ぽんきちさん
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1950~70年代、日本の小説はどのように英訳され、そこにはどんな問題があったのか?
川端康成が日本人初のノーベル文学賞を受賞したのは1968年のことだ。日本語に限らず、欧米圏以外の文学が世界的に認められるために必要なことの1つは、その作品が英訳されていることである。川端の受賞も英訳なくしてはありえないものだった。
1950~70年代、谷崎潤一郎・川端康成・三島由紀夫(「ザ・ビッグ・スリー」)をはじめとする日本作家の作品が数多く英訳出版された。中でもアメリカのクノップフ社は精力的だった。
日本文学が注目される背景には、第2次世界大戦があった。日本参戦により、日本語の使い手を養成する必要に迫られたアメリカでは、日本語教育が盛んにおこなわれた。そこで学んだ者たちは、敗戦後、占領下の日本に滞在し、職務を果たす傍ら、多くの同時代日本文学に触れる機会を得た。こうした人々が故国に帰り、文化の橋渡しの役割を担うことになったわけだ。皮肉な話だが、日本の敗戦がなければ、日本文学の世界への紹介は数年は遅れただろうという見方もある。
どんな言語の組み合わせでも、翻訳にはある程度の困難があるが、当時、欧米圏でなじみが薄かった日本語作品の英語への翻訳はさまざま問題を孕む。文化的背景も異なれば、言語構造も違うのだ。
まずはどの作品を選ぶのか。どういったテーマのものが欧米圏に受け入れられるのか。
固有名詞をいちいち説明するのか。漢字が持つニュアンスをどこまで訳語に活かすのか。
主語を省略しがちな原文をどこまで・どのように読み解いていくのか。
編集者も翻訳者もそれぞれの立場で奮闘するが、しばしば作品の改変や省略も起こる。
本書では、当時の日本文学の英訳の現場に迫るため、クノップフ社に残された膨大な史料に加え、エドワード・G・サイデンステッカーやドナルド・キーンといった著名な翻訳者の日記や証言にもあたっている。
丁寧な検証から、日本現代文学作品がどのように世界へと紹介されていったのか、その過程でどのような問題が生じ、それがどのように解決され、あるいはされなかったのかが見えてくる。
谷崎潤一郎の作品には、しばしば会話が現れる。
大岡昇平の『野火』は、1957年にクノップフ社から出た英訳版では、大幅に改変されている。レイテ島で敗兵として闘争を続ける男を主人公とする小説で、孤独や飢餓、殺人や人肉食が絡む。
英訳版ではエピローグ部分が大きく変更されている。英訳者は、エピローグ部分を冗長で全体のプロットからは不必要なものと見なし、ばっさりと削ってしまっているのだ。そして原著者の許可は得た、としていたが、当の大岡はこれを否定し、些細な句の省略は認めたけれど、校正刷を見せることもなく、想定した以上の改変が行われたことは「承服し難い」と糾弾している。
この行き違いの背後には、クノップフ側の編集者や英訳者がプロットの一貫性を重視し、さらにサスペンスを高めようとした意図があったようである。
ここまでの改変は極端だが、その他の作品でも省略や改変は実は珍しくはなかったようだ。
谷崎の『細雪』は、タイトルが”The Makioka Sisters”とされている。「細雪」という言葉は、確かに英訳しにくい言葉ではあろうが、それにしても大胆な変更である。蒔岡家、四姉妹の話なのだから、その通りといえばその通りなのだが。
それとは別に、この作品では、姉妹の1人が、蛍狩りをした過去を回想するシーンがあり、夢見るようなロマンティックな箇所なのだが、実は英訳する際には困難を伴う。日本語は現在から過去へと視点が行き来し、思考が浮遊するような場合でも大きな問題は生じない。しかし、英語は時制をはっきりさせる特徴があるので、現在なら現在形、過去なら過去形、過去分詞などとなってくると滑らかさが失われ、わかりにくくなってしまう。このあたりの処理は英訳者と編集者の間でも意見の相違があったようである。
谷崎作品のように、一文が長い傾向があるものは、特に対処が難しい面はあるだろう。
谷崎を含め、「ザ・ビッグ・スリー」の翻訳を手掛けたサイデンステッカーは『源氏物語』の翻訳にもあたっているが、視点の移り変わりや文の長さといった点では共通点はありそうである。
時制の問題などは現代でも完全には解決できない問題かもしれない。
異文化同士が出会うとき、そこには何かしらの反応が生じる。すぐには理解しあえないかもしれない。誤解もあるだろう。行き違いもあるだろう。けれどもそれらを越えて、互いを知ろうとするとき、人々はそこに瑞々しく美しいものを見るのかもしれない。
1950~70年代、谷崎潤一郎・川端康成・三島由紀夫(「ザ・ビッグ・スリー」)をはじめとする日本作家の作品が数多く英訳出版された。中でもアメリカのクノップフ社は精力的だった。
日本文学が注目される背景には、第2次世界大戦があった。日本参戦により、日本語の使い手を養成する必要に迫られたアメリカでは、日本語教育が盛んにおこなわれた。そこで学んだ者たちは、敗戦後、占領下の日本に滞在し、職務を果たす傍ら、多くの同時代日本文学に触れる機会を得た。こうした人々が故国に帰り、文化の橋渡しの役割を担うことになったわけだ。皮肉な話だが、日本の敗戦がなければ、日本文学の世界への紹介は数年は遅れただろうという見方もある。
どんな言語の組み合わせでも、翻訳にはある程度の困難があるが、当時、欧米圏でなじみが薄かった日本語作品の英語への翻訳はさまざま問題を孕む。文化的背景も異なれば、言語構造も違うのだ。
まずはどの作品を選ぶのか。どういったテーマのものが欧米圏に受け入れられるのか。
固有名詞をいちいち説明するのか。漢字が持つニュアンスをどこまで訳語に活かすのか。
主語を省略しがちな原文をどこまで・どのように読み解いていくのか。
編集者も翻訳者もそれぞれの立場で奮闘するが、しばしば作品の改変や省略も起こる。
本書では、当時の日本文学の英訳の現場に迫るため、クノップフ社に残された膨大な史料に加え、エドワード・G・サイデンステッカーやドナルド・キーンといった著名な翻訳者の日記や証言にもあたっている。
丁寧な検証から、日本現代文学作品がどのように世界へと紹介されていったのか、その過程でどのような問題が生じ、それがどのように解決され、あるいはされなかったのかが見えてくる。
谷崎潤一郎の作品には、しばしば会話が現れる。
「誰が?」「君が」「私が?」「そう、君が」「なぜ私が?」「なぜ君がかって?」英訳するとすれば、
”Who?””You.””Me?””Yes, you.””Why me?””Why you?”となるが、果たしてそれでよいか、と言われると確かに英語としてはすっきりしない感じがある。
「ふーん、不思議ね、全く。うそぢゃないことね。--あなた触ってご覧にならない?」と言われれば女性が話していることはわかるが、英語で
”Hmm. Very strange indeed. You’re quite right. Don’t you want to feel it too?”と言われたら、性別の情報は抜け落ちる。日本語なら話しぶりで書きわけられるものが、英語になると、例えばHe said、She saidと言った形で補うか、何らかの工夫が必要になる。
大岡昇平の『野火』は、1957年にクノップフ社から出た英訳版では、大幅に改変されている。レイテ島で敗兵として闘争を続ける男を主人公とする小説で、孤独や飢餓、殺人や人肉食が絡む。
英訳版ではエピローグ部分が大きく変更されている。英訳者は、エピローグ部分を冗長で全体のプロットからは不必要なものと見なし、ばっさりと削ってしまっているのだ。そして原著者の許可は得た、としていたが、当の大岡はこれを否定し、些細な句の省略は認めたけれど、校正刷を見せることもなく、想定した以上の改変が行われたことは「承服し難い」と糾弾している。
この行き違いの背後には、クノップフ側の編集者や英訳者がプロットの一貫性を重視し、さらにサスペンスを高めようとした意図があったようである。
ここまでの改変は極端だが、その他の作品でも省略や改変は実は珍しくはなかったようだ。
谷崎の『細雪』は、タイトルが”The Makioka Sisters”とされている。「細雪」という言葉は、確かに英訳しにくい言葉ではあろうが、それにしても大胆な変更である。蒔岡家、四姉妹の話なのだから、その通りといえばその通りなのだが。
それとは別に、この作品では、姉妹の1人が、蛍狩りをした過去を回想するシーンがあり、夢見るようなロマンティックな箇所なのだが、実は英訳する際には困難を伴う。日本語は現在から過去へと視点が行き来し、思考が浮遊するような場合でも大きな問題は生じない。しかし、英語は時制をはっきりさせる特徴があるので、現在なら現在形、過去なら過去形、過去分詞などとなってくると滑らかさが失われ、わかりにくくなってしまう。このあたりの処理は英訳者と編集者の間でも意見の相違があったようである。
谷崎作品のように、一文が長い傾向があるものは、特に対処が難しい面はあるだろう。
谷崎を含め、「ザ・ビッグ・スリー」の翻訳を手掛けたサイデンステッカーは『源氏物語』の翻訳にもあたっているが、視点の移り変わりや文の長さといった点では共通点はありそうである。
時制の問題などは現代でも完全には解決できない問題かもしれない。
異文化同士が出会うとき、そこには何かしらの反応が生じる。すぐには理解しあえないかもしれない。誤解もあるだろう。行き違いもあるだろう。けれどもそれらを越えて、互いを知ろうとするとき、人々はそこに瑞々しく美しいものを見るのかもしれない。
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分子生物学・生化学周辺の実務翻訳をしています。
本の大海を漂流中。
日々是好日。どんな本との出会いも素敵だ。
あちらこちらとつまみ食いの読書ですが、点が線に、線が面になっていくといいなと思っています。
「実感」を求めて読書しているように思います。
赤柴♀(もも)は3代目。
この夏、有精卵からヒヨコ4羽を孵化させました。そろそろ大雛かな。♂x2、♀x2。ニワトリは割と人に懐くものらしいですが、今のところ、懐く気配はありませんw
この書評へのコメント
- ぽんきち2024-10-05 16:13ありがとうございます! 励みになるお言葉、ありがたく拝読しました。 
 
 ノーベル文学賞、今年はどの国の誰が選ばれるのでしょうかね。
 ウィキで見てみると、1901年以降、受賞作家の国の上位は、フランス、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、スウェーデン、ポーランド、スペイン、イタリアとなっており、言語別では、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、スウェーデン語、イタリア語、ロシア語となるようです。
 そうして見るとやはり欧米圏強し、という感じでしょうか。
 
 マイナー言語に関しては、よい翻訳者がいるかどうかは非常に大事なことだろうと思います。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。
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