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DBさん
DB
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皇帝の治世と死後の評価の本
コンスタンティヌス帝といえば、「キリスト教の公認」と「コンスタンティノープルへの遷都」を世界史で習った記憶がある。
ディオクレティアヌスが四帝統治という手段で建て直したローマ帝国を、今度はキリスト教化することで支配を強化しようとしたイメージだった。
だが後のキリスト教国家が作り上げたイメージと実際は微妙に違ったんだなというのが本書を読んでわかりました。

コンスタンティヌス帝の父親コンスタンティウス帝がディオクレティアヌス帝によって西方の副帝に任命されたとき、コンスタンティヌス帝は二十歳くらい。
帝位の世襲を廃止しようとしていたディオクレティアヌス帝によって東方に留め置かれ、ディオクレティアヌス帝退位後に東方の正帝となったガレリウス帝によって戦闘に駆り出されていった。
だが戦争で死ぬこともなく脱出してブーローニュにいた父親のもとへ向かう。
その後西方の正帝であった父親亡き後その跡を継ぐ宣言をし、ガレリウス帝によって西方の正帝とされていたセウェルス二世、イタリア・アフリカ・ヒスパニアを手に入れていたマクセンティウス、マクセンティウスの父親でディオクレティアヌス帝と共に一度は退位したかつての正帝マクシミアヌス、ガレリウス帝により選ばれた西方の正帝リキニウスを倒して単独の皇帝となる。

息子のクリスプスの処刑と妻のファウスタの死は、コンスタンティヌスの母ヘレナが孫の死を悲しみその責任をファウスタに求めたためだというのが著者の見解だ。
だがその他の息子コンスタンティヌス二世、コンスタンティウス二世、コンスタンス一世に、甥のダルマティウスをあわせて四人の副帝を擁する帝位の世襲も視野にいれた体制を作り上げていく。

コンスタンティヌスとキリスト教ですが、当時は西方ではあまりキリスト教が浸透していなかったこともあり迫害をしないという消極的な公認だった。
それが東方を手に入れキリスト教の司教を政治体制の中に組み込んだのは、東方支配の足掛かりとしてちょうどいいという側面があったのかもしれない。
それでもキリスト教の方でも一枚板とは言い難く、後のカソリックとなるアタナシウス派とアリウス派、ドナトゥス派といった宗派に分かれて争っていたのをまとめようとしたのがアルルとニケーア公会議だった。
コンスタンティヌス帝としてはローマの神々やミトラと同列にキリスト教も置いて、親しい司教を何人か傍に置いただけだったのかもしれない。
だがキリスト教国となったローマではこのコンスタンティヌス帝が名君として崇められることとなる。

他にも通貨や税制、立法と軍事活動、それに重要なコンスタンティノープルへの遷都と様々な分野でコンスタンティヌス帝の治世を見ていきます。
活動的で自らの野心を隠すこともなく目標に向かって邁進し、三十年という安定した治世を布くことができたバランス感覚のよい人物像が浮かび上がってきました。
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DB
DB さん本が好き!1級(書評数:2034 件)

好きなジャンルは歴史、幻想、SF、科学です。あまり読まないのは恋愛物と流行り物。興味がないのはハウツー本と経済書。読んだ本を自分の好みというフィルターにかけて紹介していきますので、どうぞよろしくお願いします。

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