ハルビン

　わかりにくいが、中央で帽子をとってこちらを見ているのが伊藤博文だ。かつてお札になっていたので見覚えがあるが。今の若い人たちはどうだろう。意外と背が小さい。この直後、彼は暗殺される。

　明治の元勲の一人で初代内閣総理大臣に就任。一度ならず初代・5代・7代・10代と四度も総理大臣を務めた。大日本帝国憲法起草の中心人物となり日清戦争の講和条約である下関条約の起草にあたった。初代枢密院議長、初代貴族院議長、元老といずれも初めてづくし、それだけマルチで何でもできたし、また、近代日本においては、何でもやらなければならなかった。百姓の息子から総理大臣になった彼は、今太閤と呼ばれた。

　安重根は伊藤博文とは逆である。朝鮮の両班出身で実家は大地主。開化派の父のもと、カソリック教徒として育つ。早くから結婚し子供もいた。もし、朝鮮と日本が全く関係を持たなければ、二人の立場は逆転しなかったかもしれない。しかし結果は史実の通りだ。

　伊藤博文は日本の宰相どころか、朝鮮の統監となり、早熟と噂された良家の息子は、日本の一部となった祖国で猟師として生きた。日本の保護国とされた後も、義兵を指揮して日本軍と戦うが、片や組織された軍、片や寄せ集めの民衆の蜂起となれば、勝敗は明らかだ。だから安重根は、中心人物を倒そうとする。しかし結局は、成功しても時代の流れは止められない。博文の変わりはいくらでもいるし、実際今度は朝鮮総督府が置かれた。京城の名称変更、皇国化教育、日本語の教育が進んだ。たった一人の行為で止められる流れではなかった。

　それは他の事についても言えることで、日露戦争で躍進した日本は、この後大東亜共栄圏に突き進む。何せ日本は神国でアジアのホープだ。負けるわけがない。負けていいはずがない。執念にも似た思いが、太平洋戦争で、カミカゼ攻撃を生む。

　重ねて言うが、安重根はカソリック教徒である。十字軍遠征の例もあるように、必ずしもキリスト教徒が武力を否定するわけではないが、殺人を戒める教えは基本中の基本である。それなのに彼は殺人者となった。息子には聖職者になることを遺言として残しているのだから、彼の心のうちは計り知れない。個人の信念など容易く押しつぶす時代の波が、敢えて彼を複雑な人に見せたのだろうか。