニュアンスはちょっとちがっていて、「一年中が十月である国」くらいの意味。じつはブラッドベリは、この題名の意味を説明する序文を用意していたのだが、けっきょく使わなかったという経緯(いきさつ)がある。
1955年1月1日に書かれ、1997年に出た本書の限定豪華版で公開されたその文章によると、〈十月の国〉は「丘を越えてすぐのところ、森の彼方にある。月明かりのもとでしか行けず、暗闇のなかでは見過ごしてしまう。その国では、人はある年の秋に受胎し、翌年の秋に生まれる。その国に季節はひとつしかなく、つねに秋なのである」。そして住民は〈十月の民〉と呼ばれ、北向きの屋根裏部屋や、地下室や、食料貯蔵庫や、クローゼットや石炭貯蔵所に住んでいるという。
さて、『10月~』にはブラッドベリの第1短篇集『闇のカーニヴァル(Dark Carnival)』からの15篇と新たに書き下ろされた4篇の計19篇が収められている(なお解説でも述べられているように、ハヤカワから出ている『黒いカーニバル』は伊藤典夫によって編まれた短篇集で、オリジナルの『闇のカーニヴァル』の邦訳ではない)。
今回増補された「序文」では、ブラッドベリが自身の創作の過程を明かしていて、これを念頭に収録作を読むと、何も知らないで読むのとはまた違った景色が見えてくる。
メキシコを舞台にした「つぎの番」からは、アメリカ人にとってメキシコは本能的な恐れの対象であることが分かる。マーガレット・ミラーにもメキシコが舞台(の一部)になっている作品があり、彼女はメキシコを「足を踏み入れたら二度と戻れない場所」というイメージで描いている。多くのアメリカ人にとって、世界とはアメリカのことだと言われている(だから国内試合であるのに恥ずかしげもなくワールド・シリーズなどと名付けるのだ、と)。そのアメリカ人にとって、文化も異なり言葉も通じないメキシコという存在は「世界=アメリカ」幻想を破壊するものに他ならない(カナダとも国境を接しているが、カナダは英語の通じるアメリカ文化圏の1つでしかない)。今、アメリカではメキシコ国境を越えて押し寄せる不法移民が問題になっているが、それは単なる政治的、経済的な問題とは別の文脈でも見なければならないのかもしれない。
「みずうみ」はブラッドベリの代表作の1つで、私も以前、別の本で読んだ記憶がある。それだけ多くの訳があって、ネットで調べると訳文の比較を述べている記事もあった。私はこれまでブラッドベリを主に小笠原豊樹、伊藤典夫の訳で読んできたこともあって、彼らの訳文がブラッドベリ節(ぶし)だとずっと思っていたが、どうもそうではないようだ。『何かが道をやって来る』新訳版の中村融による「訳者あとがき」によると、ブラッドベリの原文はアメリカ人にも分かりにくいもので、それをこれまでの邦訳では訳者がこなれた日本語に置き換えていたのだ、という。それに対して中村は直訳に近い訳文を心がけた、と。なので「みずうみ」に限らず、この『10月~』新訳版の作品は、読んでいて何か異質な感じがした。
この『10月~』は死の影をまとったほの暗い色合いの作品群からなるが、その掉尾に「ダドリー・ストーンのふしぎな死」が置かれているのは見事。この1篇によって全体のトーンが一変する。
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「ブクレコ」からの漂流者。「ブクレコ」ではMasahiroTakazawaという名でレビューを書いていた。今後は新しい本を次々に読む、というより、過去に読んだ本の再読、精読にシフトしていきたいと思っている。
職業はキネシオロジー、クラニオ、鍼灸などを行う治療家で、そちらのHPは→https://sokyudo.sakura.ne.jp
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