ゆうちゃんさん
レビュアー:
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大作曲家で指揮者だったグスタフ・マーラーには有名な妻と同名のアルマと言う姪がいた。彼女は伯父に劣らず音楽の才能に恵まれ、人間力があった。そんな彼女の生涯を綴った本である。
こちらは朝日新聞の書評で知った本である。
大作曲家グスタフ・マーラーは作曲家であるとともに指揮者でウィーン宮廷歌劇場(今のウィーン国立歌劇場)管弦楽団の常任指揮者を務めていた。宮廷歌劇場のコンサートマスターはアルノルト・ロゼと言い、彼はマーラーの妹ユスティーネと結婚した。この夫婦の娘がアルマである(つまりマーラーの姪、彼女が本書の主人公)。生年は1906年。アルマの名はグスタフ・マーラーの妻で才女でも有名なアルマ・マーラーから取られた。アルマ・ロゼ(以下、単にアルマ)は、ヴァイオリンの才能に秀で、父の薫陶を受けた。伯父や父と同じくウィーン音楽院で学び、ソロのヴァイオリニストとしてデビューした。そして当時、トスカニーニに見出されて有名になったチェコ人のヴァイオリニストのヴァーシャ・プシホダと結婚した。しかし、夫は演奏旅行ばかりしなければならない音楽家であり、すれ違いの多いこの結婚生活は行き詰まる。アルマは、自活の道を探って、女性だけからなるヴィーナー・女性ワルツ・アンサンブルを立ち上げ、その指揮者兼ヴァイオリニストとなった(楽器を持って指揮台に上がる、いわゆる弾き振りと言うスタイルで、ヨハン・シュトラウスが有名)。ヨーロッパ各地を演奏旅行して好評を得るが、マーラー家もロゼ家もユダヤ人であり、この頃、政権を取ったナチスのせいで仕事がやりにくくなっていった。オーストリアがナチス・ドイツに占領され、アルノルト・ロゼも57年務めたウィーン宮廷歌劇場を首になり、一家はイギリスに逃れた。しかし、イギリスでは父アルノルトの友人一家に頼るものの、いつまでも好意に甘えられない。生計維持のため、アルマはオランダで身を立てることにして、ホテルに演奏家として仕事をさせてほしいと頼み契約した。オランダは中立国であり、ここで戦争を乗り切れると思ったのである。契約が成立してオランダに渡ったが、そこで名指揮者メンゲルベルクのオーディションに良い感触を得て、父の帰国するようにとの説得にもかかわらず留まってしまった。ところがナチスが電撃作戦でオランダに侵攻してくる。占領されたオランダでは娯楽として家庭音楽会が流行し、アルマはそんな仕事を頼りにして、なかなか腰を上げない。そのうちオランダでもユダヤ人への抑圧が強まり、二進も三進も行かなくなってからフランス経由でスイスに逃避しようとした。下宿先のオランダ人夫妻は好意的であるし、地下組織の助けもあってフランスのディジョンまで逃れたが、スイスまであと一歩と言うところでナチスに逮捕され、彼女はアウシュヴィッツに送られた(当時、フランスの大半はナチスに占領されていた)。
アウシュヴィッツに来てアルマは実験病棟に入れられそうになる。そこは、非アーリア人を根絶やしにするための効率的な不妊実験を進める病棟だった。しかし彼女は、囚人管理人に「死に行く者のお決まりの最後の願いとして、ヴァイオリンを弾かせていただけないでしょうか」と訊く。ヴァイオリンが弾けるとわかると、そこからはとんとん拍子に話が進み、収容所内の女性オーケストラの指揮者に任じられる。アルマは、当時、この収容所の女性囚人を仕切っていたナチス親衛隊のマリア・マンデル女性囚人管理長の好意を勝ち取り、団員を集め自分の配下の囚人の待遇の改善を慎重に要求し、成功して行く。
本書の副題は「アウシュヴィッツの指揮者 アルマ・ロゼ」である。この本で最も驚くのはアルマがアウシュヴィッツに来た時に囚人のオーケストラが11もあったということである。それは全て男性のオーケストラで、そもそも当時、オーケストラの団員と言えば男性と決まっていた。アルマが戦前にウィーナー・女性ワルツ・アンサンブルを立ち上げたのもいかに先進的な試みかわかる。楽器は悲しむべきかな、収容所に入れられた人から没収したものが山となっていたようである。親衛隊のマリア・マンデルは野心家で、自分が仕切って収容所に女性オーケストラを立ち上げれば、幹部に受けると思ったらしい。最初はそんな野心がきっかけとなったらしいが、そのうちマンデルはアルマに心酔するようになったようだ。他にも収容所でアルマに好意を寄せる者は多数いた。収容所の体験を綴った「夜と霧」で有名なフランクルは収容所で生き延びる条件は「目立たないこと」だと書いたようだが、アルマの行く道は真逆だった。それでも堂々と生きた点が素晴らしい。まさに人間力が高かったと思われる。フランクルの著作にはこんな一文があった。
生き方はフランクルと逆でも、アルマも同じ考えのように思える。本書で忘れてならないのは、アルマがマーラーの姪である点だ。それが彼女の信条につながる。
勿論、そこには音楽の力もあるだろう。著者は音楽家である。
アルマ・ロゼについては幾つかの本が書かれているようだが、本書はその中でリチャード・ニューマン氏の「アルマ・ロゼ ウィーンからアウシュヴィッツへ」(未訳)に大いに影響を受けたようだ。ニューマン氏の評伝から多数引用されている。また評伝でありながら、ところどころ著者の考えたことや、本書の執筆に当たって訪れたウィーンのことなどについて書かれている。ナチスの侵攻を受けてもいつまでもオランダに留まっているアルマに読んでいて、少々苛々することもあったが、彼女の判断力を云々するのは後知恵かもしれないし、そんなことも、アウシュヴィッツでの彼女の立ち居振る舞いを読むと吹き飛んでしまう。歴史的には有名ではないアルマの魅力を充分に伝える本だと言える。
大作曲家グスタフ・マーラーは作曲家であるとともに指揮者でウィーン宮廷歌劇場(今のウィーン国立歌劇場)管弦楽団の常任指揮者を務めていた。宮廷歌劇場のコンサートマスターはアルノルト・ロゼと言い、彼はマーラーの妹ユスティーネと結婚した。この夫婦の娘がアルマである(つまりマーラーの姪、彼女が本書の主人公)。生年は1906年。アルマの名はグスタフ・マーラーの妻で才女でも有名なアルマ・マーラーから取られた。アルマ・ロゼ(以下、単にアルマ)は、ヴァイオリンの才能に秀で、父の薫陶を受けた。伯父や父と同じくウィーン音楽院で学び、ソロのヴァイオリニストとしてデビューした。そして当時、トスカニーニに見出されて有名になったチェコ人のヴァイオリニストのヴァーシャ・プシホダと結婚した。しかし、夫は演奏旅行ばかりしなければならない音楽家であり、すれ違いの多いこの結婚生活は行き詰まる。アルマは、自活の道を探って、女性だけからなるヴィーナー・女性ワルツ・アンサンブルを立ち上げ、その指揮者兼ヴァイオリニストとなった(楽器を持って指揮台に上がる、いわゆる弾き振りと言うスタイルで、ヨハン・シュトラウスが有名)。ヨーロッパ各地を演奏旅行して好評を得るが、マーラー家もロゼ家もユダヤ人であり、この頃、政権を取ったナチスのせいで仕事がやりにくくなっていった。オーストリアがナチス・ドイツに占領され、アルノルト・ロゼも57年務めたウィーン宮廷歌劇場を首になり、一家はイギリスに逃れた。しかし、イギリスでは父アルノルトの友人一家に頼るものの、いつまでも好意に甘えられない。生計維持のため、アルマはオランダで身を立てることにして、ホテルに演奏家として仕事をさせてほしいと頼み契約した。オランダは中立国であり、ここで戦争を乗り切れると思ったのである。契約が成立してオランダに渡ったが、そこで名指揮者メンゲルベルクのオーディションに良い感触を得て、父の帰国するようにとの説得にもかかわらず留まってしまった。ところがナチスが電撃作戦でオランダに侵攻してくる。占領されたオランダでは娯楽として家庭音楽会が流行し、アルマはそんな仕事を頼りにして、なかなか腰を上げない。そのうちオランダでもユダヤ人への抑圧が強まり、二進も三進も行かなくなってからフランス経由でスイスに逃避しようとした。下宿先のオランダ人夫妻は好意的であるし、地下組織の助けもあってフランスのディジョンまで逃れたが、スイスまであと一歩と言うところでナチスに逮捕され、彼女はアウシュヴィッツに送られた(当時、フランスの大半はナチスに占領されていた)。
アウシュヴィッツに来てアルマは実験病棟に入れられそうになる。そこは、非アーリア人を根絶やしにするための効率的な不妊実験を進める病棟だった。しかし彼女は、囚人管理人に「死に行く者のお決まりの最後の願いとして、ヴァイオリンを弾かせていただけないでしょうか」と訊く。ヴァイオリンが弾けるとわかると、そこからはとんとん拍子に話が進み、収容所内の女性オーケストラの指揮者に任じられる。アルマは、当時、この収容所の女性囚人を仕切っていたナチス親衛隊のマリア・マンデル女性囚人管理長の好意を勝ち取り、団員を集め自分の配下の囚人の待遇の改善を慎重に要求し、成功して行く。
本書の副題は「アウシュヴィッツの指揮者 アルマ・ロゼ」である。この本で最も驚くのはアルマがアウシュヴィッツに来た時に囚人のオーケストラが11もあったということである。それは全て男性のオーケストラで、そもそも当時、オーケストラの団員と言えば男性と決まっていた。アルマが戦前にウィーナー・女性ワルツ・アンサンブルを立ち上げたのもいかに先進的な試みかわかる。楽器は悲しむべきかな、収容所に入れられた人から没収したものが山となっていたようである。親衛隊のマリア・マンデルは野心家で、自分が仕切って収容所に女性オーケストラを立ち上げれば、幹部に受けると思ったらしい。最初はそんな野心がきっかけとなったらしいが、そのうちマンデルはアルマに心酔するようになったようだ。他にも収容所でアルマに好意を寄せる者は多数いた。収容所の体験を綴った「夜と霧」で有名なフランクルは収容所で生き延びる条件は「目立たないこと」だと書いたようだが、アルマの行く道は真逆だった。それでも堂々と生きた点が素晴らしい。まさに人間力が高かったと思われる。フランクルの著作にはこんな一文があった。
収容所の生活にも意味はある。そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されたなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた(「夜と霧」新版 112頁)。
生き方はフランクルと逆でも、アルマも同じ考えのように思える。本書で忘れてならないのは、アルマがマーラーの姪である点だ。それが彼女の信条につながる。
アルマは伯父の精神を礎にして、アウシュヴィッツを生き抜こうとしたのではないだろうか。マーラーを背骨にしたアルマは、正真正銘のマーラーの姪だった、と私(著者)は思う(222頁)。
勿論、そこには音楽の力もあるだろう。著者は音楽家である。
「音楽のちから」。この言葉は好きではないと言う人もいるが、私(著者)は、素直に「音楽のちから」と言う言葉を認めたい。この言葉なくして、強制収容所の人々の心に、光を投げ込むことができた音楽の特性を、どのように説明できるだろう(147頁)。
アルマ・ロゼについては幾つかの本が書かれているようだが、本書はその中でリチャード・ニューマン氏の「アルマ・ロゼ ウィーンからアウシュヴィッツへ」(未訳)に大いに影響を受けたようだ。ニューマン氏の評伝から多数引用されている。また評伝でありながら、ところどころ著者の考えたことや、本書の執筆に当たって訪れたウィーンのことなどについて書かれている。ナチスの侵攻を受けてもいつまでもオランダに留まっているアルマに読んでいて、少々苛々することもあったが、彼女の判断力を云々するのは後知恵かもしれないし、そんなことも、アウシュヴィッツでの彼女の立ち居振る舞いを読むと吹き飛んでしまう。歴史的には有名ではないアルマの魅力を充分に伝える本だと言える。
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神奈川県に住むサラリーマン(技術者)でしたが24年2月に会社を退職して今は無職です。
読書歴は大学の頃に遡ります。粗筋や感想をメモするようになりましたのはここ10年程ですので、若い頃に読んだ作品を再読した投稿が多いです。元々海外純文学と推理小説、そして海外の歴史小説が自分の好きな分野でした。しかし、最近は、文明論、科学ノンフィクション、音楽などにも興味が広がってきました。投稿するからには評価出来ない作品もきっちりと読もうと心掛けています。どうかよろしくお願い致します。
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- 出版社:音楽之友社
- ページ数:0
- ISBN:9784276216136
- 発売日:2024年06月17日
- 価格:2750円
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